②読み書き、計算。
「う〜……」
トニカは、テーブルに広げられたものを見て頭を悩ませていた。
風邪が治り、マルテとの生活を始めてから、そろそろ三月。
アーテアの街最大の祭り『春祝い』も終わり、外は暖かくなりはじめていた。
冬場は見かけることが少ない出入り商人たちの姿も増え、街は活気付いている。
マルテと二人きりの静かな部屋に入ってくるのは、騒がしい露天市の音だ。
音が近いのは、露天市が石畳通りで行われているから。
一番街であるレンガ通りでの露店は、祭りの時以外の出店が禁止されている。
だから『春祝い』の後には、露店市は石畳通りで行われるのが慣例だった。
トニカは。
楽しそうだなー、と、ちらちらと窓の外が気になりながらも。
自分の横で腕組みをして本を読んでいるマルテの手前、そっちばかりを見ているわけにもいかず、仕方なくまた手元に集中した。
今、トニカは、マルテに見張られている。
その理由こそが、テーブルに広げたもの……計算問題の書かれた巻物だった。
ある魔物の外皮をなめして作った魔法の品である、というその巻物。
そして手にしているのは、巻物の材料になったのと同じ魔物の羽と牙で作った、羽ペン。
この二つがそろっていると、何度でも巻物に書いた文字を消して使うことが出来る、とマルテは言っていた。
すごいもの、らしいけど、何がすごいのかは字を書いたことのなかったトニカにはよく分からない。
マルテの私物で、本当は『スネクロノスクロール』という舌を噛みそうな名前らしい。
なぜか、彼は材料になった魔物の名前を教えてくれなかった。
トニカは最近、その巻物を使って、読み書き計算の練習をしている。
ゆっくり文字を読めるようになるのに、一月。
簡単な文字を書けるようになり、今は『文章』という、意味の分かる形に文字をつなげたものを書く練習を始めている。
中でもトニカが一番まともに出来るようになっているのが、計算だった。
目の前に出されている、マルテが書いた問題も、計算の問題だ。
最初は計算が一番苦手だった。
数字の意味とかが、全然分からなかった。
だけど、出来るようになるきっかけがあった。
それはマルテが『家計簿』っていうものを付けていた時の話だった。
※※※
「うわぁ……数字がいっぱい……」
居間で。
算盤というものをパチパチと鳴らしているマルテを、後ろからのぞきこんだトニカは、いやな気分になって顔をしかめた。
見ているだけで頭が痛くなってくる。
「計算は慣れだと思うんだがな。口があいてるぞ」
買い物の後、手元のお金と巻物の覚え書きを見ながら。
計算しては何か数字を書き込んでいたマルテが、ちらっとトニカを見た。
トニカがあわてて口に手を当てると、マルテはうすく笑って、また計算に戻る。
「それは、何をしてるの?」
「家計簿をつけている。……家計簿というのは、今ある金をいくら使い、残った金がいくらなのか、ということを書き留めておくものだ」
トニカは首をかしげた。
多分、勘定役がしていたのと同じことだとは思う。
けど、そんな事をして、なんの意味があるんだろう、とずっと思っていた。
だって。
「残りのお金は、見たら分かるよね?」
「そうだな。だが、残りの金でいつまで生活出来るのか、は分からないだろう?」
「……なくなったら、お金を手に入れたらいいんでしょ?」
「いつまでに、どうやってだ?」
「……」
トニカは黙り込んだ。
それは全然わからない。
「家計簿はな、それを知るために付けるんだ」
手に入れたお金と今まで使ったお金から、残りのお金でいつまで生活が出来るのか分かれば、今度はいつまでにお金を手に入れなければいけないかのかが分かる、と。
「例えば、泥だらけのパンが銅貨2枚だったとすると」
「……ごめん」
トニカは反射的に謝った。
彼女とマルテが出会ったきっかけだけど、彼女は泥だらけのパンを買った時の金額でマルテに売った。
「俺が納得して買ったんだ。気にしろと言っているわけじゃない」
マルテが、さらにおかしそうに目を細める。
からかわれたらしい。
マルテはたまに意地悪だ、とトニカはぷくっと頬を膨らませた。
彼は、計算するのをやめてトニカに問いかけた。
「毎日銅貨2枚のパンを食べると、一月でいくらになる?」
「銀貨6枚」
即答したトニカに、マルテはおどろいた顔をした。
「な、なに……?」
彼女はなんでおどろかれたのか分からないことに戸惑う。
間違っただろうか、と思い、もう一度頭の中で考えた。
一月はだいたい30日だ。
銅貨60枚で、毎日パンが一つ食べれる。
銀貨1枚は、銅貨10枚だから、やっぱり銀貨6枚だ。
「合ってるよね?」
「ああ、合ってる。じゃあ、これは?」
マルテがいきなり、覚書にさらさらと数字を書きつけた。
8+2=、と書かれている。
いきなり計算問題を出されて、トニカは混乱した。
「は、はち、たす、に?」
トニカはマルテの肩に手をかけて、肩越しに数字を覗きこんだ。
数字や記号の読み方自体は、なんとか覚えている。
8は、たしか1が、はちこで、2は……2は、なんだったっけ?
トニカが視線をさまよわせていると、マルテが今度は口で言う。
「銅貨8枚と銅貨2枚は?」
「銀貨1枚」
「銅貨に直すと?」
「銅貨10枚でしょ?」
「そう、それが答えだ」
マルテは、8+2=の後ろに10を書いた。
「そうなんだー」
「なるほどな。計算自体が出来ないんじゃなくて、数字と計算が頭の中で結びついていないのか……」
マルテは、トニカに計算を教えるのに苦労していた。
物覚えが悪くて申し訳ないと思っていたけど、今のマルテは、根気強くも困っていた時と様子が違う。
彼は何度もうなずき、羽ペンの尾で今の計算をなぞった。
すると、文字が消える。
「だがまさか足し算だけでなく、掛け算と通分まで出来るとは思わなかったな……」
「かけざん? つうぶん?」
初めて聞く言葉だ。
計算は、なんか色々むずかしい。
「2×30……銅貨2枚と30日、という計算で、必要な銅貨が何枚か分かることを掛け算と言う。通分というのは、銅貨60枚が銀貨6枚だと分かる計算のことだ」
「そんなの、誰でも分かるでしょ?」
マルテが分かりやすく教えてくれるが、トニカはやっぱりよく分からない。
勘定役の男には『こんな簡単なことも出来ねぇのか』と、しょっちゅう言われていたからだ。
お金が足りないと、勘定役の男の暴力がひどくなる。
いつもより高いものを買ってもそうだった。
トニカは、渡されたお金で『何日分の食料を買ってこい』と言われ続けていたのだ。
マルテは羽ペンで自分の無精髭の生えた顎をくすぐりながら、目を細めた。
「誰でも分かる訳じゃないが……しかし、俺のやり方が間違っていたようだ。そこまで出来るならな」
マルテはトニカの手を優しくどけて椅子から立ち上がると、戸棚に近づいてカゴに入ったオレンジとリンゴを取り出した。
それを10個、横に並べる。
その横に今使っていた覚書の巻物を置いて、端から順番に1〜10までの数字を、果物と並べて書いた。
「これが、数字の意味だ。後は文字の並びを覚えさえすれば、計算が出来る」
「へぇ……」
トニカには、数字が、ようやく意味のあるものに思えた。
こうされると、すごく分かりやすい気がする。
「1+4は?」
トニカは、じっと並べられた果物を見ながら、考えた。
1のとこにはオレンジがある、4のところにもオレンジがある。
間には、オレンジが4つ、並んでいる。
「……えーと、4?」
数字の並びを見て、体の前で指をこすり合わせながら自信なくトニカが答えると。
やっぱりマルテは、首を横に振る。
でも、そこから先がいつもと違った。
オレンジを4つ、巻物を飛び越えて前に置き直すと、再びトニカに言った。
「こう数えるんだ。1、2、3、4……たす、1」
と、前に出したオレンジを数えた後に、カゴに残っていたリンゴを5の数字の前においた。
「これが、1。オレンジもリンゴも、1個なら1だ。だから、合わせて5個になる」
「えーと……オレンジが4個とリンゴが1個、だから?」
つまり、オレンジやリンゴ1つが1という数字で、それが5個あるから、5、なんだ。
「そうだ。この合わせる、というのが、+の意味だ。なら、この5つを買うといくらになる? オレンジ二つで銅貨1枚、リンゴ一つで銅貨3枚だ」
「それなら、銅貨5枚とあまり半分だ」
トニカは、テーブルに手をついてマルテに身を乗り出した。
そういう話なら、分かる。
「オレンジをおまけにしてもらうか、もう一個買わなきゃいけない」
トニカはすぐに答えることが出来て嬉しくなり、緊張を緩めながらマルテを見上げた。
おまけかもう一個かは、店のおっちゃんおばちゃんとの駆け引きだ。
「トニカ。それを数字の上で出来るようになり、書けるようになることが、計算というものだ。お前が今やっているのは、暗算という。紙の上に書き出さず、頭の中で計算する方法だ」
「そうだったんだ……」
ようやく、トニカの頭の中で全てがつながった。
トニカは両手を上げてちょっと大きな声を出してしまった。
アタシでも出来た! って。
「すごい!」
そんなトニカにほほえんだマルテは、すぐに笑みを消して真剣な顔をした。
「俺は、お前に読み書きや計算ができると仕事の幅が広がる、と言ったな」
「うん。こういう計算をきちんと出来ると、人のお金を管理する仕事につける、んだよね?」
大きな店には、雇われ人がいる。その中には、金勘定を任されている人がいる。そういう人は、他の雇われ人よりもいい給金を貰っている、とトニカはマルテに教えられた。
「そうだ。そしてさっきの話に戻るが、この先、同じ生活を続けるためにいつまでにいくら必要なのか。それが分かるようになると、今度は店を経営するようなことも出来るようになる」
普段の生活でも、住む部屋の家賃や、薪代など、トニカのやっていた食べるものを買う以外にも必要なお金は色々ある、とマルテは言う。
「だから、多くの金がいる。なるべくいい給金が貰える仕事につくと、食べるものも住む部屋も、少し良くなる。寒い思いやひもじい思いをしなくてすむ」
「うん」
だから、マルテは読み書き計算を覚えろと言ったんだと、トニカはようやくきちんと理解して。
彼に感謝しながら、しっかりとうなずいた。
※※※
とはいうものの。
「う〜……出来た!」
トニカが羽ペンを置くと、マルテが取り上げて、答え合わせを始める。
◯、◯、×、◯、◯、◯、×……。
だいたい、2個か3個に一個くらい間違いがあった。
「あうぅ……」
トニカがへこたれると、マルテが控えめに頭を撫でてくれた。
もう、マルテだけはそういうことをされても、怖くない。
「これだけ出来れば、十分だ」
「ほんと!?」
「だがまだ、読み書きや算盤を覚えなきゃな」
「……先は長い……」
再びテーブルに突っ伏すトニカに、マルテは軽く声を立てて笑った。
トニカが、ガバッと顔を上げるが、マルテはもうトニカの方を見ておらず、巻物を巻いて戸棚にしまうところだった。
その背中を見て、トニカはしばらく固まっていたが。
「露天市に、買い出しに行くか?」
マルテが振り向き、ハッと我にかえる。
「気になっていたんだろう? ……どうした?」
「ううん、なんでもない」
トニカは、出かける支度をするために肩掛けを手に取った。
コートはもう、必要のない季節だ。
彼女はまた、横目でマルテを見ながら、肩掛けを首に回す。
マルテが薄手の上着をはおって、エリを整える。
ーーーマルテが、笑った。
マルテが、声を出して笑うなんて。
初めての事だった。
胸が、すごくドキドキしてる。
今までも、笑うことはあった。
微笑んだり、口元だけ笑ったり。
でも、さっきの。
いつも冷静な感じのマルテから出たなんて、思えないような。
明るくて、無邪気な笑い声は、トニカの耳にずっと残って。
いつもと、どこか違う気持ちになる。
「行くか」
肩掛けを巻いたトニカに、そう言うマルテは、いつものマルテだったけど。
「うん」
トニカは、笑みを浮かべてうなずいた。
外に向かうドアに歩くマルテの後ろから、トニカはたマルテの手を見る。
筋の浮いた、大きな手。
やさしくて、でも大きいから、力加減がたまに痛かったりするけど。
撫でられると、安心する、手。
トニカは、ぎゅ、と自分の手を胸の前で握ってから。
彼に追いついて、おそるおそる、その手に触れた。
緊張したけど。
全然、怖い気持ちには、ならない。
あったかい。
「……」
マルテの顔を見上げると。
いきなり手を握ったトニカを、彼は無表情に見下ろしていた。
「へへ」
トニカは、恥ずかしいな、と思いながら。
でもうれしいな、と思いながら。
くちびるを軽く結んだまま、上目づかいにマルテに首をかしげた。
「ダメ?」
「……」
もう、彼女は知っている。
マルテは。
すっごく驚くと、そんな顔をするんだって。
「行こ?」
ドアを出ようと手を引っ張るトニカに、マルテは何も言わずに歩き出したけど。
少しだけ力を入れて、彼女の手を握り返してくれた。
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