⑥捨てられた想い
「……トニカが帰ってきたな。話は終わりだ」
部屋のまんなかに置かれたテーブルの向こうで。
ラストは、めずらしく笑みを浮かべていなかった。
「彼女の前には、必要なければ姿を見せない約束だからな」
胸ぐらを掴むマルテの腕を、ぐっと握って引きはがしたラストは、ポケットに両手を突っ込んでテーブルを回り込み、トニカの方に歩いてくる。
そして、口のはしを片方だけ、上げた。
「悪いね。今日は不可抗力だ」
「ラスト! まだ話は終わっていないぞ!」
マルテの怒鳴り声に、トニカはビクッと震えたが、ラストがなだめるように、トニカの背を撫でてくれた。
怒りすぎて、顔を赤く染めているマルテに、ラストは片目をつぶってみせる。
「話? そんなもん、後にしろよ。時間はまだあるだろ。……じゃあな」
トニカの横をすり抜けぎわに、ラストがトニカの背をぽん、と軽く叩いてから、外へとすり抜けた。
パタン、と軽い音を立ててドアが閉まると、部屋の中には重たい沈黙が残って。
ラストを見送ったトニカは、おそるおそる、マルテのほうを振り向いた。
「マルテ……」
トニカの呼びかけに、窓ぎわに立っているマルテがテーブルに手をついて、ふー、っと大きく息を吐く。
怒ってる。
それに、なんだか疲れているみたいで。
久しぶりにマルテから感じる暴力の気配に、トニカは胸がざわめく。
それを無理に呑み込む彼女を、マルテがにらむように見た。
「……なんだ、それは」
マルテが、彼女の手の中の包みに目を止めて、問いかける。
「あ、こ、これ?」
トニカは、少しホッとした。
マルテが不機嫌そうでも、彼女に話しかけてくれたから。
「あのね……」
トニカは、テーブルをまわり込みながら包みをほどいて、両手の上で広げる。
マルテのための、茶色の貴石がついた編み輪。
これを、プレゼントしたら。
ちょっとは、マルテの機嫌が直らないかなって、
期待しながら。
トニカはかすかな怯えを押し殺して、笑みを浮かべる。
「これ、お給金で買ったの」
マルテは見上げるトニカに対して、テーブルから体を起こしてこちらを向く。
今日のトニカは。
彼が、どういう気持ちでいるのかが、なぜか分からなかった。
包みの中身が見えても、マルテの表情が変わらない。
徐々にまた、不安が頭をもたげてくる。
それを、一回くちびるを結んで、追い払い。
「だからマルテに、プレゼントしようと……」
思って、と。
トニカが言い切る前に。
―――彼はトニカの手の上から、編み輪を思い切り振り払った。
「あ……」
トニカの手ごと、弾かれた編み輪が。
開いていた窓から、外に。
手を伸ばすことすらできず。
呆然とする、トニカの目の前で。
窓枠の向こうへと、落ちて……いってしまった。
トニカは。
なんで、とすら思えないほどに。
頭の中が、真っ白になってしまって。
ぐら、と視界が揺れる。
耳に、押し殺したマルテの声が聞こえた。
「……誰が、そんなことをしろと言った」
軋るような声を出すマルテに、トニカは反射的に顔を向けて、身をすくめる。
怯えるトニカに、ぎゅ、と眉根を寄せたマルテは。
「無駄なことを、するな」
……無駄。
その言葉を、聞いたトニカは。
足元が揺らぐようなショックを、受けた。
無駄。
プレゼント、だったのに。
「ひゅ……っ」
トニカの、のどが鳴る。
だんだん、息が荒くなってくる。
マルテ。
なんで。
マルテ。
―――喜んでくれると、思ったのに。
「給金を使った? それはお前が、これから先一人で暮らすための金だろうが」
一人で?
でも、だって。
このお金は。
マルテのおかげで。
だから、だから。
と、思ったけど。
喉が詰まったように、少しも声が出ない。
揺れてる。
視界が、マルテの顔が、足もとが、トニカの頭の中が、全部、全部。
膝から、力が抜けそうになった。
謝らなきゃ。
謝らなきゃ。
悪いことをしたら、謝らなきゃ。
だって。
謝らなきゃ、マルテに。
―――マルテに、嫌われる。
いつのまにか、ヒザをついていたトニカは。
そのまま、縮こまるように体をまるめ。
おでこを床に、押し付けた。
「ご、ごめ、ごめん、なさい……」
言葉を一度発すると。
ぐちゃぐちゃの頭の中と無関係に、涙があふれてきた。
「ごめ、なさい……ごめんなさい……!」
泣いたらダメなのに。
泣くと、もっとひどいことになるのに。
「許して……マルテ」
そんなトニカに。
マルテがパタンと窓を閉め、背を向けて、コツ、コツ、と遠ざかる音が聞こえた。
トニカは、あわてて頭を上げる。
マルテが、薄暗い部屋の中で、ドアに向かって歩いて。
トニカは心の奥底が、凍りついたように冷たくなる。
「待って、やだ、行っちゃやだ……!」
出て行くの?
アタシの事が嫌いになったから?
「で、出ていかないで……!」
喜んでもらえると、思ったから。
トニカは、足に力が入らなくて。
這いずって、マルテを追う。
『ここで待っていてね』
不意に、お母さんの言葉を思い出す。
笑顔で言い、人混みに歩み去ったお母さんの背中と。
マルテの背中が、同じに見える。
「す、捨てないでぇ……!」
とっさに出た、言葉だった。
トニカのその言葉に、マルテは立ち止まる。
でも、振り向かない。
こっちを見て。
行かないで。
ひゅ、ひゅ、と喉を鳴らしながら。
トニカは、ようやく立ち上がって、マルテの腕をつかむ。
「い、言うこと、きくから。もう、もう、こんなことしないから……」
太くて、力のこもっている腕を握りしめて、トニカは自分のおでこを腕に押し付ける。
怖い。
怖いよぅ。
でも、マルテの腕から感じる暴力の気配よりも。
―――マルテがいなくなることの方が、もっと、怖いよぅ。
「……出ていかない」
「え……」
「契約は、まだ終わっていない」
契約。
出ていかないのは、契約、だから。
「ラストと、まだ、話がついていない。……夜には戻る」
トニカよりも。
ラストと話すことのほうが、大事。
トニカは、そう言われた気がした。
「ご、めん、なさい……」
腕を離すと、結局マルテは。
トニカの顔を見もしないまま、出て行ってしまった。
「う……ぐす……」
トニカは、また涙があふれてきて。
その場で、しばらく泣いた。
マルテ。
なんで、気づいてくれないの?
あんなに優しいのに。
アタシを、抱くのに。
それでも、トニカと一緒にいるのは、それが契約だからだ、って。
アタシだから、助けてくれたって。
マルテは、そう言ったのに。
さみしいよ、マルテ。
そばにいて、欲しいよぅ。
やがて感情の嵐が治った頃になって、トニカは腰に当たる感触に痛みを感じ、ポケットをさぐった。
当たっていたのは、窓の外に放り出されたのとお揃いの、トニカの編み輪。
「……拾わな、きゃ」
トニカは、自分に言い聞かせる。
「お金は、大事にしなきゃ……」
マルテがそう言ったから。
言われたことは、守らなきゃ。
嫌われないように、守らなきゃ。
編み輪を見つけたら、お店に返しに行こう。
少し安くなるかもしれないけど、傷ついてなければ、買い取ってくれるかも。
大事なものだから。
お金は、大事なものだから。
マルテがいなくなった後に、一人で。
一人で生きていくために、大事な、ものだから。
……独りで。
そう思いながら。
トニカは涙を拭って、部屋を出た。
外は薄暗くなっていた。
トニカは必死に探したが、窓から落ちたはずの腕輪は。
どこを探しても、見つからなかった。
※※※
マルテは、約束通りに帰ってきた。
どこか青い顔をしていたけど、トニカは声を掛けれなかった。
マルテも、話をしようとはしなくて。
お互いに何も言わずにベッドに入ったけど、トニカは眠れなかった。
マルテは、こっちに背中を向けている。
彼女は起き上がって、ぼんやりと目の前の暗闇を眺めていた。
今日は、本当なら週に一度の肌を重ねる日だった。
いつのまにかそうなっていて、なんで週に一回なのか、と。
恥ずかしさをこらえて聞いたことがある。
マルテは言った。
『お前の体が辛いだろう』って。
もっと、抱いてくれても良かった。
でも、マルテの優しさがうれしかったから。
きっと、マルテが優しいのは、それが契約だったからなんだって、トニカは思った。
最初の日に、トニカが優しくしてほしいって、言ったから。
トニカを抱くのは、それがマルテの対価だから。
だってトニカには、ほかにあげれるものがない。
プレゼントは、貰ってもらえなかった。
一緒にいる間、稼げないって言ってたのに。
お金になるプレゼントだったけど、受け取ってもらえなかったのは。
きっと、それを受け取るのは、トニカと契約した『トニカが一人で暮らせるようになる』ことに、関わるから。
マルテがここにいてくれる理由は、全部、契約だからなんだって。
思いながら、トニカは声を殺して泣いた。
何回泣いても、不意にまた、泣けてくる。
なんで、こんなに泣きたくなるのか、トニカには分からなかった。
でも、すごく、悲しいって。
そう思う気持ちは、止められなかった。
18時に、閑話投稿です。