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このキスで、さよならを。  作者: メアリー=ドゥ
第3話『歌姫にひと時の幸福を』
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④レンガ通りの広場


 トニカが、歌を歌うことに慣れたころ。

 マルテは彼女を連れて、昼前に広場へと向かった。


 すっかり春らしくなった空気の中、チェロを抱えたマルテと並んで歩くレンガ通りは、いつもよりも鮮やかに赤い。


 トニカ自身は、いつもより入念に化粧をして、新しく、トニカに合わせて新調した服を着ていた。

 化粧はともかく、服まで? と、マルテに聞いたら。


『見た目は、人目に止まるには想像以上に大切だ』


 と、いうことだった。


 なんで人目に止まる必要があるのかはよく分からなかったけど、薄い青に染められた服は、暖かい季節に着るための薄いワンピースで。

 その上に、カーディガン、という名前らしい桃色の上掛けを着て歩いていると、なんでか皆、こっちを見てきて落ち着かない。


 新しい服は可愛くて、嬉しいけど。

 人に見られるのが恥ずかしいトニカはマルテの服の腰のあたりをつかんで、できるだけ身を寄せて歩いた。


 今まで、トニカがレンガ通りで人に見られる時は。

 マルテに出会う前の聖夜のような、場違いなものを見るような目線だった。


 今日感じている視線は、どこか違う気がするけど。

 見られること自体が落ち着かない。


 足元のレンガを数えながら歩いていると、髪が伏せた顔に流れてきて、トニカはそれを耳にかけた。

 いつの間にか、髪は背中にかかるくらいまで伸びている。


 枝毛の多かった髪は、わざわざ床屋で梳いてもらった。

 さらさらとした軽い髪は、自分のものじゃないみたいに思える。


「着いたぞ」


 マルテの声に顔を上げると、言われた通り、役所の近くにある広場についていた。

 石畳通りの市場に買い物に向かう人々が、そろそろこの辺りを通る時間だ。


 広場は全体が赤いレンガ造りで、入口が四つ、東西南北に開いている。

 真ん中には、噴水、という名前らしい、水が柱のように吹き出している池があった。

 

 円形の広場の周囲は花壇(かだん)になっていて、色とりどりの花が咲くそれらの前にベンチがいくつか置かれている。


 トニカは、マルテの服のすそから手を離して。

 近くの花壇にいっぱい咲いている、白と赤の小さな花に近づいた。


「かわいい……」


 トニカが花の香りに口元をゆるめた。

 広場のある方角は、今住んでいるところからも、前に住んでいたところからも離れている。


 今まで、花に興味を持ったことなんかなかったけど。

 春の暖かな日ざしに咲く花々は、トニカを楽しませてくれるものだった。


 元の場所に立ち止まったままのマルテが、花の名前を教えてくれる。


「……レンリの花、だな」

「そういう名前なの?」

「ああ。珍しくはないが、春先にしか咲かない」

「そうなんだー」

「かわいらしい花だな」

「マルテもそう思う?」


 同じ気持ちだったことに心が弾んだトニカが、顔を上げてマルテを見ると目が合った。


 マルテは、花を見ていなかった。

 トニカの方をどこかまぶしそうに見つめて、目を細めている。


「……マルテ?」


 なんでそんな目をしているのか、と首をかしげるトニカに。

 マルテは目をそらして、広場の中を指さした。


「噴水の前で歌おう」


 池に近づいたマルテは、噴水の水がかからないあたりでチェロのケースを開ける。

 取り出した楽器の先端に布をかぶせたまま、レンガの上に立てて、彼は池のふちに座った。


「前に」


 マルテに言われて、トニカはチェロのケースとマルテの間に立った。


 まだ歌い出してもいないのに、何人かがトニカのほうを見ていて。

 どくん、と心臓が音を立てる。


「落ち着け。いつも通りに歌えば、大丈夫だ」


 声をかけてくれたマルテに、振り向かないままうなずいたトニカは。

 深く深呼吸をして、目を閉じる。


『いいか、トニカ』


 マルテは、昨日の練習の時にトニカに言った。


『最初の伴奏で大きく音が伸びたら、歌の一番最後の部分と同じように、声を伸ばすんだ』


 なんで? とトニカが聞いたら、マルテは珍しく顔を面白そうな色を浮かべた笑みを浮かべた。


『やってみれば分かる』


 マルテが、演奏を始めた。


 演奏も最初のようなぎこちなさはほとんどなくて、トニカは、その深い音色にうっとりと身をゆだねる。

 緊張しているトニカの心に低く響き、優しく包み上げるように奏でられる音色。


 なめらかな美しさだけじゃなくて、しっかりとした芯がある。

 マルテが、音を大きく伸ばして、途切れさせるのと入れ替わりに。




 トニカは目を閉じたまま、深く静かに息を吸い、声を発した。




 室内とは違う。

 跳ね返って震えるような感じがなくて、どこまでも伸びやかに、自分の声が広がっていくのが分かる。


 息と声を伸ばし終えたトニカは。

 続いて奏でられ始めた伴奏に、歌い込んだ歌詞を乗せた。


 体の奥から湧き上がってくる高揚感を押さえつけて。

 あくまでも切なく、静かに、でも力は抜かずに、歌い続けた。


 トニカが、歌曲が最初に盛り上がる部分で目を開くと。

 見える限りの、広場の周囲にいる人々がみんな立ち止まって、こちらをを見ていた。


 おどろく心と、歌い続けようとする別の自分。

 奇妙な二重の気持ちは、すぐに溶けて重なり、トニカは笑みを浮かべる。


 ―――皆、聞いてくれてる。

 ―――マルテと二人で、一生懸命練習した歌を。


 嬉しい。

 嬉しい。


 そんな気持ちが、際限なく湧き上がってきて、トニカはこらえきれなかった。


 体の芯は、ぶらさないように。

 大きく、両手を広げて。


 想いとは裏腹に、高まる嘆きを、表現する。


 顔に手を添えて、心を刻むような悲しみを。

 あるいは、右手を胸に、左手を求めるように前に差し出して、切ない想いを。


 体も、表情も、『歌』に染めて。


 トニカが、マルテと二人で最後まで歌曲を紡ぎ上げ、声の残滓(ざんし)と共に吐息を漏らすと。

 静寂が、広場に降りた。


 安心と疲れで、大きく肩で息をしながら、トニカは思った。

 なんで、こんなに静かなんだろう。


 不安に思って周りを見回すと。


 パチパチと小さく、どこかから手を鳴らす音が聞こえた。

 聞こえたほうを見ると、花壇の向こうにある道の木立に寄りかかった男が、満足げな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。


 この暖かいのにコートを着て。

 赤い目をした美貌の男。


 ……ラスト?


 彼の姿を見ている間に、パチ、パチ、とまばらに周囲で拍手が起こり始め。

 すぐに地面を揺るがすような歓声と共に、喝采の音がトニカを包み込んだ。


 思わず身をすくませ、呆然としながら人々を見回すと。

 ある人は泣きながら、ある人は指笛を鳴らながら、またある人は両手を頭上で思いきり打ち鳴らしながら、トニカに向かって賛辞を口にしていた。


 ―――アタシ、に?


 信じられなかった。

 自分の歌が、こんなにも多くの人に届いたことが。

 

 トニカは、人々から向けられる笑顔を見て、ふいに気づいたことがあった。


 今まで。

 自分は、誰かに自分の声を届けようとしたことが、なかった。


 助けて、と。

 いつも、心の中で思うだけで。


 見も知らない誰かが助けてくれることを、期待してただけで。

 自分から動こうとはしなかった。


 彼女の、心の声を。

 自分勝手な願いを聞き届けてくれたのは、マルテだけ。


 でも自分で選んだのは、マルテと一緒にいることだけで。


 そのマルテに、手を引かれて。

 トニカは、自分を表現することの意味を―――意思を伝えることの重要さを、身をもって知った。


 歌うこと、に。

 人に対して、自分の声を上げることに、何か意味があるなんて。


 少しも、考えてなかった。

 だから、歌うことも意味もわかってなかった。

 

 盗賊団に、こき使われる生活を。

 あきらめて、受け入れていたのは。


 きっと、トニカ自身だったんだ、と。


 マルテに導かれた、この場所で。

 これだけ多くの人の声を聞いて、ようやく理解する。


 マルテが、最初に叩いてヒビを入れた、心の殻が。。

 丁寧に時間をかけて壊してくれた、冷えて固まり、自分の心にかぶさっていた殻が。


 トニカは、完全に割れたような気がした。


「……礼を、トニカ」


 立ち尽くしていたトニカは、マルテの声に我にかえり。

 スカートの裾をつまんで、膝を折る。


「次だ」


 マルテが伴奏を始めると、皆が静まり返る。

 今歌ったのは、最初に覚えた『この愛は、涙の川に』。


 今から歌うのは『幸せは、春風とともに』という、胸のときめきを、春の暖かな風に重ねた歌。


 今、胸に満ちる喜びをそのままに歌い上げた時。

 一曲目よりも増えた観客が、市場まで届くんじゃないか、っていうくらいに大騒ぎして。


 ……その日、マルテが置いたチェロケースの中は、銅貨で埋まった。

 


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