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このキスで、さよならを。  作者: メアリー=ドゥ
第4話『歌姫に限りない温もりを』
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④願いが叶う時


 夏も過ぎ、秋が来て。

 トニカはその日、迎えに来たマルテに笑顔を浮かべて、大きく手を振った。


「マルテ!」

「どうした?」


 トニカに対して、小さく微笑んでうなずいたマルテは、近づいてみるとなんだか顔色が悪かった。


「マルテ、大丈夫?」

「何がだ?」

「具合が悪そうだけど……」


 トニカが心配になってたずねるのに、マルテは軽く肩をすくめた。


「普段どおりだ。行こう」

「うん……」


 二人で連れ立って歩き出すと、劇団の皆があいさつをしてくる。

 それに答えながら、石畳通りに入って、トニカはちらっとマルテの顔を見上げた。


 トニカは、ここ最近、マルテの様子がおかしいと思っている。

 

 前は、絶対にトニカより早く起きていたのに、寝坊することが増えた。

 椅子に座っているマルテをふと見ると、どこか辛そうな表情をしていたり。


 そういう時に同じようにたずねると、いつも決まって『なんでもない』って返事をする。


「明日は仕事に行く。送り迎えはしてやれない」


 マルテがぽつりと言い、トニカは思わず言ってしまった。


「……少し、休んだほうがいいんじゃない?」


 マルテが、眉を軽く上げる。

 今まで、トニカはマルテの仕事に口出ししたことはなかった。


 でも。


「あんまり、元気じゃなさそう」


 トニカがマルテの手をそっと握ると、手はすごく冷たい。

 まだ、外で待っていてもそこまで冷える季節じゃないのに。


「そういうわけにも、いかない」


 答えるマルテは、手を振りほどいたりしなかった。

 そして、いつも通りに笑っているつもりなんだろうけど。


 顔に、濃い疲れがにじんでいるように、トニカには見えた。

 マルテの仕事のペースは、前とそんなに変わってないはずなのに。


「それより、今日はどうした?」

「え?」

「出てきた時、いつもよりうれしそうな顔をしていた」


 マルテに柔らかく言われて、トニカは思い出した。

 彼はこうやって、トニカのちょっとした違いにも敏感に気づいてくれる。


 でも、トニカのほうはマルテの様子を見ていても、今はふつうに感じられて。

 疲れているみたいなのが、自分の気のせいなのかな、とも思える。


 ーーーそんなことは、ないと思うんだけどな。


 そう心の中で思いながら、今日の出来事をマルテに報告する。


「うん、あのね」


 トニカは、精一杯笑顔を浮かべて、マルテを見た。

 これを聞いて、少し元気になってくれるといいな、と思って。




「専属劇団員に格上げになって、初公演がね、決まったの! 私が、メインで歌うんだよ!」




 トニカの言葉に、マルテが目を丸くした。


「早いな」

「うん! 劇団でも異例の速さだって言ってた!」


 マルテは、すぐにおどろきから覚めて。

 何度もうなずきながら、トニカの頭を撫でた。


「そうか。……頑張ったな」

「うん」


 マルテの顔も嬉しそうで、トニカも気分がまた上向いてきた。

 きっと、彼が疲れているように見えたのは、気のせいなんだって思えてくる。

 

 トニカが、劇場に立って歌う。

 それも、いきなりトニカがメインの歌曲で。


 マルテが望んだとおりに、トニカは舞台に立つ。


「アデリーナがね、チェンバロを弾いてくれるんだよ! アデリーナ、人に合わせるのもすごく上手になったの!」

「そうか」


 アデリーナは無事にミキーと付き合い始めてから、音がすごく柔らかくなった、って言われてた。

 それまでの攻撃的な弾き方じゃなくて、音が変わったことに不満そうな人もいたけど、ベルナルド先生は深みが出た、って褒めてたし。


 マルテは、そんなトニカの話を丁寧にあいづちを打ちながら聴いてくれた。

 だからトニカは、マルテにおねだりする。


「明日ね、劇場の練習お休みだから、最初の歌をマルテのチェロで歌いたい!」

「俺の? ……弾ける曲ならいいが」


 トニカは指を軽くこするマルテに、大丈夫、と請け負った。

 だって、絶対に弾ける曲だから。


「最初の曲はね、マルテ。『この愛は涙の川に』だよ!」


 トニカが歌うのは、歌曲【遥かに隔てて】。

 『この愛は涙の川に』から始まる、悲恋をつづった歌曲だ。


 この歌曲は、トニカにとって思い出深いものだから。

 どうしても、初公演で歌いたいって、お願いした。


 でも、トニカが曲名を口にすると。

 マルテは、きゅ、と口元をひき結んだ。


 ーーーどうしたんだろう?


 そうトニカが思った時には、もうマルテはいつもの顔に戻っている。


「なら、大丈夫だろうが……もう俺の音じゃ満足できないんじゃないか?」

「そんなことないよ! 上手な人たちと一緒にやってたって、マルテの音が嫌いになるわけじゃないんだから!」


 トニカは、ムキになって反論した。

 最初にトニカのことを歌わせてくれたのはマルテで、劇団に入ってチェロの奏者の音を聞いても、やっぱりマルテの音が好きだと思っていた。


 トニカは、それも不思議だった。

 だってマルテの音は、劇団の人よりもたしかに上手ではないけど、音の豊かさや深みはマルテの方が上だと思う。


 なんで落ちたんだろう、って、トニカはずっと疑問に思っていたけど。

 支配人やベルナルド先生たずねても、彼は向かない、というばっかりで。


 マルテの音は、あんなにも心に響くのに、って。

 アデリーナに訴えても、いつも快活なアデリーナが、その話題の時だけは困ったような顔をして黙る。


 誰も何も言ってくれないけど、トニカは、マルテの音が好きだった。


 その音を出せるマルテが。

 それはずっと変わらないと思う。


 だから、家に帰りついて、トニカはマルテに抱きついた。


「どうした」

「……ねぇ、マルテ」

「ん?」


 男として好きっていう気持ちが、今のトニカの気持ちをあらわす言葉なのかどうかは、まだ分からないけど。

 こうして、抱きつきたい、って思うのは、嘘じゃない。


「公演、聞きにきてくれるよね?」

「当然だろう。それを一番楽しみにしているのは、俺だ」


 マルテの声は、本当に嬉しそうで。

 ちゃんとトニカを抱き返して、背中を撫でてくれた。


 マルテの服に顔をこすりつけて、その匂いに安心する。

 土と木と、少しの汗の匂い。


 大きくて、いっつもトニカのことを考えてくれるマルテ。

 

「マルテ。あの、ね?」


 トニカは、自分から言い出すのは少し恥ずかしくて。

 マルテの顔を見上げて、目で訴える。


 今日は、湯屋にもまだ行ってないけど。

 マルテを感じたくて。


 そんなトニカの気持ちを、彼はちゃんと察してくれた。


 今日は、週に一度の日で。

 前の時は乙女の日になっちゃったから、出来なくて。


 でも今日は、ワガママ言って、お祝いしてもいい日だと思うから。


 トニカが、つま先で立って手を伸ばして、マルテの顔に触れると。

 彼は身をかがめて、その首に抱きついたトニカの耳元でささやいた。


「……無理に、しなくていいんだぞ?」

「いつも、無理になんかしてないよぅ……ずっと、我慢、してた、よ……」


 尻すぼみに言葉が小さくなるトニカに、マルテが笑う気配がする。


「ならいいが」

「でも、マルテ、具合悪いなら……」


 今日も我慢する、と、言いかけると。

 マルテが顔を上げて、トニカのくちびるをふさいだ。


「ん……」


 顔をはなしたマルテは、トニカの頬をなでる。

 彼の、今の柔らかい目は、なんていうんだろう。


 ずっと、時折見ては気になっていた。

 トニカが甘えたり、すねたり、いつもと違うことをすると、マルテが見せる目。


 それは、アデリーナがミキーをみ見る目とも違って。

 街で見かける、お母さんが赤ちゃんを見る時みたいなその目のことを、誰かが口に出して言っていたような気がする。


 優しい、じゃなくて。

 そう……いとおしそうな、だ。


 いとおしそうな、目。

 その目で見られると、息が上がってくる。


 そんなトニカに、マルテが言う。


「具合が悪い、なんて誰が言った? 俺はいつでもお前の可愛らしい歌を、ベッドの中で聴きたいと思っている」

「もう……そういう恥ずかしいこと、口に出して言わないでよぅ……」


 今日は声を出すの、我慢してやる、と思いながらトニカが目を伏せると。

 また顔を寄せて来たマルテに、耳を軽く噛まれた。


「ひゃぅ……」

「我慢できると思ってるのか?」


 見透かしたように言われて、トニカはくすぐったさに身をよじるけど、

 また耳を舐められて、体から力が抜けた。


「す、するもん……んっ!」


 何度も何度も。

 そうして、腰くだけになったトニカを、マルテが抱き上げる。


 無精ヒゲの生えた精悍な顔に、獲物を狙う獣のように大きな笑みを浮かべていた。

 

 背中が、ゾクゾクする。

 怖いんじゃなくて、その顔に、激しさを予感してしまう。


「無駄な抵抗は、やめることだ」

「う……ん」


 マルテの腕も、言葉も、力強くて。

 具合が悪そうだったのは気のせいなのかな、って思いながら。


 トニカはベッドに運ばれながら、マルテの腕に完全に身をゆだねた。


※※※

 

 そうして迎えた、初公演の日。


 背中の中ほどまで伸びたトニカの髪は。

 床屋で熱を当ててもらって、緩やかにウェーブがかかっていた。


 トニカはアデリーナの手を借りていつもより濃い化粧をして、公演のために仕立てた薄い空色のドレスを身にまとっていた。

 最初にマルテに買ってもらった服のスカートが青色だったから、トニカは、青が好きだった。


 だから空色のドレスはうれしかった。

 舞台の強い照明の中では、薄い青は白く見えるって、ミキーが言っていた。

 

 ーーー私自身みたい。


 トニカは思う。


 外から見える白いドレスのトニカは、歌手のトニカ。

 お客さんは知らない青色のトニカが、本当のトニカ。


 舞台袖に立ち、緞帳(どんちょう)の隙間からそっと客席をのぞくと。

 半円形の会場の中は、お客さんでいっぱいだった。


 広場で、審査で、そして劇場で。

 トニカの歌を聴いたことのある人や、トニカの歌声を認めてくれた人が、お客さんを集めたんだ、って支配人が言っていた。


 あまりの人の多さに。

 トニカの心臓が、どくん、とはねる。


 広場で、最初に歌った時みたいに。

 でも、今は後ろの、マルテはいない。


 代わりに。


「いつも通りに歌えば、大丈夫よ」


 そっと、声をかけてくれたのは、アデリーナだった。

 振り向いたトニカは、薄暗い中で肩にそえられたアデリーナの手をたどり、力強い笑みを浮かべたアデリーナを見る。


 彼女は、長い金髪を巻き上げて華やかに髪を整えていた。


「そう言ってあげてって、さっきマルテが、控え室でこっそり言ってたの」


 片目をつむったアデリーナに、トニカは自分の気持ちが少し落ち着くのを感じる。

 

 マルテは、同じ場所にいないけど。

 彼の気持ちを感じて、嬉しくなる。


 いつも、助けてほしい時に、そこにいてくれたマルテ。


「マルテ、見ててくれるかなぁ」

「そそ、そりゃトニカちゃんの晴れ舞台だし、見に来てるに決まってるじゃない」


 アデリーナの後ろから現れたミキーが、青白い顔をしている。

 

「ちょっとどうしたの、その顔」

「とと、トニカちゃんとアデリーナが俺の作った舞台で歌うって思うと、なな、なんか緊張してきて!」

「なんであなたが緊張するのよ」


 アデリーナが、仕方がない人ね、と言いながらミキーの肩にも手を触れる。


「あなたがそんなんだったら、余計にトニカが緊張するでしょう。いいから向こうに行ってなさい」

「わ、分かった。トニカちゃん、頑張ってね!」

「う、うん」

「頑張らなくていいわよ」


 ミキーが立ち去りぎわに言ったことにため息を吐いて、アデリーナはトニカに向き直ると。

 もう片方の手もトニカの肩に添えて、真正面から綺麗な碧眼でトニカを覗き込んだ。


「いい? お客さんを意識するなら、私の声で呑んでやるってくらいの気持ちでいなさい。そうでなければ、気にせずにいつも通りに歌うの」

「いつも通り……」

「そう。あなたが一番リラックスして、一番綺麗に、伸びやかに自分が歌っている時をイメージするの。それはどんな時?」


 アデリーナの言葉に、トニカは考える。

 トニカが、一番緊張せずに、自分らしく歌えるのは。


「マルテと二人で、歌ってる時……」


 アデリーナは、にっこりとうなずいた。

 ぐ、とトニカの肩を少し力を入れて抑えてから、手を離す。


「だったら、二人で部屋にいる時に、マルテのために歌っていると思いなさいな。目を閉じて。お客さんは、演奏が始まる前は静かよ。いないものと思いなさい」

「うん、分かった」


 トニカが深呼吸をすると、ベルが大きく鳴った。


「準備しましょう。次に音が鳴ったら、幕が開くわ」


 開演の前にお客さんの前に立つ人が、幕の向こうでなにかを大声でしゃべっている。

 周りの劇団員とかやとわれた人たちがぞろぞろと舞台の上に向かうのに合わせて、トニカも決められた場所に立った。


 一度、トニカの後ろに置かれたチェンバロの前に座ったアデリーナを見ると、彼女が不敵に笑う。

 トニカは無言のまま笑み返して、前を向いて目を閉じた。


 幕が開く。

 静けさのあまり、微かな衣擦れの音まで聞こえる。


 脇の台に立った指揮者が、腕を上げるのが感じられて、前奏が始まる。

 



 ーーーマルテ。




 トニカは思い浮かべる。

 二人きりの静かな部屋に、チェロを抱くマルテ。


 窓際に立って、風を感じて。

 トニカは、マルテのために歌う。


 数々の楽器が入り混じる荘厳な音が、マルテのチェロの音色と重なる。


 そして。


※※※


 その日の公演で。

 トニカは、一夜にして名を上げた。


 わずか三日の、公演。

 噂は瞬く間に広がり、その次の公演も、次の次の公演も。


 チケットは全て売り切れ、立ち見まで出た。


 それでも、街を駆け巡った噂はとどまるところを知らず、周囲の街にまで届き。

 トニカの次の公演は、熱望された。


 彼女は、こう呼ばれることになる。

 彼女の歌を聴いて、噂を広めた者たちの誰かが言い出したのだろう。




 ーーー奇跡の歌姫。




 スラムの孤児だったトニカ・ルッソは。

 彼女を助け出した一人の男と、数多くの優しい人たちの助力によって、栄光の階段を駆け上がった。

 

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