第四十話『ありがとう』
40.
青い、蛇の目傘を抱きしめていた。
骨がひしゃげて、もう原型を留めていない。
涙がこぼれ落ちる。
とめどなく、とめどなく。
自分の中にこれほどまでの強い悲しみがあったとは知らなかった。
ハルのときは覚悟ができていたからだろうか。
時間をかけて、失ったと言う事実を受け止められていたからだろうか。
自分の手の内にまだ少しだけ残るぬくもりが、辛い。
一番最初に駆け寄ってきたのはアキラ、そしてアヤが次いでぼくのもとへやってきていた。
ハナとカナタはどうしたんだろうか。
そう思ってビルの方を見上げるが暗くてよくわからない。
ぼくは屋上から落ちた。
錯乱したハナによって突き飛ばされて。
そのまま落ちて、死ぬはずだったのだろう。
つまり、最後の犠牲者はぼくだった、と言うことになるのか。
しかし、それはならなかった。
つぼみが、助けてくれたから。
ぼくに伸ばされた手はぼくを捕まえた瞬間、姿を変える。
その姿はぼくにはよく見覚えのある姿で。
つぼみを初めて見たとき差していた蛇の目傘。
どこかで見たことがあると思ったら、そういうことだったのだ。
つぼみはぼくが小学校に入った頃に買ってもらった傘だった。
青い蛇の目傘、黒い縁があって、中心に黒い円がある。
つぼみの髪の色、瞳の不思議な様相。
気付いてあげられなかったけれど、ぼくがずっと大切にしていた傘。
中学二年の夏までずっと使っていた。
けれど、あの傘はなくなってしまったのだ。
誰かに盗まれたのかもしれない。
そう思ってずっと探して、探して。
アヤやアズ、両親にも手伝ってもらっていろんなところを探した。
本当に、お気に入りで、大好きで大好きで、大切にしていた傘だったから。
いろんな人に話を聞いたりもした。
結局見つからなくて、諦めるしかなくなってしまった、あの傘。
今ぼくの腕の中にある。
愛しい、大切なもの。
もう、壊れてしまった、大切なもの。
空中で広がった傘は広がってぼくの身体を風で運んで、乙女川に落とした。
ぼくの体重を支えきれなかった傘はその時に壊れてしまったのだ。
ぼくを助ける代わりに、壊れた。
その事実があまりに悲しくて、辛くて、涙が止まらない。
アキラに肩を支えられてぼくは川から上げられる。
六月とは言え夜の川で身体は冷え、屋上から落ちたショックからかなんなんだか、身体は思うように動かなかった。
ガクガクと震えたまま、自分の頬だけがあたたかい。
自分からこぼれ落ちる涙はあたたかくて、それがまた、悲しい。
つぼみはもう冷たくなっている。
当然だ。傘はあたたかくなんかない。
そんなの、わかってる。
それでも、それでも、つぼみは確かに生きていた。彼女にはぬくもりがあったんだ。
それが、失われてしまったことが悲しくて。
「なぁ、アヤ」
「うん」
「お前、わかってたんだな」
「わかってた」
「だから、つぼみにいなくなってもらっては困る、だったんだな」
「そうだよ」
「なんで、止めなかった」
「アヤにとってつぼみちゃんよりこーが大切だからだよ」
「お前は!!」
「いいよ、怒っても。アヤはつぼみちゃんを見殺しにした。わかってて止めなかった。それを責める権利はこーにある。けど、アヤは後悔なんてしない。アヤはこーに嫌われて、恨まれて、呪われたとしても、こーの命が一番大切なの」
あぁ、クソ。
わかってる。
アヤは自分の信念を貫いただけだ。
つぼみもそれを望んでいた。
きっと止めても無駄だっただろう。
これはただの八つ当たりだ。
ふがいなくて、情けなくて、やるせない気持ちをアヤにぶつけているだけだ。
なんて、愚かだ。
こんなのに意味はない。
意味は、ない。
それはわかっていても、苛立ちは消えなくて。
悲しみも、辛さもぬぐいきれなくて。
「ごめん、アヤ」
「ん」
アヤはぼくの頭にタオルをかけてくれる。
ぼくはなんて、バカだ。
こんなにぼくを大切にしてくれてるのに、八つ当たりなんかして。
情けないよなぁ、ホント。
「無茶をする」
「あー、悪い。ぼくにしか止められないと思ってさ」
今まで黙っていたアキラにため息と共に言われた。
そして、アキラからココアの缶を渡される。
「飲め。そのままでは風邪を引く」
「……サンキュ」
涙は止まっていた。
アヤに感情をぶつけて、アキラにこうして励まされたからだろうか。
いつも、いつもみんなに助けられて、迷惑ばっかかけて。
ぼくは何かを返せているんだろうか?
つぼみが自分を引き換えにして助けてくれるほどの価値が、自分にあったんだろうか。
違うな、そうじゃない。
申し訳ないと思うなら。
ありがたいとも思うのなら。
つぼみのことを大切に思うのなら。
ぼくはそれに応えられるようにがんばるしかないだろう。
それにふさわしい人間に、なればいい。
誰かを、助けてあげられるような。
力になってあげられるような。
支えになってあげられるような、そんな人に。
「ハナとカナタはどうした?」
「凡俗はキリと一緒に帰らせた。精神的に危うかったのでここにいられても迷惑だしな」
「お前、ホント容赦がないな……」
もう少し気遣いと言うか、言い方があると思うんだが。
たぶんストレートに本人にそのまま言ったんだろうしなぁ。
またハナがえらくへこんでいそうなのが目に見える。
あー、今回のこと気に病んでないといいが。
自分のせいだとか思ってても仕方ないくらいの状況だしな。
海原さんを目の前で失い、自分が突き落としたことでぼくが危険になって、それを助けようとしてつぼみが飛び降りて――
苛立つなよ、自分。
ハナのせいなんかじゃない。
違うから、治まれ。
アレはぼくの不注意と今回の怪異のせいだ。
ハナは悪くない。
ハナは運悪く巻き込まれただけだ。
「カナタは?」
「オレはアレが見えんからな。知らん」
「あー、そっか、そうだったな」
「かなちゃんならベンチで座ってるに」
いつも通りの口調に戻ったアヤがビルの方を指差す。
ビルの中か。
まぁ、まだ屋上にいるなんてことがないならいいか。
て言うか珍しいな。
いつもなら何かあったらすぐにぼくのところに来てたのに。
「どうかしたのか?」
「つーちゃんのことでかなり落ち込んでるみたいに」
「あー」
そうか。
結局、カナタもつぼみのことを大切に思ってくれていたのか。
そうやって、悲しんでくれるのはうれしいことだな。
よかったな、つぼみ。
お前の努力はちゃんと報われてるよ。
「しかし、その傘はあの少女と言うことになるのか?オレは状況を見ていなかったのでわからないのだが」
「そうだよ。これはつぼみだ」
「ふむ、そういうことか」
「妖怪なら見えないはずだよなぁ、普通。その辺はいまいちわからないんだが。あと、結局この一連の事件、どうなったんだ?解決できたのか?」
「事件に関してだがあの怪異はまだ解決していないな。しかし、まぁその辺りは手配しておく。今日は帰って休め。明日学校ですべて説明してやろう」
「わかった。すまないな」
「何を言っている?」
「心配かけちまった」
「かけたくないのなら無謀なことをするな。勇敢であることは間違っているとは言わないが蛮勇は他人を巻き込むだけだ。それならば臆病である方がいい」
「……そうだな。肝に銘じておく」
「だがコウヤはよくやった。落ち込む必要はない」
「サンキュ」
よっぽど落ち込んでいる顔をしてる、ってことなんだろうなぁ。
クソ、顔に出ちゃうとはまだまだ修行不足だ。
いろいろとがんばらないとな。
つぼみのためにもぼくはもっと強くならないと。
家に帰ってつぼみをアズに見せるとアズもやっぱり覚えていて、泣いてくれた。
ぼくらの大切な家族。
庭に穴を掘って埋め、木の板で簡易的だけど、お墓を作った。
もう一度、ぼくとアズ、そしてカナタも泣いて、少しだけランに慰められて。
ぼくらは大切なものを、失いながらも訪れてしまう明日を歩かなければならない。
だから、今だけは。
今だけは立ち止まって、涙を流す。
つぼみを想って、泣き続けた。
明日からまた、歩けるように。
そのままなんだか寂しくなって、みんなで一緒に寝て。
日が変わって六月十一日。
珍しくアヤがぼくを迎えに来て、一緒に登校した。
小学校の頃以来かもしれない。
中学校の頃にはもうアヤは1人でかなり早いうちから登校して寝ていたのだ。
朝が弱いから寝るにー、とかなんとか。
いや、学校で寝て疲れ取れるか?
と思わないでもなかったがアヤは基本的に人の話を聞かないので言っても無駄だった。
にしても、アヤが手を繋ぎたがったせいで電車の中でかなり目立っている。
周囲の視線が痛い。
完全に痛いカップルに見られていた。
だってカナタ他の人に見えないし。
しかし、てっきりカナタは意地を張って手を繋ぎたがると思ったがそんなこともなく、うつむきがちな感じだった。
思っていたよりカナタはつぼみがいなくなったことにショックを受けているのかもしれない。
たまに中空を見て手を浮かせることがある。
その位置がつぼみの服の袖くらいの位置で。
その様子を見るたびに胸が痛くなる。
浮かせたあとで泣きそうな顔をするカナタを見ていられなくて、ずっと窓の外を見ていた。
涙がこぼれそうになって、瞬きを繰り返すたびアヤの手の力が強くなって、ぼくの手を握り締める。
アヤはわかっていた。
その上で、止めなかったんだ。
それはどれほど辛いことだろうか。
その手の力を感じるまで気付かなかった。
アヤだってつぼみのことは昔から知っていて、ぼくが大切にしていたことも知っていたのだから。
その上で、ぼくがアヤを責めるだろうことまで予想した上で、それでも『つーちゃんがいなくなったら困る』と言ったのだ。
あの時つぼみは神妙そうな顔をしていた。
アレはきっと、つぼみも何かを悟ったのだろう。
その上であのあとも何一つ変わらないまま、2人とも笑っていた。
どれだけの覚悟だったのだろう。
ただただ、ぼくを助けるためだけに。
ぼくを傷付けてでも助けたかった、と言ったアヤ。
ぼくに手を差し伸べて、笑っていたつぼみ。
どれだけ感謝しても仕切れない。
どれだけ辛かったのかも計り知れないのに。
それでも、行動してくれた2人。
自分をこれほどまでに大切に想ってくれている人がいる。
痛いほど胸に、強く刻み込んだ。
ぼくはぼくを大切にしなくてはならない。
その上で、誰かに力を貸してあげられるように。
想いを強くかみ締めて、強くなりたいと願った。
いや、願うんじゃない。
決意しなくては。
誰かに想うことじゃない。
自分で決めて、歩くんだ。
自分の力で、たくさんの大切なものたちの想いと共に。
「さて、まとめ会議を始める」
ぼくらが特別教室に入るともうすでにみんな集まっていた。
いつも早いなぁ。
何時ごろに来てるんだろうか。
ハナとキリもちゃんと来ている。
ハナは吹っ切れたのか、普通にいつも通りな感じだった。
一晩寝るとスッキリするタイプなんだろうか。
アキラの話では鬱陶しいくらい落ち込んでいたと言う感じに受け取れたのだが。
「今回の事件は六月二日から昨日の十日までで合計9人の犠牲者の出た連続投身自殺事件だ。
全員南側窓際にいるときに発生。
突然発狂したように叫び声をあげて飛び降りるところを6人目からは目撃されている。
しかし、それまでは静かにいなくなっているため、不可解に感じるかもしれないがただ単に声をあげられなかっただけだ。
では原因から説明して行こう。
この怪異は心霊現象としてはかなり特殊な例で中てられたものしか現象を自覚できないところから発覚が遅れやすい。
そして、人数が今回複数人同じ現場にいたのに犠牲者が1人ずつだった理由だが、単純に霊感の強さの問題、というだけのことだな。
窓際に霊感の強いものがいるときにだけ、アレに中てられてしまう。
アレの存在している位置が大体高さ14m。
そのため、それより下の階からは見えず、犠牲者がいなかった。
そう結論を急ぐな。
順を追って説明していく。
アレは現象としてそもそもほとんど発見されないため明確な名称がないのだが言うなれば『火の見やぐら』の怪異と言ったところか。
あぁ、消防団などが火事などを発見したときに警鐘を鳴らすやぐらだ。
この場所の南側窓辺りの位置に1850年ごろ、火の見やぐらが建てられた。
この建物自体の位置は消防団の詰め所の位置に当たる。
消防団の人間が二十四時間体制で見張りを行っていたらしい。
しかし、木製だったこの火の見やぐらは火事の際に危険だということで見直され、1920年ごろに金属製のものに建て替えられる。
だが第二次世界大戦が勃発し、有事の際に消防のものが昇るのは危険とされていたのだがこの町の消防団は勇敢なものが多かった。
戦闘機が見えたら警鐘を鳴らすため、二十四時間体制で交替で昇っていたのだ。
そして、1943年六月初頭、午後九時から十一時ごろまでの空襲によって火の見やぐらは倒壊した。
巻き込まれた人数は9人。
当初上に3人、逃げろと指示しようと昇っていた2人と下で声をかけていた4人が巻き込まれて死亡。
頂点の高さが約14m。
この怪異は心に隙間がある霊感のあるものがとあるイメージを刷り込まれる。
そのイメージと言うのは『そこから落ちていく』イメージだ。
そのため、窓際の人間は逃げようとできるだけ上に逃げる、そして川のある南側から乙女川に飛び込もうとするのだ。
届かずに亡くなってしまうが。
全員が大体同じ位置に落ちるのは当時の乙女川が現在の位置と違うため、だ。
彼らの目には当時の姿が映っていたはずだ。
ほぼ落下位置と同じ辺りに当時川岸があった。
理性までほとんど失ってしまうため本人たちはそれすらわかっていなかったと思うがな。
叫び声をあげていた後半の4人だがそちらは恐らく『燃えている』イメージを刷り込まれたのだろう?」
そこでアキラはハナを見てたずねた。
ハナは思い出すようにあごに手を当て、うなずく。
なんと言うか、凄まじい。
戦争で倒壊した火の見やぐらが原因かよ。
救いようがないじゃないか。
彼らは町のためにがんばり続けていたからこそ、恨みとかそういった類の念は残らなかったのだろう。
しかし、倒壊のときの恐怖だけそこに残留した、といったところか。
「対処法としてはやはり鎮魂の儀を行い、祠を建てて奉る方法がもっとも有効だろう。神明会の方に手配しておいた。これでこの事件は終結したと言えるだろうな」
「そっか、なら、よかったよ」
「あのまま自殺が進むと奈落が生まれ兼ねんからな。とりあえずのところ、これで安心と言える」
結局、またぼくはほとんど何も出来なかった。
でも、無力感に嘆いているくらいなら努力しなければつぼみに顔向けできない。
ぼくを助けてくれたつぼみのためにも、ぼくは進み続けるんだ。
「あ、あと聞いていいか?」
「あの少女のことか」
「そう。ぼくの大切にしていた蛇の目傘ってことはわかったんだが、なんで人間になってたんだ?普通の人にも見えてたし、お前にも普通の人間に感じたんだろ?」
「そうだな。霊体として感じることができなかった。原因はあの少女が付喪神だったことにある」
「付喪神、って大切にされた道具が心を持つ、ってやつ?」
「その通りだ。基本的にその道具自体の寿命以上に長く大切にされ続けると神格化して付喪神として恩返しなどをする、と言われている」
マンガとかでたまに見られる気がするやつだよな。
とは言え、九十九と書いてツクモと読むのが通例だった気がするが。
九十九年もの間大切にされ続けたものが神格化するとかなんとか。
「でも、つぼみは八年くらいしか一緒にいられなかったんだが」
「傘はそこまで使い続けることは珍しい。骨が折れたりして買い換える消耗品と考えられやすいものだからな」
「そっか……」
「それよりもお前自身の想いが彼女にずっと注がれ続けたため、だろう。時間など関係なかっただろう。だからこそ彼女は人の姿になってお前の目の前に現れた。お前のことを大切に想っているものがいると教えるために」
「……」
なんか珍しく非現実的で恥ずかしいこと言ってるよ。
けど、なんか、もしそうなら、うれしかった。
そうやって、戻ってきてくれたのなら、本当に。
どこに行ってしまったのかわからなかったぼくの大切なもの。
そんなつぼみがぼくのもとに戻ってきてくれて、大切にされていたって、言ってくれたんだ。
あぁ、そうか。
あの時一緒に傘に入ったとき、あんなにうれしそうだったのはそれが理由か。
再び傘として、ぼくを中に入れたかったんだろう。
ぼくを雨から守ってくれていた、つぼみはもう一度会えたぼくを再び守りたかった。
本当に、なんて、なんて幸せなことなんだろう。
こんなにも、大切に、想ってくれるだなんて。
再びこぼれ始めた涙はもう、悲しみだけじゃなくて。
ぬくもりであふれていて。
つぼみに一言でも届くのなら、今のこの気持ちを届けたい。
『ずっと大切に想ってくれて、本当に、ありがとう』
ぼくもずっとお前を大切に想い続けていくよ。
お前に恥じない人間になってやるから、ずっと、見ててくれよ――




