閑話:マルテの狙い
公演の当日。
控え室でトニカに会い、開演まで時間を潰そうと外に出たマルテがレンガ通りを歩いていると、一人の男が現れた。
「よう。暇そうだな」
「……何しに来た」
うめいて顔を歪めるマルテに、レンガ通りに現れたコートの男……ラストは、軽く肩をすくめる。
相変わらずのニヤニヤ笑いで、ちっち、と舌を鳴らした彼は、マルテの進路を塞いだ。
仕方なく立ち止まると、ラストは質問の答えを返す。
「女待ちさ。お高い女でね」
「お前の相手をする気分じゃない」
無視して、ラストを回り込むようにマルテは歩き出そうとしたが。
もたれかかるように正面から彼にぶつかったラストは、楽しそうに喉を鳴らす。
「君はいつまで経ってもつれないな、マルテ」
「どけ」
「トニカの晴れ舞台だぜ。どうせ一緒に見るんだ、少し話そうぜ」
ねばりつくような声に、マルテは全身に力を込める。
「……お前も見るのか」
「これだけ尽力したのに、俺からお楽しみだけ取り上げるのはナシだ」
マルテは、ラストの言葉に舌を鳴らそうとして。
ふいに覚えためまいに、ふらついた。
「おっと。無理するなよ。壁にでももたれていろ」
「余計な……お世話だ」
言いながらも、体を支えるラストを振りほどけば、そのまま倒れこむかもしれないと思ったマルテは。
めまいが収まるまでの間に、ラストに連れられて道の脇に連れて行かれる。
「なかなか楽しいことになってるな。風邪ひとつひいたことのない男とは思えない」
お前のせいだろうが、と言いかけたマルテは、その言葉を呑み込んだ。
願ったのはマルテだ。
全てが、ラストのせいではない。
「トニカを抱く時だけは元気なふり。意固地もそこまで行けば大したもんだと思うね」
「……」
悪趣味な人外に、マルテは拳を握りしめた。
トニカを抱く時だけ元気なのは。
この悪魔が、どこかから見ていてマルテの精気を吸う量を変えているからだと、マルテは思っていた。
「それで、どうするんだ? マルテ」
「予定通りだ。変えるつもりはない」
壁にもたれて、ようやく治まりかけためまいに大きく息を吐いたマルテは。
ずるっと、その場に腰を落とした。
どうせ見てるのは、横に立つラストだけだ。
道端で座り込む浮浪者なんて、この街では珍しくもない。
「本当にそれでいいのか?」
「……一度決めたことだ」
マルテは、ある時から、ラストに精気を吸われて続けていた。
月日が経つごとに体力が失せ、それは重い疲労となってマルテにのしかかっている。
理由は、トニカの歌声だった。
「自分の寿命を差し出す代わりに、トニカに奇跡の歌声を。悪魔の願いを、自分以外の誰かのために使う奴なんて初めて見たよ」
「黙れ」
どこまでもからかうようなラストに、マルテは苛立った。
一気に死を迎えないのは、ラスト自身に約束があるからだ。
悪魔は嘘がつけない。
魔王ウェアウルフとの約束は、マルテとラストが、共に奴の元へ訪れる事で。
その時まで、マルテを死なせることが出来ないからだ。
彼にとっても、その方が都合が良かった。
徐々に縮まる寿命と、失われていく体力。
猶予の時間は、普通は恐怖と地獄の責め苦にも等しいだろうが。
時間があったことで、マルテはトニカに歌う喜びを、自信を、そして共に過ごす人々を与えることができた。
胸元を探り、細い紐で首から吊るしたものを取り出す。
トニカが、マルテへのプレゼントだと言って買ってきた、貴石の編み輪。
最近は、ワガママを言えるくらいになったトニカの顔を思い浮かべながら撫でて、マルテは微笑む。
「後は俺が消えればいい。カステルも、ロザリンダも。ミキーも、アデリーナも、支配人も。話に聞く仲良くなった劇団の者たちも、トニカを支えてくれる。……俺はもう、必要ない」
それが、マルテの狙いだった。
トニカは彼に依存していた。
それは、ほかに誰もいなかったから、だ。
それでもトニカは、マルテがいなくなったら悲しむだろう。
そのくらいのことは、マルテにも分かる。
だが、トニカはもう、一人きりにはならない。
マルテは、審査の日のことを思い出していた。
※※※
マルテの演奏を聴き終えて、支配人は難しそうな顔をしていた。
「驚いたわね。トニカほどじゃないけど、十分すぎる素質だわ」
そう呟いたのは、チェンバロの前に座ったアデリーナ。
「ふぅむ」
静まる部屋の中で、感心したように顎を撫でるのは老齢の男性。
しかしマルテは、支配人に特に感情を動かすこともなく告げた。
「もし取ろうと思うのなら、悪いが落としてくれ」
マルテの言葉に、審査員たちがざわめき、支配人は不審そうに背中を反らして机の上に手を置いた。
「なぜですか? あなたの演奏は、広場で聞いた時よりも格段に音が良くなっている。これなら……」
「事情がある」
マルテは支配人の言葉をさえぎって、きっぱりと言った。
手元の、付き合ってくれたチェロを撫でる。
ここから先、ほとんど触れることもないだろう相方に心の中でねぎらいの言葉をかけながら、話を続けた。
「トニカにはどうしても審査を受けさせたかった。だから申し出を受け入れはしたが、俺は受かるつもりがない」
その言葉に、幾人かは反感を持ったようだった。
当然だろうな、とマルテは思う。
普通は、演奏家なら喉から手が出るほど求めるだろう立場を、足蹴にする発言だ。
だが、マルテがわざわざ演奏してみせたのは、出てくるまでの時間が短すぎるとトニカが不審に思う可能性があったから、以上の意味がなかった。
付き合わせた連中には悪いが、マルテはトニカのためだけに動いている。
「……惜しいわね。でも、仕方がないんじゃないかしら?」
そう言うアデリーナは、気の無い人間を無理に引きとどめるようなタイプには見えず、思った通りにマルテを支持した。
反感を持ったらしき数人も同調し、老齢の男性と支配人が目を合わせる。
かすかに頭を横に振る老齢の男性に、支配人はうなずいた。
「では、落選ということでよろしいですか?」
「ああ。感謝する。付き合わせて悪かったな」
マルテは軽く口もとに笑みを浮かべてから視線を下ろし、椅子から立ち上がった。
丁寧にチェロをしまい、その場を後にしようとするマルテに、アデリーナが声をかける。
「あなた、それだけの腕を持ちながら、人に音を聞かせたいとは思わないの?」
その問いかけに、マルテは口に出しては答えなかった。
ただ、心の中で返事はする。
ーーー俺が演奏したいと思う相手は、トニカしかいない、と。