【序】足取りは軽やかに
―――喜んで、くれるかなぁ。
彼女は、道を歩きながら思った。
つやのある栗色の髪。
うすい化粧をした、涼しげな美貌。
その少女の足取りは、軽やかで。
身につけている青いスカートとあったかそうな白い肩掛けが、より彼女を引き立てていた。
彼女の幸せそうな表情と可愛らしさに、道行く人が微笑ましそうに目を止める。
でも彼女は、そんな周りの様子に気づかないほど、浮かれていた。
「ふふ……」
抑えようとしても思わず笑みがこぼれる。
彼女の手には小さな包み。
大切そうにそれを持って、彼女が歩くのは、アーテアの街の表通り。
レンガ造りの街並みは、晴れた空と色あざやかなコントラストを描いている。
その景色すら、いつもより輝いて見える。
―――喜んでくれたら、うれしいな。
夕方までにはまだ少しだけ時間がある。
肌寒さも、そろそろ感じることが少なくなった。
彼女が手にしている包みは、始めた仕事の日払い給金を、毎日コツコツ貯めて買ったものだった。
一緒に暮らしている青年へのプレゼントだ。
彼女はうっとりと包みを見てから、脇路地に入りこむ。
そしての石畳の二番通りへ出ると、家が見えた。
通り脇の、石造りの集合住宅。
その四階が、彼女と青年の住んでいる部屋だ。
表情にとぼしいが整った彼の顔を思い浮かべて、彼女の心はさらに浮き立つ。
今日は特に用事もないと言っていたし、青年は家にいてくれているだろう。
―――機嫌良くなったら、お手製のミートソースパスタをおねだりしよ!
彼の作るパスタは、彼女の大好物なのだ。
きゃー! と歓声の聞こえてきそうな顔で包みを抱きしめ、身ぶるいしてから。
羽が生えたような速さで、彼女は部屋に続く階段を駆け上がった。
彼と彼女が出会ったのは、ほんの一年と少し前。
体の芯から凍りそうな夜のことだった。
※※※
「……生きてるか?」
コツ、という音が聴こえて。
気絶していた彼女は、意識を取り戻してうっすらと目を開いた。
ぼやけた視界に、汚れた皮ブーツが見える。
彼女は、床の上にうずくまっていた体を動かした。
冷たい土床の感触が額に残ったままノロノロと顔を上げると、ブーツの男が彼女を見下ろしている。
体の横に、だらりと剣を下げて。
―――血がついてる。
やっぱりノロノロと男から剣に目を移し、彼女はぼんやりと考えた。
血を赤く滴らせ、鈍い光を照り返す刃。
それが、彼女の顔を映し出している。
くすんだ栗色の髪。
三白眼の中の、濁った緑色の瞳。
ソバカスだらけで化粧っ気もない、平凡以下の自分の顔だ。
映っている顔は、さっき殴られた頬が赤く腫れていて、形までゆがんでる。
自覚すると、口の中に血の味がした。
あの刃を舐めたら、おんなじ味がするだろうな、と思うと。
ふいに、それまで痺れている程度にしか感じなかった全身の痛みがぶり返してきた。
痛いなぁ、と思わず顔をゆがめる彼女に。
男が、ぼそっと問いかけた。
「お前、名は?」
「なまえ……?」
言葉の意味が、頭に入ってこない。
彼女らがいるのは、半地下の広い大部屋で。
中にはさっきまで生きていた……彼女を殴ったり、それを無視して話していた男たちが。
残らず首を刎ねられて、転がっていた。
テーブルも椅子も全て倒れたり、壊されていて。
床には、砕けた食器やコップの破片。
むせかえる血の臭いは、自分のものだけじゃなかった。
一体、何が起こったのだろう、と。
ようやく彼女は、いまいち現実味の湧かないままに、考える。
「名は、なんという? 俺の言葉が分かるか?」
男が、膝をついて、もう一度問いかけた。
今度は、意味が分かる。
「トニカ・ルッソ……」
彼女は、内側まで頬肉が腫れて上手く動かない口元を動かして、自分の名前を告げた。
「俺は、マルテ。マルテ・ベルトラーニだ」
そう名乗る相手のことを、トニカは知っていた。
つい先ほど出会い、彼女が殴られる原因の一つになった男、だ。
ぼんやりと記憶が甦ってくると。
目の前の男に、トニカは恐怖を感じ始めた。
マルテは、浮浪者にしか見えない格好をしている。
髭面に、手入れもされていない黒髪。
しかし透き通るような焦げ茶色の瞳と声からすると、もしかしたら見かけほどの歳ではないのかもしれない。
でも、若くても年老いていても、男は男。
彼の大きな体は、それだけで彼女をすくませる。
まして、手に下げた剣の血で、彼が殺人者だと分かっていた。
怖い。
怖い。
そう怯える彼女に、マルテは言った。
「お前に、パンの礼を言いに来た」
「パ、ン……?」
そう。
アタシはコイツに、パンを売ったんだ。
泥だらけの、パンを。
見上げたマルテの顔は、笑ってすらいない。
トニカは、彼がここにいる理由を聞いても、目的が分からなかった。
だから、怖いのを押し殺して、問いかけた。
「礼、って……?」
「礼は、礼だ」
マルテが、剣を握るのとは反対の手を動かした。
反射的に目を閉じて、身をすくめる。
「どうした?」
どうやら彼は、トニカを殴ろうとして手を伸ばしたのではないらしく。
不思議そうに言われて、おそるおそる目を開ける。
マルテの差しだした腕に、古ぼけた銀の腕輪が嵌っているのが見えた。
息をつめながら、差し出された手を見る。
でもトニカはその手の意味が分からず、動けなかった。
「なんで? 泥まみれのパンを、売り付けたのに……」
やっぱり金を返せ、とでも言いにきたのだろうか。
しかしマルテは、そんな風に考えて動かない彼女に対して。
少し待ってから、ぽつりと言う。
「歩けるか?」
マルテはトニカの腕をつかんで、立たせた。
でも、なんとか立ち上がりはしたけど、触られるだけで体が震える。
怖い。
怖い。
男の人は、怖い……。
しかしマルテは、すぐに手を離してくれた。
彼女をどこか痛ましそうに見てから、また問いかけた。
「無理なら、背負う。怪我の治療をしなければならん。少し我慢してくれ」
意識のはっきりしたトニカを、背中を向けて背負い上げる。
広くて力強い背中と部屋に満ちる血のにおいに吐き気を覚え。
トニカは身じろぎすることすら出来ずに、思う。
ーーー彼は、何がしたいんだろう、と。