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このキスで、さよならを。  作者: メアリー=ドゥ
第1話『歌姫に聖夜の祝福を』
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①泥だらけのパン


 ―――トニカが気絶する、少し前。


 彼女は寒さをこらえながら、使いすぎて薄くなった肩掛けを胸の前で押さえて、足早に表通りを歩いていた。


 今日は、聖夜の日だ。


 このアーテアの街は、冒険者と開拓者で成功した人々の街。

 表通りには、彼女のような貧相な格好をした者は他にいない。


 スラムに住む人達はこんな浮かれきった日に、表通りでは見かけない。


 彼らがいるのは、裏路地。

 餌として漁る食料ゴミに、今頃は群がっている事だろう。


 横を通りすぎる、暖かそうな格好をした幼い男の子と父親。

 少し先にいる、裕福そうな家族連れや、ぴったりと腕を組む恋人同士。


 その姿を目を上げた瞬間に見てしまい、思わず彼女は吐き捨てた。

 

「クソ……」


 顔を上げてしまったから。

 邪魔だから、と耳元で髪を揃えている彼女の首筋を、冷たい風がなでる。


 歯を噛みしめ、またうつむいて肩掛けに首を隠した。


 トニカは、孤児だった。

 母親は知っているが、もう会うこともないだろう。


 この街がまだ、発展しかけだった十年前に、トニカは難民だった母親に連れてこられた。


 その日も、肌寒い日で。


 『ここで待っていてね』、と。

 幼いトニカを置いてどこかへ向かった母親は、それきり戻ってこなかった。


「ちきしょう……」


 寒さ以外の理由で、彼女は顔をゆがめる。

 母親を求めてスラムに迷いこんだ彼女を拾ったのは、そこに住む男達の集団だった。


 何をしている連中なのか、トニカは知らない。

 うすうす気づいてはいたが、知りたくもなかった。


 こんな表通りを、自分の身の丈の半分以上もあるカゴを背負って歩いているのも、その男達が原因だ。


 彼女を拾った男達は、金だけは持っている。

 裏通りでゴミを漁るような真似もしない。


 トニカはその男たちの中で唯一の女。

 でも彼らは、彼女を犯すようなまねはせずに、娼婦を買う。


 その点だけは、助かっていた。


 例えブス呼ばわりで小間使い以下の存在でも。

 犯されるよりは、遥かにマシだったから。


 カゴに入ってるのは、その男たちが食うための食材だ。

 あふれそうなくらいに、入っているが、彼女の取り分は、どうせパン一つ。


 他には料理を作る時に、味見のために一切れの野菜や肉を食べるだけ。

 そんな生活を、もう何年も続けていた。


 当然いつもお腹が減っていたし、ガリガリにやせている。

 男の格好をしたら女だとバレないくらいに、胸もない。


 でも、重い足取りの理由は、空腹とカゴだけのせいだけじゃない。


 男たちの元へ帰りたくないからでもあるし。

 通りを歩く人たちが変なものを見るような目を向けてくるからでもあるし。


 寒さも、もちろんある。


 だけど、一番つらいのは。

 そんなものがまぜこぜになって、じわじわと自分の心にわき上がるもの。


 みじめさ、だった。


 周りの視線から逃げるように、レンガの表通りから石畳の通りを抜けて、土を固めただけの裏路地に入る。


 そこでようやく、溜めていた息を吐きだした。


「……くだらねぇ」


 なにが聖夜だ。

 救い主は、アタシを救ってくれやしない。


 祝いだと言って、増えるのは仕事だけだ。


 トニカは最近、自分が生きている理由すらも分からなくなっていた。


 それでも、疲れた、という気持ちの他に、死にたくない、という気持ちが。

 トニカの中にあった。


 いっそ逃げようか、と思う。

 この寒い日に、金もなしに逃げて、どうにかなるとは思えなかったけど。


「なんで、アタシは……」


 不意に泣けて来たので、トニカは慌てて頭を激しく振った。

 しかしその拍子に、カゴからパンが一つ、こぼれ落ちる。


「あ……」


 気付けば、パンは土の上に落ちていた。

 

 ……また、殴られる。


 トニカは落ちたパンを見つめながら、くちびるを噛んだ。

 男たちは、理由を付けて彼女を殴ってくる。


 でも、彼女が泣いたって、男たちは面白がるだけだったから、泣かないと決めた。


 ガマンするんだ。

 そうしたら、いつか、きっと……。


 そう思いながら土まみれのパンを拾い上げようとして、彼女はビクッと震えて、後じさった。


 いつの間にか。

 目の前に、妙な男が立っていたから。

 

「ずいぶん洒落た格好だ。聖夜を楽しんでるか?」


 現れた男は、いきなりニヤニヤと嫌味をぶつけてきた。

 おどろきが治まると、怒りが湧いて来る。


 男は、赤い瞳の蕩けるような美貌を持っていた。

 こんな裏路地にいるには不似合いな、高級そうな毛皮のコートを着て。


 トニカは男から目をそらした。


「こんな所で遊んでたら身ぐるみ剥がされるよ」


 トニカのような、スラムの小汚い女をからかって遊ぶようなお貴族サマはいない。

 単なる金持ちの男なら、相手をしたってイライラするだけだ。


「さっさと、浮かれて騒いでる表通りに戻ったら?」


 赤い目の男は彼女をこき使う男たちより貧相で、大した腕っぷしもないように見える。

 そんなトニカに、男はおかしげに言った。


「へぇ、気が強いな」


 彼の声音は、トニカの心を逆なでする。

 相手をするだけ無駄だ、と、無視してパンを拾おうとした。


 カゴの中身をこぼさないように。

 膝をつこうと腰を落としかけたトニカの前に、男がパンとの間をさえぎるように、一歩前に踏み出す。


「……どけよ、クソ野郎」


 かがんだ体を起こして、トニカは目を細めた。


 彼女の目は、普通にしていても相手を睨みつけているような目、らしい。


 その目が気に入らない。

 トニカを殴る男達の、一番多い理由はそれだった。


 好きでこんな目な訳じゃない。


 だが、トニカを知らない人々は。

 確かに、ただ睨む仕草をするだけでひるむから、助かっていた。


 本当はこっちが怖がっているのに。

 勝手に、逃げてくれるから。


 汚い口調だって、自分を守るために身につけたものだった。


 男たちに殴られるのは、怖い。

 体に染み付いた、暴力の痛みはトニカを追いつめる。


 だからって何もせずにいたら、今よりもっとひどい目にあうかもしれない。

 そんなの、嫌だ。


 トニカは弱くて、この目付き以外になんの取り柄もないから。

 狂暴そうな仮面を被らなきゃ、スラムで自分を守れない。


「おぉ、怖い怖い」


 でも、何でか分からないけど、目の前でおどける赤い目の男には。

 怯えよりも、苛立ちが先に立った。


 その赤い瞳で、何もかも見透かされているみたいなのに。

 強がっている事を、見透かされているみたいなのに。


 トニカは、わざと低い声で相手をおどすように、汚い言葉を口にする。


「てめぇ……!」


 トニカが男を怒鳴り付けようとした言葉を遮るように。


「ラスト。あまり子どもをからかうな」


 のっそりと現れた別の男が、彼の背後から肩を掴んだ。


「触るなよ。汚れるだろ?」


 口には笑みを残したまま、嫌そうな口調で赤い目の男が眉をしかめて。

 大人しく、体をどける。


 後ろから姿を見せた男に、トニカは息を呑んだ。


 髭もじゃでボサボサの髪。

 剣を腰に吊っていて、服装は、汚いコートに大きな皮袋を背負っている。


 その男は、ラストと呼ばれた美貌の男と対等に話すには不釣り合いな、浮浪者に見えた。

 そしてトニカは、赤い目の男に感じるよりもさらに強い恐怖を、その男に対して感じた。


「触られるのが嫌なら、余計な事をするな」


 だが、男はトニカに興味がないようだった。

 ぼそりとラストに言葉をかけ、こっちを見もしないまま、落ちたトニカのパンを拾い上げる。


 パンを持って行かれる、と思ったとたん。

 浮浪者のような男への恐怖よりも、パンをなくした事に対して受ける暴力への恐怖が勝った。


「返せよ。アタシのだぞ!」


 トニカが噛みつくように浮浪者に言うと、浮浪者はトニカを見て動きを止めた。


 震えそうになりながら、トニカは男を睨みつける。

 それを、ラストはおかしげに見ていた。


「なん、だよ?」


 動かなくなった浮浪者のような男に再び言葉を投げると、彼はピクリと肩を震わせた。

 そして、少し驚きの残った口調で言う。


「……お前、女か」

「見て分からねーかよ!」


 ガリガリに痩せて男どものツギハギのお古は着ているが、肩掛けは捨てられた時の服を継いで体格に合わせた、女物だ。


 トニカは、少しだけ傷つく。

 男は、単に気にしていなかっただけかも知れない。


 それでもやっぱり、少しだけ、傷ついた。


「こんな泥まみれのパン、いらんだろう?」

「関係ねーだろ。汚れたからタダで寄越せってのか?」


 汚れていようが、自分の口に入る数少ない食べ物だ。

 浮浪者の男は、トニカの言葉に少し、何かを考えたようだった。


「……半値でどうだ?」


 やがて浮浪者の口にした言葉に、トニカは、彼もお腹が減っていて金がないのか、と思った。

 それでも、パンは売れない。


「銅貨2枚だけど?」


 だからトニカは、買ったパンの値段をそのまま言った。


 なのに。

 浮浪者はあっさりうなずいて、腰布からコインを出してトニカに差しだした。


 まさか払うなんて。

 そう、ポカンとしているトニカに、浮浪者はパンを示した。


「これで良いんだろう?」

「あ、ああ……」

 

 バカなのか、と思った。

 そのコインで、汚れていないパンも買えるのに。


 しかし、本当の事を口にするのも、やっぱりパンを返せと言うのも、このまま話し続けないといけない。

 トニカが黙って手を差し出すと、受け渡しの時に手が触れて、トニカは身を強ばらせてしまった。

 

 自分に向かって手が伸びてくること。

 肌が触れること。


 どっちも、怖い。

 

「……じゃあな」


 内心の怯えを悟られる前に背を向けるトニカに、やり取りを聞いていたラストが、口を開いた。


「よう、お前、幸せになりてーか?」


 なぜかそのからかうような言葉に、反応してしまう。


 ーーーアタシが不幸だと言って、幸せになりたいと言えば、何か面白いの?


「てめぇに関係ねーだろうが……」


 振り向きもしないまま吐き捨て、トニカはそのまま、足早にその場から逃げ出した。

 

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