③マルテの伴奏、トニカの歌声
ギルド長の部屋での話し合いから一週間。
トニカは午前の用事を終えて、寝室で髪を梳いていた。
伸びた髪の先を見てすこし眉をしかめたのは、新しく伸びてきた部分と違って枝毛が目立つからだ。
「ちょっと切ろうかなー」
手入れなんかしていなかった頃の髪。
その頃は耳が見えるくらいの長さだったのに、今は肩まで伸びた髪。
伸びた分の長さは、マルテと一緒に過ごした時間の長さだ。
でも、今から一緒にいられる時間は、髪が伸びた分の半分も残ってない。
「なんでマルテは……出てっちゃうんだろう」
トニカは、小さく声をもらした。
マルテはお金の話はするけど、お金に執着してるようには見えないのに。
冒険者をしているのが性に合ってる、っていうけど、今の生活に不満を感じている様子もない。
遠くへ出かけたい、外に行きたい、っていう気持ちがあるなら、もっと頻繁に出て行ってもいいはずなのに。
マルテは、用事がない時は、ずっと部屋にいてくれる。
トニカには、それが不思議だった。
ふと目に入るのは、マルテがくれた木彫りだった。
マルテへの支払い銀貨を入れる箱の上にいくつも、かざってある。
暇な時に、出かけもせずに木片をナイフやヤスリで削っては作った、魔物や動物の木彫りだ。
マルテの作る木彫りはとても可愛くて、完成したら捨てていたらしいのを、トニカが欲しいと言ったらくれるようになった。
できた木彫りをトニカは大事にマルテの銀貨を入れている箱の上に飾り、毎日拭いている。
その木彫りを見つめながら。
トニカは考える。
「もしアタシが、マルテの旅について行きたいって言ったら……」
マルテは、連れて行ってくれるかな。
そこで、ドアがあく音が聞こえた。
マルテが帰ってきた、とトニカはクシをしまい、寝室を出る。
窓は、もう寒くないから開け放っている。
部屋の中は明るい。
夏が近づくにつれて感じられる、青く葉をしげらせる木々の香りを、風がどこからか運んできていた。
マルテは、部屋の中央にいた。
「おかえりなさい」
「ああ」
「それ、何?」
気持ちいい風と日差しの中で、テーブルの横にマルテが置いたのは。
大きくて固そうな皮で出来た、上が細長くて下が丸っこく膨らんだケースだ。
見たことがあるような気がしたけど、トニカは思い出せなかった。
マルテが、床に寝かせたケースをそっと開ける。
「これはチェロだ」
トニカがケースを横からのぞきこむと、中には赤い布張りがしてあって、ケースと同じ形の茶色いものがすっぽりと収まっている。
その中身を見て、トニカはどこで見たのかを思い出した。
大道芸人が、おひねりを貰うために開いた状態で置いているケースだ。
中身は、楽器だった。
大きな楽器で、立てて並んだら、トニカの首くらいまでありそうなそれの名前を、彼女は初めて知った。
「チェロ……」
「ああ。このチェロはゴーフルという職人の作ったものでな。安価だが質がいい音がする。……俺が気に入っていたのを覚えていたんだろうが、わざわざ王都から取り寄せるとはな」
金もかかるのに、と文句を言っているようなマルテは、どこかうれしそうで。
誰かにもらったのかな? と、トニカは思った。
「マルテ、楽器弾けるんだ」
「昔、少しな」
そっと、いつくしむように繊細な手つきでチェロを取り出したマルテは、一緒に入っていた弓のようなものを持って椅子に腰掛ける。
日ざしにつやめくチェロは、間近に見るとすごく綺麗だ。
マルテは楽器のお尻のほうに被せていた布を取ると、そこからするどい針が出てきた。
その先端を床に刺し。
マルテは足の間に、そのチェロをはさんだ。
右手の弓を軽くチェロに当てて、2、3度爪弾くように音を鳴らしてから、マルテはかすかに眉をしかめる。
「強いな……」
その言葉の意味は分からなかったけど、ふいにマルテが弓を滑らせながら、反対の指でチェロに貼られた何本かの糸を押さえ始めた。
うねるように重い音色は、大道芸人が弾くのに比べて、最初はどこか錆び付いたような音で。
でもマルテの指がだんだんなめらかに動き始めると、音が色づいてきたみたいに感じた。
気づいたら、聞き入るように目を閉じていたトニカの耳に、音色に乗ってマルテの声が滑りこむ。
「いいな。気が強いのに素直だな、君は」
多分、楽器に話しかけたんだろうけど。
いつもと違うやわらかな声でささやかれたように感じて、トニカは体の芯が火照る。
「〝故郷へ〟……」
マルテが、自分の爪弾く曲に合わせて、歌い始めた。
語尾が震えるような切ない声音で、いつもよりも張りがなくて、代わりに憂いを帯びた低い声。
トニカは歌を聴くうちに苦しくなって、胸元に両手を当てた。
マルテの奏でる音色に身をゆだねているうちに、マルテの歌声と曲から情景が広がる。
まっすぐに伸びる一本の道。
遥かに晴れわたる空と、細く立ち並ぶ木々と、そこにぽつりぽつりと立つ家々と。
それらは、どこかで見たような、知らないような懐かしい景色。
いつしかそのただ中に立ったトニカは、胸の奥から強く湧き上がる切ない想いが、強くなって。
曲が終わるのと一緒に、涙がぽろりとこぼれて、頬を伝った。
「……トニカ?」
いつのまにか音色がとぎれ、マルテがトニカを見ている。
トニカは、ほう、と息を吐いて、涙をぬぐう。
「マルテ、すごい……」
「そうか? だいぶなまっていて、少しも思うように弾けなかったが。歌うのも久しぶりだ」
歌ってすごいな、とトニカは思った。
いや、マルテがすごいのかも。
歌を聴いて、こんな風に感情を揺さぶられたのは、初めてだった。
マルテが糸を押さえていた自分の指先を見て、トニカもつられて目を向ける。
指先に、糸の形にくっきりと痕が出来ていた。
「やめた後も剣を握っていたからマシだが……下手な弾き方をしたら、弦で指が切れそうだな」
「弦って?」
「この糸のことだ」
と、マルテはチェロの糸を指差した。
それを弦というらしい。
「今の曲は、名前があるの?」
「『故郷へ続く道』という曲だ。難しくはないが、好きだな。たまに、一緒になった冒険者と酒盛りをする時に、興が乗れば歌っていた」
いつもより饒舌なマルテは指先を揉むと、また指をチェロに添えた。
「次は、お前も知っている曲だ。歌え」
「知ってる、曲?」
「ラストが、歌っているのを聞いたと言っていた」
なんだか気に入らなさそうにマルテは言って、すぐに曲を奏で始めた。
大道芸人が奏でていたものよりぎこちないけど、深みのある音色は、たしかに聞いたことがあった。
『この愛は涙の川に』……そう、トニカはたしかに、それを歌っているのをラストに聞かれた。
なんだか、ドキドキしてくる。
歌えと言われて歌うのは、初めてで。
何も手を動かさずに、歌だけ歌うのも、初めてだ。
しかも、いきなりで。
トニカは覚えている音を、歌を、必死に思い返してマルテの音色に重ねながら口を開く。
「〝この、愛を〟……」
初めて音色に乗せる自分の声は、震えていて、かすれていて。
でもすぐに、必死に曲についていくうちに、声が出始める。
※※※
この愛を 涙の川に流しましょう
あなたに捧げて 今は重くて 胸に抱くには切なくて
去り行く面影 こぼれた幸せ 涙の川に流しましょう
その背は遠く 私の心も あなたの旅に連れられて
あれほど愛した日々の意味 私はまるで知らなくて
幼く 儚く 懸命な
気持ちの意味を知ったのは あなたがいない今でした
育てて実って 枯れない愛を 涙の川に流しましょう
過ごした日々は 折に触れ 私を苛む忘れ形見で
いつかあなたのいる場所に この亡骸が たどり着いたら
あなたの瞳は 私を映し
あなたの腕は 私を抱いて
共に流れてくれますか
この愛を 涙の川に流しましょう
あなたに捧げて 今は重くて 胸に抱くには切なくて
去り行く面影 こぼれた幸せ 涙の川に流しましょう
私とともに 流しましょう
いつかあなたに たどり着くまで
※※※
トニカは、いつしか夢中になっていて。
最後の長く長く声を伸ばすところを。
息が続かなくなるまで伸ばしきってから、静かに声を震わせて歌い終えた。
額に浮かんだ汗を拭いながら目を向けると、マルテがチェロから手を離していた。
なぜか、呆然とトニカを見ている。
「……あれ?」
歌うことに夢中になりすぎて気づいてなかったけど。
もしかしてマルテの伴奏が途中から切れていたんだろうか。
彼女の後ろにある窓の外から差し込む日ざしが、まぶしくないのかな、と思いながら。
マルテの顔の意味がよく分からなくて、トニカは問いかける。
「マルテ? 何かダメだった?」
でも、トニカの言葉にも、いつもと違ってマルテの表情は変わらない。
トニカをじっと見つめたまま、ぽつりと漏らしたのは。
「……奇跡だ」
という、やっぱりよく分からない言葉だった。
少し考えてから、褒められたのかな、と思うことにして。
トニカは、マルテに笑みを向ける。
「ど、どうだった?」
トニカが後ろに手を組んで言うと、マルテが目を伏せた。
「……上手い」
「ほんとに!?」
トニカがうれしくなってマルテに駆け寄ろうとしたら。
ドアのほうから、軽い拍手の音が聞こえた。
「やっぱり、いい声だ。思わず出てきてしまった」
ニヤニヤと笑みを浮かべた美貌の悪魔の姿に、トニカはむぅ、と顔をしかめる。
マルテに頭を撫でてもらおうと思ったのに。
「……なんで出てきたの?」
「俺が君に褒め言葉を伝えたいから出てきたのさ」
「必要ないよね、それ」
「俺には必要だったのさ」
またへ理屈、と頬を膨らませるトニカだが、ラストはいつも通りどこ吹く風で。
「君なら、すぐにでも劇場で歌えそうだな。なぁ、マルテ」
ドアに背を向けて座っているマルテに、後ろから歩み寄った彼は、身をかがめてマルテの肩に手をかける。
マルテは、顔を伏せたまま深く息を吐いた。
「……やり過ぎだ」
「そうかい?」
ぼそぼそとかわされた、二人のやり取りは聞き取れなくて。
「?」
トニカは、軽く首をかしげた。
閑話、18時投稿です。