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このキスで、さよならを。  作者: メアリー=ドゥ
第3話『歌姫にひと時の幸福を』
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⑤劇場支配人


 一週間の間、トニカは広場で歌った。


 昼と夕方と。

 それぞれほんの半時にも満たない時間に歌うだけで、1日の食費を賄っても余るくらいのお金が手に入った。


 三日目から噂が広がったみたいで。

 トニカの歌声を目的に現れる人もいたり、他の歌や演奏をする人がその時間を避けるようになったりしていた。


『食いっぱぐれだ』


 と、悔しそうに銅貨を投げ込んでいった大道芸人の人がいて、どういう意味かと聞いたら、マルテが説明してくれた。


『お前の歌声は、大道芸の域で収まるものじゃない。より心を打つ歌声を前にして、お前なら他の歌や演奏を聞く気になるか?』


 トニカは、それを聞いて申し訳なくなった。

 だってトニカは、歌わなくても暮らしていける。


 人の食いぶちを奪ってまでなんで広場で歌うの、と。

 マルテに部屋に帰ってから投げかけると、彼は静かに言った。


『待ってるんだ。気を揉まなくても、すぐにあそこで歌うことはなくなる』


 一体、マルテが何を待っているのか。

 言葉の意味が分かったのは、8日目の昼に歌い終えた後だった。


「失礼」


 お金を落として行ったお客さんが引いた後に声をかけてきたのは、恰幅の良い紳士。

 ハットを被ってステッキを持ち、服も高級そうな布地の上質なものだ。


 優しげな顔には笑みをたたえ、ヒゲを丁寧に整えている。

 その目元はどこかで見たことがあるような気がしたけど、こんな明らかにお金持ちの知り合いはいない。


「どなたですか?」


 ギルドの受付で覚えた敬語を使うトニカに、紳士は胸に手を当てた。


「ジェンコ・フェレと申します。お嬢さん(シニョリーナ)。アーテア慰撫劇場の支配人を務めている者です」


 劇場、というのは、たしか、劇を見たり演奏を聞いたりするところだと、前にマルテに教えられた。

 一度行ってみようか、という話をしていたが、結局行かないままだった。


 その、支配人というのが何か分からず、トニカが困ってマルテを見ると。

 彼はチェロを持って立ち上がった。


「すみません、シニョール・ジェンコ。私はマルテ・ベルトラーニと申します。どうされました? 何か彼女が粗相でも?」


 マルテがトニカの横に立って、丁寧な口調で問いかける。

 彼も、ちょっとだけ緊張しているみたいだった。


「いや、特に粗相などありません。素晴らしい歌声を聴いて、お誘いにうかがった次第です」

「誘いですか」

「ええ。劇場は、常に優秀な人材を欲しております。一公演ごとの契約の他に、常から専属で雇いたい人材というものが、まれに現れるものです」


 マルテは、支配人の言葉に目を伏せた。

 ふ、と吐いた息は、何かを諦めたようなもので。


 でも、もう一度目を上げたマルテは、いつもの表情だった。


「つまり、トニカを?」

「ええ。私の目に狂いがなければ、彼女は大粒の原石です」


 支配人の言葉に、マルテは首を横にふる。


「残念ですが、その話はお受けできません」


 マルテの言葉に、支配人は不思議そうな顔をした。

 言葉づかいは丁寧だけど、引くような感じはない声で、支配人はマルテに問いかける。


「なぜでしょう、と理由をお伺いしても? もしかして、怪しんでおられますか?」


 マルテは、特に動きもないまま淡々と答えた。


「あなたが本当に支配人であるか、という疑いを持っているわけではありません。私はお顔を存じ上げております。……トニカを、目に止めていただいたのは喜ばしいですが、専属ということであれば一定以上の音楽的教養が必要なはずです」

「ええ、そうですね」

「トニカに、それはありません。彼女は、文字は読めますが譜面が読めない」


 はっきりと口にしたマルテに、支配人の顔に不審そうな色が混じる。


「あれほどの歌を歌えながら、専門に音楽を習ったことがない……?」


 マルテはうなずく。

 彼は支配人の目をまっすぐに見て、弓を握った手で二本指を立てた。


「彼女が歌えるのは、先ほどの二曲だけなのです、シニョール・ジェンコ。彼女はつい一月前に、歌い始めたばかりですから」


 マルテの言葉に、支配人がはっきりとおどろきを見せた。

 大きく目を見開き、トニカを食い入るように見る。


「一月……!?」


 その顔と視線が怖くて、トニカはマルテの影に隠れた。

 マルテが、軽く頭をなでてくれる。


 でも目は支配人に向けたまま、マルテは話を続けた。


「そう。私もこの子の才能を疑っているわけではありません。トニカの歌声は、奇跡です」


 口にするマルテは、少しだけ誇らしそうで。

 同時に、いつもより張りがなかった。


 でも、マルテに褒められて、トニカは彼の服に顔を押し付ける。

 顔がゆるんで、仕方がなかったから。


「もし、君の言うことが本当ならば。彼女は、ただの原石ですらない」

「そうですね。しかし、支配人自らルールを破ることは出来ないでしょう。慰撫劇場は国賓を迎える可能性もある。そんな場所に、素人を置けますか?」


 沈黙がおり、トニカが少しだけ顔を上げると、支配人は苦悩するような顔をしていた。


「いや、しかし、彼女を……」

「トニカです。トニカ・ルッソ。……欲するのならば、名くらいは覚えていただきたい」


 支配人はハッとして、恥じ入るように顔を伏せた。


「ああ、これは大変な失礼を。お許しください、トニカ嬢」

「あ、はい……」


 えらい人に謝られて、逆におどおどするトニカの背を、マルテが撫でる。


 トニカは、歌う前とは別の意味で緊張していた。

 まるで、トニカを売り買いするような言葉のやり取りだと感じていることを、マルテは分かっているのかもしれない。


 顔を上げると、マルテが小さく、大丈夫だとでも言うように、目元を緩めた。


「どうも、あまりのおどろきに興奮しすぎてしまったようです」

「無理もないことと思います。私も、初めて聞いた時には同じように感じたので」

「やはりそうですか。では、シニョール・マルテ。……どうすれば良いでしょう?」


 少し悩ましそうな顔で、支配人はヒゲを撫でてから口もとに握りこぶしを当てた。


「私としましては、すぐにでも舞台に立たせたいと思う逸材です。が、あなたのおっしゃる通り、専属とするには、一月という経験の浅さが邪魔をいたします。他の専属劇団員が納得しないでしょうしね」

「ええ。トニカを劇場に立たせたいと思うのは、私も同じです」


 マルテの言葉に、トニカはおどろいた。

 

 ーーーマルテが待ってた、っていうのは、この人?


 いつまでも広場で歌い続けるわけじゃない、というのは。

 つまり、最初からトニカを劇場で歌わせるつもりだったから?


「ですから、私はあなたを待つ間に、手立てを考えました」

「ほう? 聞かせいただけますか?」


 温和そうな支配人の目が、店のおっちゃんおばちゃんみたいに隙のない、商人のものに変わる。

 さっきの悩んでた様子は、演技だったのかな、と思えるくらいだ。


「冒険者ギルドには、冒険者を指名する制度の他に、冒険者側が自由に依頼を選べる制度があります。……少し手が疲れましたので、楽器をしまわせていただきたい」

「構いません。お話を続けていただいても?」

「ええ」


 マルテは、トニカから離れてケースの前に屈むと、入った銅貨を片手で器用にすくい上げては腰の皮袋に入れる。


「冒険者としては、自由に依頼を選ぶ方が主なのですが、依頼人の求めることに対し、信頼度に合わせてギルドがランクを付けて情報を公開します。冒険者の信頼度は、それまでこなした依頼によって変わりますが」


 銅貨をさらい終えたマルテが、そっとチェロをケースに寝かせて弓も入れ、蓋を閉めた。


「この公開依頼の中にある最低ランクの依頼は、物を集めたり、不特定多数の魔物を狩るもので、ギルドが常に材料として求めているものを集める為の依頼です」

「非常に興味深いが、それがトニカ嬢を歌わせることとどんな関係があるのです?」


 支配人が首をかしげると、マルテは立ち上がって軽く肩をすくめる。


「ですから、公開募集、ですよ。シニョール・ジェンコ。劇場側で、専属劇団員にならんとする者を広く募るのです」


 マルテの口調には、一切迷いがなかった。

 楽器を奏でるように、滑らかに語る。


市井(しせい)には、彼女のように才能を持ちながらも専門に学んだことがなく、あぶれている者もいるでしょう。大多数は、当然中流家庭や貴族で幼いころから修練を積んだ者には及びません。ですが、トニカのような原石が混じっている可能性も、ある」


 支配人は、鋭い目線でマルテを見つめていた。


「集めた者の中から才能ある者を、現在所属している専門劇団員とともに、審査して選別するのです。そして準専属劇団員として所属させ、中で学ばせる。そして、舞台に立たせるだけの技量を得た者は」

「はれて専属劇団員になる、と」


 支配人はマルテの言葉をひきついで、大きくうなずいた。

 そんな相手に、さらにマルテは言葉を重ねる。


「……あるいは、その場でトニカが専属劇団員に対して実力を示せば」


 マルテの言葉に、支配人は再びヒゲを撫でた。


「実力で彼らを黙らせることも可能、というわけですね」


 あくどい言葉を使う支配人に、マルテは黙ったまま、珍しく微笑みを浮かべたけど。

 それが演技の顔だって、トニカにはすぐに分かった。


 支配人は気分よさげに笑い返し、軽やかな舌で話を続ける。


「今まで、専属劇団員はこちらから勧誘するか、著名な演奏家などからの推薦を得るか、売り込みが主でした」

「存じております。しかし教養のない者は、そもそも劇場に向かおうとはしない」

「いや、いいお話を聞けました。感謝いたします、シニョール・マルテ」


 支配人はマルテに手を差し出した。


「では、我が慰撫劇場がそれを開催した暁には、トニカ嬢も参加していただけますかな?」

「それは、彼女自身にお聞き下さい」


 マルテは、手を握り返さずに、トニカを手のひらを上に向けて示した。


「……いかがでしょう、トニカ嬢」


 握手を今度はトニカのほうに向けて言う支配人に、トニカは二人の顔の間で視線をさまよわせる。


 マルテの目が、言っている。

 自分で決めるんだ、と。


 トニカは、自分の心に問いかけた。


 どうしたらいいか、じゃなくて、どうしたいか。


 歌うのは、楽しい。

 でも広場で歌うのは、他の人の迷惑になってるって、分かって。


 劇場で歌うのも、他の人の迷惑になるのかな。

 それもいや、だけど。


 だったら、迷惑だってわかったら、やめたらいい。

 好きなことをしていい、って言われたんだから。


「……行きます」


 トニカの返事に、笑みを浮かべる支配人に。

 

「マルテも、一緒だったら」


 一人ではいかない、って、トニカはちゃんと伝えた。

 支配人の顔が、少しくもる。


「……それは、彼も審査する、という意味ですかな?」


 支配人の返事ににトニカが口を開く前に、マルテがうなずいてしまう。


「可能であれば。不正をして劇団員になっても仕方がありませんので」


 本当は、マルテも一緒に入団させてくれるのが良かった。

 

 トニカは、その募集っていうものが自分のために行われることをしっかり理解していた。

 その上で、劇場の中で歌えるようになることも、疑っていない。


 マルテが言ったからだ。

 この広場で歌わない、というのは、劇場で歌うという意味で、その為に考えたのが、今のやりとりだったっていうことなんだと、思う。


 だから、トニカは大丈夫だから。

 きっとマルテも大丈夫だ。


 ーーーだってマルテのチェロは、あんなに上手で、心地いい音色なんだから。


 支配人と別れて、家に帰るトニカは、少しも疑っていなかった。

 わざわざ仕事をやめさせてまで、一緒にいてくれるって言ったマルテが。

 

 一緒にいられなくなるような提案を、するはずない、って。

 

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