②聖夜の契約
ゴン、と顔に感じた衝撃に、トニカは吹き飛ばされて尻もちをついた。
しびれはすぐに痛みに変わり、トニカは頬に手を当てながらそれに耐える。
そして、彼女を殴った相手に目を向けた。
「パンが一つ足りねぇ、だと?」
男たちの中で金勘定を預かっている男が、下卑た笑みでトニカを見下ろしていた。
彼女と勘定役の男がいるのは、男たちの、そしてトニカ自身の住む半地下の大部屋。
たまり場兼食堂になっている部屋の一角にある、キッチンだった。
殴られたトニカを、気にする者はいない。
いつもの事だからだ。
でも、顔を殴られたのは久しぶりだった。
傷にならないといいな、と思う。
ブスでソバカスだらけの顔でも、大事な、自分の顔だ。
「ちょろまかして食ったんじゃねーだろうな?」
「……そのパンの分の金、今、渡した。パンが売り切れだったんだ……」
「ほぉ」
勘定役の男は、カゴの中のパンをひょいと取り上げて、これ見よがしにながめた。
「なーんか、いつもより出来の悪いパンじゃねぇか?」
「……ちゃんと、いつもの店で買ったよ」
なるべく、感情をおさえてトニカは言う。
口ごたえの仕方を間違えたら、それも殴られる理由に、なる。
そうでなくても、見上げる男の目の奥には、トニカをいたぶってやろうと思っているのが分かる、色があった。
体が震えそうになるのを押さえつけながら、彼女は目を伏せる。
分かっている。
この男はただ、帰りの遅かったトニカにケチをつけて、殴りたいだけなのだ。
どうせ殴られる。
いつも通りに帰ったところで殴る。
言いつけ通りに何をしても、殴る。
それでも、暴力を受けるのは、嫌で。
「いいや、俺が悪いと言ったらいつもより悪いんだ」
理由なんかあってないその暴力をトニカに振るうために、男はパンを置いた。
ゴキゴキ、と鳴らされる指の音に、絶望する。
痛いのは、嫌だ。
嫌だよぅ。
「お前は金をチョロまかした。嘘は良くねぇな」
男が、トニカの服の胸元をつかんで無理やり引き起こした。
振り上げられた拳に、とっさに両手で顔をかばってしまう。
顔を殴られる代わりに拳を受けた腕の骨がきしんで、トニカは思わず呻きをもらした。
トニカの行動に、男の声が変わる。
「おい。何、抵抗してんだ、クソブスが」
「あ……」
気分を害してしまった。
でも、恐怖に耐えるトニカの口からは、何も言葉が出ない。
トニカを力任せに放り出した男が、今度はトニカの腹を蹴りあげた。
「しまいに犯すぞ、このクソガキが!」
息がつまる。
お腹の中で、何かが爆発したように呼吸ができなくなる。
「げ、げほっ……!」
苦しくて、えづきながら転げ回る。
痛い。
痛いよう。
苦しい、よぅ……。
「俺らのおかげで、生きてられる分際でよぉ」
体をまるめるトニカの背中に声が降ってきて、今度は背中が押し潰されるかと思うような勢いで、踏み潰された。
「……!」
一つパンが少ない、それだけの、理由で。
そのパンは、トニカの食べるものなのに。
しかも、どうでもいい理由をつけて取り上げられる事も多いのに。
そんないつも通りだと思えば良いと思ったのに。
結局、痛い思いを、させられる。
「ぅ……」
涙で視界がにじむ。
痛みと苦しみで浮かぶ涙だけは、どうしようもない。
でも、泣くもんか。
泣くもんか。
苦しすぎて、意識が薄れてくる。
何度も何度も男の足が蹴り下ろされて、そのたびに骨が、ミシっと音を立てた。
「おいおい、犯すってよー」
「女に飢えすぎだろ。賭けに負けて娼館に行く金もねーのかぁ?」
「うるせぇ! ただの言葉のアヤだろうが! 誰がこんな薄汚ぇドブス抱くか!」
「だよなぁ!」
男の暴力が激しさを増すが、飛ぶのはそんな笑い混じりの声ばかり。
でも、トニカがまともにものを考えられたのは、そこまでだった。
視界のはしが黒く染まる。
苦しい。
苦しい。
お願い。
だれか、たすけて……。
体を襲う痛みが、叩きつけられる蹴りが、遠くで響くようにしか、感じられなくなる。
でも不意に、その響きが止んだ。
止んだ、と思ったのと同時に、トニカは気絶した。
そして次に目覚めた時にはーーーマルテが、目の前にいたのだった。
※※※
「お前の取り分だ」
ドサっと重い音を立てて置かれた小さな皮袋。
そこからのぞいた金貨と銀貨を見て、トニカはベッドの上で息を呑んだ。
マルテは、歩けないトニカを背負って救護院へ向かった後。
怪我をしているトニカを看護人にあずけて無言で出て行ってしまったので、彼女は不安を感じていた。
治療をしてくれた医者におそるおそる支払いの事を聞いたら、マルテが金を払っていった、と言うのでおとなしく治療を受けて。
再び訪れた彼がいきなりサイドテーブルに置いたのが、その銀貨の皮袋だったのだ。
「これ……」
「お前を使っていた連中は、盗賊だった」
マルテが椅子に腰かけながら、ぶっきらぼうに言う。
「懸賞金と、盗賊団を壊滅させた冒険者へ渡される奴らの財産の一部。それを、お前と俺で半分ずつだ」
意味が分からなかった。
なんで、それをアタシに? としか思えない。
「あ、アタシ何もしてない……」
うす暗い、ロウソクだけが照らす板敷きの病室。
静かな中で、自分の息づかいの荒さだけが響いている。
マルテが体を動かすと、ギシ、と椅子のきしむ音が大きく響き、トニカはビクッと肩を震わせた。
「何もしていない、ということはない。お前を追いかけたから、盗賊団を見つけることが出来た」
「追いかけ、た? 何で?」
マルテは薄暗い中では、ひげもじゃな容貌のせいで表情が読めない。
沈黙してしまうマルテに耐えられなくて、トニカはさらに口を開いた。
「や、やっぱり泥だらけのパンは、いらなかったのか?」
「……」
パンを渡した時には口にしなかった質問を伝えるが、マルテはまだ無言だった。
不安に思いながら、トニカは言葉を続ける。
「金を返せって言われても、アタシ持ってない……」
「……いらん。それなら金を渡すわけないだろう」
ボソリと言われた一言に、トニカはまた、肩を震わせた。
マルテが怖い。
トニカには、何をどうしたらいいのか、彼が何を考えているのか、全然分からない。
分からないから、少しでも恐怖をまぎらわすために、訊いた。
「じゃあ、何で追いかけて来たんだ……?」
震えそうになる声を押さえて言うと、マルテはため息を吐いた。
なにか、間違ったことを言っただろうか。
「……パンの礼を言う前にお前が逃げた。相方の態度もいただけなかった。追いかけた理由はそれで、金は詫びだ」
そっけない物言いに、最初は内容が頭に入って来なかった。
れい? わび?
汚れたパンを一つ売っただけなのに、と、あの部屋での疑問がまたぐるぐると渦を巻く。
蝋燭の火が揺れ、マルテの顔を少しだけ浮かび上がらせたが、やっぱり、マルテは無表情のままで。
「その金があればしばらく働かなくても過ごせるだろう。後は好きに生きろ」
それだけ言い置いて立ち上がった彼に、トニカはあわてた。
「ど、どこ行くんだよ?」
「俺は旅に戻る。アーテアの街へは、森へ向かうのに立ち寄っただけだ」
マルテは冒険者? とトニカは思った。
アーテアの街は魔性の森の近くにあり、魔性の森は今も少しずつ切り開かれている。
成功者だけがこの街に残り、以前は存在した一攫千金を狙ったり生きるために戦うような冒険者は、開墾された土地に出来た、もう一つ先の街に移住していた。
まだ名前のない新たな開拓者の街、そこをマルテは目指しているのだろう。
立ち上がった彼は、トニカに渡すと言った銀貨が入ったのとは別の、最初に背負っていた大きな皮袋を肩に掛けた。
ギシ、ギシ、と床を鳴らして病室から出ていこうとする彼に、頭が回らないまま、トニカは。
「あ……」
思わず、手を伸ばした。
しかし、続く言葉が見当たらない。
何を言えばいいのか、分からない。
でも彼女の声が聞こえたのか、マルテが振り向いた。
何か言わなきゃ。
何か。
「あの……分かんない……」
結局口から出たのは、そんな言葉だけだった。
引き留めてどうするのか。
彼は冒険者で、たまたまトニカを助けてくれただけの男だ。
トニカは自分が泣きそうな顔をしている事に気付き、手を下ろしてうつむいた。
泣いちゃダメだ。
身にしみついた考えから、涙をこらえて、トニカは降ろした手で毛布を握りしめる。
体に掛けられた救護院の毛布は。
今までの、薄汚れて包まってもちっとも暖かくなかった湿った毛布と違って、ふわふわで。
トニカは不意に、自分がとても場違いなところにいるような気がした。
「ごめん……何でもない……」
しばらくドアの前で立っていたマルテは。
何を思ったのか再び戻ってきて、トニカに問いかけた。
「分からないって、何がだ?」
「……」
今度はトニカが黙る番だった。
立ったままのマルテの足が、見える。
目を覚ました時に最初に見えた大きくて汚れたブーツが。
ーーーマルテはアタシを、助けてくれた。
トニカは、そう思った時には、声をもらしていた。
「住む場所、とか……もともと住んでいた部屋には、戻れないだろうし……」
きっと、戻ったところで、持ち主か誰かに追い出される。
「この金で借りれば良い」
対するマルテの言葉は明快だった。
銀貨を示す手は、同時に、トニカを突き放しているような気がした。
そう、借りれば良い。分かっている。
でも。
「どうやって、借りるんだ……?」
そんな方法は知らない。
だって今まで母親に連れられて流れていて。
男たちに拾われてからは、ずっとあそこに住んでいた。
拾われるまでの間は、野宿だった。
「……生活の仕方が、分からないのか?」
トニカは、こくりとうなずいた。
食事を作ったり、洗濯したり、つくろいものをしたり。
そういう日々の事は、出来る。
でも、トニカはお金を稼ぐ手段を知らない。
市場以外の場所で、買い物をしたこともなかった。
生きるのに、ゴミ漁りをしたくないなら、そういうものが必要だって事くらいは分かる。
でもトニカは、どこへ行けば仕事や家が手に入るのかを知らなかった。
「マルテ……好きに生きる、って、どういう事なんだ……?」
今までの彼女は、好きに生きた事なんかなかった。
逃げたいと思っても、逃げてどうしたら良いのかなんて、分からないくらい、トニカは何も知らない。
トニカは途方に暮れていた。
たまたま出会って優しくしてくれただけのマルテにすがってしまう程に。
「ごめん、あんたに言っても仕方ないよな……引き止めて悪かった……」
マルテは、そんな彼女の様子に何を思ったのか。
ふー、と大きく息を吐くと、また皮袋を下ろして椅子に座った。
上目遣いにちらっと見ると、マルテはトニカをジッと見つめていた。
「3日で、銀貨5枚」
「え……?」
トニカがビックリして顔を上げると、マルテは相変わらず感情の浮かばない声で淡々と告げた。
「俺が傭兵や便利屋として雇われる時の値段だ。ここに金貨が10枚、銀貨が30枚ある。この内の幾らかで、俺を雇うか」
マルテが指差したのは、トニカの取り分だと彼が言った皮袋だった。
「払うなら、お前に生き方を教えてやる。最低限大丈夫だと思える程度にはな。だが俺はその間、大きな金を稼げない。行商にくっついていくなら途中で魔物を狩ることも出来るが、この街に住むならそれもままならない」
トニカは、マルテの提案がどういう意味なのか、全く分かっていなかった。
「そして俺は悪魔憑きだ。それでも契約を結ぶか。結ぶなら、普段と違って交換条件も出す事になる」
悪魔憑き……というのは、何なのだろう。
トニカは知らなかった。
悪魔、というのは、魔性の森の向こうにいる魔王の手下で、強い力を持っている人間の敵だ。
その悪魔が、マルテに取り憑いているという事なのだろうか。
でも、そんな話は聞いたことがないし、それよりも気になる事がトニカにはあった。
「交換条件、っていうのは……?」
生きる方法を教えてくれるというのなら、聞きたかった。
教えて欲しかった。
だから訊ねて、その答えを聞いて。
トニカは、頭の中が真っ白になった。
「俺が悪魔憑きだと触れ回らない事。そして一緒に住み、その間は俺の言うことを聞く事」
一緒に住んで、言うことを聞く。
トニカはその言葉に安堵した。
安堵して、しまった。
何故なら。
誰かの言うことを聞いている生活は。
それは……今までの、トニカの生活と同じだったから。
「……わかった」
何も考えなくていい。
少なくとも今は。
その安堵感で、頭が真っ白になったのだ。
トニカが即答した事に対しては、マルテは何も言わなかった。
ただ、今度こそ本当に立ち上がり、部屋から出て行った。
「明日、また来る」
そうとだけ言い置いて。