⑥マルテの、うそつき。
聖夜の日。
一日公演で聖歌を歌うために出かけるトニカは。
いつも通りマルテに、玄関先でちゅーをねだった。
「……?」
その感触に、トニカは軽く首をかしげる。
「どうした?」
いつも通りの顔をしているマルテがたずねるのに、トニカは首を横にふった。
「ううん」
マルテが送ってくれる間に、手をつないで。
外はくもっていて、ちらちらと白いものが舞っていた。
「珍しいね」
「積もらなければいいがな」
この辺りで、積もるほどの雪が降ることはめったにない。
空を気にするマルテの顔を見上げながら、トニカは考えた。
さっきのマルテのちゅーは、いつもと違った気がする。
お出かけ前のちゅーは、いつも触れるくらいの軽いものなのに。
今日は、そう、ベッドでするみたいな、吸いつくようなものだった。
長い時間じゃなかったけど。
どこか、惜しむみたいな色を感じて。
「ねぇ、マルテ」
「ん?」
「今日は迎えに来てくれる?」
少しだけ不安を覚えたトニカの言葉に、マルテは首を縦に振った。
「ああ」
なら、大丈夫かな、ってトニカは自分の不安を、気のせいだって思った。
今日が、前にした約束の終わりの日だから。
心配し過ぎている、のかもしれない。
本当は休みたかったけど、聖歌を歌うのは、さすがに断れなかったから。
「トニカ」
「?」
劇場につくと、マルテはいつもの裏口から少し外れた物陰に、トニカの手を引いていった。
「なに? マルテ」
「今日は、特別な日だろう? 出会って2年だ」
そう言って。
見上げるトニカのくちびるに、マルテがまた顔を近づけた。
触れた感触が離れると、トニカは口もとに手を当てて顔を伏せる。
「……外なのに」
「だから隠れている。誰もいない」
上目遣いに見上げると、マルテの笑みと、その後ろに雪の舞う空が見えた。
今日のマルテは本当にいつもと違うな、って、トニカは思う。
でも、トニカが何か言う前に、マルテが言葉を重ねた。
「今日はケーキを準備しておこう。前と同じのでいいか?」
「うん……」
一年前の聖夜、夕食の時にマルテがわざわざ買ってきてくれたそれを、トニカは初めて食べた。
すごく甘くて、美味しかった。
今日も一緒に食べてくれるって思って、トニカも微笑む。
「ありがと、マルテ」
「気にするな。……じゃあな」
トニカを劇場の裏口に送って、手を振るマルテに。
彼女は、ダメだろうな、って思いながら、きいてみる。
「今日も、見ていってくれないの?」
マルテは、少しだけ目をふせてうなずいた。
「何度も出歩くのは、今日はしんどくてな」
雪の中、コートのポケットに手を突っ込んで寒そうなマルテは、フォークを握るような手つきを示す。
「代わりに、ミートソースパスタも作っておこう。好きだろう?」
「うん。……無理しないでね」
手を振るトニカに背を向けて、マルテは振り返りもせずに行ってしまった。
結局、一度しか聴いてもらえてないな、って少し寂しくなって。
それでも、舞台で歌うからって意識を切り替えて。
トニカのために料理とケーキを用意して待っていてくれるマルテに届くようにって、聖歌を歌った。
そうして、帰りにマルテの迎えを待つトニカのところに、ミキーが来た。
「よ!」
「お疲れさま」
笑顔でうなずくトニカに、ミキーはニカッと笑みを浮かべて、なぜか立ち止まった。
「待たせてごめんね。行こうか、トニカちゃん」
「え?」
そう言うミキーに、トニカは戸惑った。
「……どこに?」
「どこにって」
ミキーがきょとんとして、道を指さす。
「トニカちゃん、今から家に帰るんでしょ?」
「そうだけど」
不思議そうな顔のままの、ミキーが。
トニカにとって。
とても不吉なことを、言った。
「マルテさんが『今日は用事があるから、帰りは送ってやってくれ』って言ってたから、来たんだけど。え? 聞いてないの?」
トニカは。
心ごと凍りついたように、固まった。
今日は用事がある?
しんどいって言ってたのに?
それよりも。
迎えに来てくれるって言って。
ーーーマルテは、うなずいたのに?
「……ウソ」
「トニカちゃん? あ!?」
気づけばトニカは、ミキーを置き去りにして。
雪の止んだ、日の暮れかけた道を、駆け出していた。
ウソ。
ウソだ。
だって、マルテ、迎えに来てくれるって……!
レンガ通りは、人が多くて。
2年前に、大きなカゴを背負って歩いていた時みたいに。
息を切らして走っていくトニカを、いろんな人が妙なものを見るような目を向けてくるけど。
全然、気にならなかった。
気持ちとは裏腹に、どんどん息が上がって、苦しくて、足が鈍る。
走っているのに、周りの音が遠ざかっていく。
トニカはいつもの脇道を通って、石畳通りにある集合住宅を……マルテがいるはずの部屋を見上げた。
窓が閉まっていた。
大きく脈打つ心臓の音ばっかり、大きくて。
息が苦しくて、胸をおさえながら。
走り過ぎて重たい足で、それでも、すぐにトニカは玄関に駆け込んだ。
階段を上がって部屋のドアに手を掛けると……鍵が掛かっていて。
トニカは自分の鍵を震える指で取り出して、鍵を開けた。
マルテ。
マルテ。
ーーーお願いだから、中にいて。
そう、何度も頭の中で繰り返す言葉も、むなしく。
部屋の中には、誰もいなかった。
しばらく、その場で呆然としてしまう。
なんでいないの。
なんで。
暖炉の火が消えて、でもまだあったかい空気の中に足を踏み入れて。
玄関脇のランタンの火を、つける。
少し明るくなった部屋の中を見ると。
冷めかけたミートソースパスタと、トニカの分のケーキ。
それに木彫りの花と、計算の練習に使った巻物が、テーブルの上に置かれていた。
トニカは、震えながら巻物に手を伸ばした。
そばに置かれた木彫りは、見覚えのある花だ。
可愛らしい、レンリの花。
いつもと違って、色までつけてある。
それは置いておいて、トニカは巻物をひらく。
『二年の契約は終わった』、と、いきなり、マルテの字で書かれているのが目に飛び込んで来た。
文面は、こう続いていた。
『俺は約束通りに旅に出る。
悪いが、契約の更新はなしだ。
もちろん、タダでとは言わない。
お前が俺を雇うと言った金貨20枚を、違約金として。
それに、2年前から騙すようにお前を抱き続けた代金として、さらに金貨10枚を。
木箱の中身を、置いていく。
トニカ・ルッソ。
怒るなら、怒れ。
恨むなら、恨むといい。
俺はお前のそばにはいてやれない。
今後、会うこともないだろう。
だがお前はもう一人ではない。
多くの人がお前を知り、お前を愛し、またお前を助けてくれる。
それだけのものを、お前は持っている。
俺は神を信じないが、一つだけ奴は良いことを言っていた。
お前の好きな俺の木彫りと共に、その言葉をお前に贈ろう。
ーーー『幸福とは、愛を与え、また愛を受けることである』。
多くの愛する人々と、幸せに暮らせ。
お前はもう、俺がいなくても生きることができる。
マルテ・ベルトラーニ』
トニカは巻物を読み終えて。
なぜか、涙も出てこなかった。
心が、痺れたみたいに。
ああ、マルテはいなくなったんだ、って思って。
巻物を置いて、ランタンを手にフラフラと寝室に向かった。
部屋の中にはコート掛けにコートはあったけど、マルテの大きな皮袋がなくて。
トニカは、置かれた木箱に目を向ける。
上に並べた木彫りの一つ、ベアードっていう魔物の木彫りに、見覚えのない鍵がかかっている。
それを手に取って、木箱の鍵穴に差し込んで回すと、カチャリと音を立てて錠が外れた。
開けた木箱の中には、大量の銀貨が入っていた。
トニカが2年間入れ続けたもの。
それを、何も考えずにかぞえ始めた。
1時間くらいかぞえたら、銀貨の底から金貨も出てきて。
かぞえ終えたものは、トニカが入れたものよりもはるかに多かった。
金貨10枚と銀貨が2073枚。
銀貨1000枚は、金貨10枚だ。
マルテが最初に、トニカに雇われると言った時の。
3倍の金額が、そこに入っていた。
「……分かってた」
薄暗くて寒い中で、トニカは誰にともなくつぶやいた。
この部屋の中に、彼女の声に応える誰かは、もういない。
「途中から、ちゃんと分かってた……マルテは、嘘つきだって」
普通に考えて、おかしかったから。
マルテに、家計簿を付けろと言われて。
計算が、おかしかったから。
だって、マルテがつけた家計簿からは。
トニカが彼を雇い続ける以上の金額が減っていなかった。
5日で、銀貨5枚。
トニカが家計簿を任された時に、貯金額から減っていたのはそれだけで。
食費とか、家賃とか、最初に揃えた家具とか、トニカの服のお金とか。
そういうものを買った時のお金は、家計簿に書かれてはいたけど、貯金から減ってなくて。
マルテが自分の言ったとおりに、トニカの金貨10枚からお金を出してたなら。
もっともっと、貯金額は少なくなってたはず。
ーーーマルテを二年も雇うには、本当は金貨10枚じゃ全然足りなかった。
「最初に、お金をくれた時に言ったことだって、ウソ……」
トニカは知っている。
ギルドで働いたから。
盗賊団退治は、一律金貨10枚。
マルテは言った。
トニカとマルテで、盗賊団を退治した金額を、半分ずつだって。
でも、退治した報酬の金貨10枚以外に。
マルテに渡された盗賊団の財産の一部が。
金貨10枚分も、あるわけない。
一割なら、せいぜい、銀貨30枚。
「マルテの、ウソつき……」
彼はトニカに、あの盗賊団を退治してもらえたお金を。
半分じゃなくて全部、渡してくれていた。
自分を雇う以外の、トニカとの生活費は。
本当は、きっと、マルテが最初から持っていたお金だった。
でも、聞かなかった。
だって、なんでマルテがそこまでしてくれるのか。
トニカは気づいていたから。
マルテが、トニカのことを大事に思ってくれてたからだって。
だから。
「マルテだって……私と一緒にいたいって、思ってくれてるって……」
信じてたのに。
そのまま、食事をする気にもなれなくて。
一睡もできないまま、トニカはぼんやりと長椅子に座って毛布を体に巻きつけて、朝を迎えた。
その間にドアが何回かノックされたけど、自分に関係のあることとは思えなくて。
ただ、窓の隙間からの光で、日がのぼったことは分かった。
「……行かなきゃ」
聖夜の次の日は、公演はおやすみだけど。
新年の祝いの、音合わせをする日。
舞台で歌うのは、マルテが望んだことだから。
ふらふらと外に出たトニカの部屋の前に、ミキーとアデリーナが立っていた。
ミキーは目の下にクマを作っていて、寝ていないみたいで。
心配したよ、と言って。
なんで出てこないの、って後からきたらしいアデリーナは怒ってた。
でも、なんだか二人が遠くて。
心の外側に、今までよりも分厚い殻ができたみたいで。
なんでもない、って言って、二人と一緒に劇場に向かった。
マルテは? って聞かれたけど、出かけてる、って言ったらそれ以上何も言われなかった。
楽譜を持って舞台に向かうと、まだ、誰も来てなくて。
アデリーナは着替えにいって、ミキーは支配人のところへ行った。
舞台のまんなかで、練習しなくちゃ、って思って。
譜面に目を落として、トニカは持ってきた楽譜が間違っていたことに気づく。
歌曲【遥かに隔てて】―――無意識に持ってきたのは、その楽譜だった。
耳に、マルテの音が聞こえてきて。
トニカは、歌い始めた。
―――そこで、涙があふれてきた。
今まで痺れてた分の感情が、一気に襲ってきて。
トニカは、心の嵐に呑まれた。
『この愛は涙の川に』ーーー歌曲の始まりの歌は。
トニカが吟遊詩人から聞いて、最初に覚えた歌。
愛する人との。
どうしようもない別れの歌だ。
ああ、と。
トニカは、不意に気づく。
この歌は、私の歌。
この気持ちは、私の気持ち。
―――私はマルテを、愛しているんだと。
失った今に、なって、気づいた。
喉が、ひく、と鳴って、トニカは歌えなくなる。
「ま、るて……」
涙は止まらない。
涙と一緒に流れ続けるこのどうしようもない感情を、抑えることが出来なくて。
「マルテ……マルテぇ……!」
トニカは、力の抜けた腕から楽譜を周りに撒き散らして、舞台の上で彼の名前を呼んだ。
どこに行ったの。
なんでそばにいてくれないの。
お金なんか、いらないのに。
マルテがいてくれれば、貧乏だって。
家なんかなくたって。
この街で暮らせなくたって。
―――そばに居られれば、それでよかったのに。
トニカは、賢くないから。
だから、マルテの気持ちなんて。
「お、教えて、もらわなきゃ……!」
なんでも教えてくれたのに。
なんで、自分のことは、何も話してくれないの。
なにか理由があるなら、なんで言ってくれなかったの。
「言って、くれなきゃ、わからないよぅ、マルテぇ……!」
トニカは、次から次にあふれる涙がつたう頬に、握り拳を当てて。
子どものように、声をあげて、泣いた。
あなたがいなくても、生きられる?
そんなのうそだよ、マルテ。
だって、あなたがいなくちゃ歌えない。
幸せになる?
そんなのむりだよ、マルテ。
だって。
マルテと暮らすことが。
私の、幸せだったのに。
―――それ以外のものなんか、何もいらなかったのに。




