閑話:愛しのトニカ
トニカの初公演が始まる時間まで、ずっと同じところにうずくまっていたマルテは。
その間に、彼女と過ごした日々を思い返していた。
今日の公演が終われば、準備を始めなければならない。
トニカに不審がられないように、今日までつとめていつも通りに振る舞った。
そして、『ミキーと食事に行くから、迎えはいらない』と言ったトニカを見て、安心した。
マルテとの時間だけを望み続けた彼女が。
ようやく自分から外に目を向け始めた、と感じて。
このままいけば、自然とマルテが彼女のそばを離れることもできるだろうが。
残念ながら、そこまでの猶予はない。
少しだけ体調が持ち直したマルテは、傾き始めて赤く染まり始めた日の色を眺めて、重い体を持ち上げた。
そろそろ、入場待ちの人々が並び始める頃合いだ。
ゆっくり歩けば、後ろの方に座れるだろう。
マルテの顔を見れば、トニカの気が散る可能性がある。
「後、三月。ここから少しずつトニカと距離を置く」
マルテは歩きながら、黙ってついてくるラストに言った。
皮肉そうな物言いで、ラストが肩をすくめる。
「そして、トニカの気持ちを少しでも離す、か? 少しは頭が回るようになったな、マルテ。残念な方向にだが」
「憎まれ口しか叩けんのか」
マルテが殴り倒してやろうかと思っていると、それを見透かしたようにラストが少し離れた。
「素直な気持ちだよ。もう少し目を覚まして欲しいね。俺としては」
「そして、死ぬか。トニカの目の前で。……俺とお前は、満足だろうがな」
死んでトニカの負担になるくらいなら、捨てて憎まれるほうがはるかにマシだ。
それ以上は会話もなく、マルテは劇場に向かう。
後ろの左隅のほうに、なるべく自分の大きな体が目立たないように体を丸めたマルテは。
はたから見ればだらしないと感じられるだろう格好で、腹の上に手を置いて、深く椅子の背もたれに身を沈めた。
横に座るラストは優雅な仕草で座っているが、不意にその気配が希薄になる。
「自分が悪目立ちすることをよく知っている」
「トゲトゲしいのは君もだね。俺は好感の持てる女性には優しいのさ」
「持てない女は?」
「決まってるだろう。ベッドでオシオキだよ。俺好みになるようにね」
クック、と二人で喉を鳴らすと周りの客が少し反応したので、マルテは笑いをおさめた。
ラストが、心もち声を小さくしてまた話しかけてくる。
「君が、俺の冗談に笑ったのは初めてだね」
「……トニカが、笑うと喜ぶからな。最近は笑うことも多くなった」
冒険者になってから、笑うことなんか久しく忘れていた。
カステルのところで笑っていた日々は、懐かしさを覚えるほどに遠かった。
カステルとロザリンダの息子は、病気で命を落としている。
魔物の瘴気による病で、元々体の弱かったカステルの息子は瘴気が抜けるまで保たなかったのだ。
原因は、マルテの父親だった。
金と色にしか興味のない愚物が、カステルに呪いの品の解呪を求めた。
カステルは自分が見に行くから待て、と言ったのに、一刻も早くとさらに上乗せされた金につられた父親は王都にその品を持ち込んだ。
にも関わらず、自分の屋敷に呪いの品を入れることは嫌がり、直接カステルの屋敷に届けさせたのだ。
そのせいでカステルの息子は死に、愚物は呪いの品を王都に持ちこんだ責任を、あろうことかカステル本人に押し付けた。
王族の血に連なる父親に、カステルはなぜか、逆らうことすらせずに。
実質、危険な地域への追放であるアーテアの街のギルドへの就任を、受け入れた。
だからマルテは、自分に愛想をつかしていた。
あの父親とおなじ血が、自分に流れていることが耐えられなかった。
自分の友人を殺した、魔物も、父親も、なにもかもが憎かった。
友人が死んだ日、その足で父親を殺しに向かおうとしたマルテを止めたのは、ロザリンダだった。
あなたが手を汚しても、モンテは生き返らない、と。
カステルたちが王都から消えた後、マルテは野垂死にするために、冒険者になった。
そんな自分が。
「救いたい、と思ったんだ」
トニカのあの目に、惚れた時から。
なんの力もなく、助けを求めた少女を。
人にも世界にも絶望していた自分が。
「でも、俺が手を出すべきじゃ、なかった」
結局、自分のほうがトニカに甘えていただけだ。
無邪気に慕ってくれた彼女に。
こんな自分でも、誰かを救えるんじゃないかと。
幸せを欲して、くだらない真似をした。
「俺は、今でも自分が正しかったと思っているよ」
ラストはいつもと違う、悟ったような口調で言った。
「手は出すべきだった。そして今、君は逃げるべきじゃない」
「……逃げようとしているつもりはない」
トニカに、マルテを引き合わせたのは、ラストだ。
この悪魔の望みは、トニカを守る決意をしたマルテが魔王と対峙し、勝つことだったのだろう。
「トニカは守る。魔王には勝つ。……だが俺の心の安寧のためだけに、トニカを利用するような真似はしないと、決めただけだ」
「頑固だね」
トニカとともに生きる選択を、マルテ以外の誰もが望んでいることを、理解もしている。
だが、このままトニカのそばの居続けることを、自分が許せなかった。
「トニカを俺一人のものにしたいと、どれだけ思っているか。それでも、だ。ラスト」
「なにがだ?」
「トニカは、外を知らなかった。籠の鳥と同じだ。そんな少女に、俺一人のために、一生を捧げさせるのか」
「それを女が望むなら、応えてやるのが男の度量というものだと思うけどね」
開演の説明が始まる。
幕が開く。
そして、トニカが見えた。
長い髪をゆるやかに背に落として。
まっすぐに立って、目を閉じて軽く顔を伏せる彼女は。
途方もなく、美しかった。
ほう、と周囲から感嘆のため息がもれる。
俺は間違っていない、と、マルテはそれを見て思った。
トニカに外を見せてやりたかった。
俺以外にも、お前を認める者たちが、お前を愛する者たちが、数多くいるんだと。
その美しさを、笑顔を、可憐さを。
人を惹きつけてやまない彼女を。
誰よりも、マルテは知っている。
トニカはもう、男と見間違えるような孤児ではない。
なにもかも捨てて、全てを諦め、捨ててきた俺のような男の手の中に、閉じ込めておくべきではない。
トニカが歌い始める。
才気ある者たちの音にかこまれて、なお一層際立つ素晴らしい歌声に、圧倒される人々。
よく聞いた歌声のはずなのに、その歌に感動を覚えて。
マルテは、食い入るようにトニカを見つめる。
「お前は、もう、大丈夫だ……」
籠の鳥は、羽ばたいた。
マルテは笑い、体からさらに力が抜けて椅子からずり落ちそうになるのをラストの足が支えた。
体がかしぎ、肘掛けに頬杖をつくラストと肩が触れる。
「さっきもだが、やっぱり男に寄り添われるのは趣味じゃないな、契約者どの」
ラストはトニカを眺めながら、笑みを浮かべていて。
脂汗の流れる顔に無理やり笑みを浮かべながら、マルテも言い返す。
「……感謝してやるよ」
「いらないな」
そうして、トニカが歌い終えると。
喝采が、舞台の上の彼女に降り注いだ。
※※※
そして、聖夜の日。
いつも通りに振る舞おうと思ったのに、結局トニカに感づかれた。
感情に聡い彼女だ。
惜しむような口づけ一つで、疑問を持たれた。
だから、マルテはまたウソをつく。
マルテを信じる彼女の気持ちを、裏切ることと知りながら。
最後の最後まで、我慢がきかなくて、ふたたび口づけを。
情けない。
トニカの前では、いつもこうだ。
愚かだと分かっていても、彼女を求める気持ちを止められない。
だが、最後だ。
ーーーこのキスで、さよならを。
笑顔で手を振るトニカ。
マルテは、彼女の顔を、その姿を目に焼き付けて。
その場を去る。
髪が伸び、体つきも女性らしくなった。
すさんでいた目はもうその面影もなく、無邪気な光を宿していて。
小さな作りの顔立ちは、愛くるしく、ころころと表情を変える。
悩む時に、視線をさまよわせるのも。
困った時に、指をこすり合わせる仕草も。
ねだるようま上目遣いと、恥ずかしげな言葉も。
惜しみなく浮かべる笑顔も。
夜を共にした時の、とろけるような瞳も、声も。
ーーーもう二度と、目にすることもない。
だから、この記憶だけは忘れないように。
マルテは何度も何度も、彼女の姿を思い返した。
帰りにトニカを家に届けるのは、昨日、ミキーに頼んでおいた。
悲しむだろうな。
そう思いながらケーキを買い、巻物をしたためる。
神の言葉の後に、『お前と暮らした日々が俺の幸福だった』と書こうとして、やめた。
自分のトニカへの愛を語るのは、彼女を縛るだけだ。
文面を締めて、食事と木彫りを準備して。
マルテは家を出る。
ゴミのような自分の心は押し殺して。
あの宝石のような少女を愛した日々は、夢の時間だったと。
ーーーマルテは日が沈む前に、アーテアの街から姿を消した。
次話より本編も18時投稿に切り替えます。




