第三十一話『蛇の目』
三一.
あれから大体一ヶ月が過ぎていた。
ドタバタした毎日だったような、なんでもない毎日だったような気もする。
事件は特になく、平和な日々。
それはとても幸せなことで、毎日寝る前に明日も何もないことを祈って眠る。
ハルを失ってからぼくの生活はずいぶん変わってしまった。
それが悲しいものでもあり、うれしいものでもあり、騒がしくも幸せなものでもある。
きっと人生ってのはそういうものなんだろう。
そんなことを感じることができて、これからの日常を大切に過ごすことができる。
それはこれまで失ってきたもののおかげで得た教訓だ。
そんなぼく、秋月 紅夜が見ているのは気が滅入るような曇天模様の空だった。
六月九日月曜日、曇りのち雨の天気予報。梅雨が訪れている。
現在六時限目なのに外は薄暗い。
昔から雨が嫌いではなかった。
両親が家にいたからだろうか。
あんまり覚えていないけれど、何故かわくわくする。
歴史教師の声がぼんやりと響いていた。
雨はまだぱらついている程度で窓を打つこともなく下へ落ちていく。
校庭には誰もいなかった。
サッカーと野球のラインだけがぽつんと寂しく残っている。
曇りのうちは体育もやっていたようだし、その名残か。
日本には昔から四季が存在していて、それはゆっくり移り変わっていく。
その順番は入れ替わることもなく、こうやって何百年、何千年と繰り返してきたのだろう。
その合間合間に季節の境目にはこうして天候が崩れやすい。
この季節の雨は何故かやさしく感じていた。
暖かい春から夏へ移り変わっていく時期。
ぬるまゆい雨。
肌寒さを感じるほどには涼しくもない気温。
ぬめっとした湿気を含んでいて、どことなく重い空気。
ぴちゃり、ぴちゃり。
校庭に青い蛇の目傘ひとつ。
くるくる回ってなんだかおかしな気分になってきた。
アレは、なんなんだろうか?
元気に踊る蛇の目傘。
ぴょん、ぴょんと飛び跳ねながらくるくる回る。
ぐるん、ぐるんとかかとを軸に楽しげに回ってから最後に彼女は、こちらを見て、笑った。
あ、なんか、見たことある――
「どこを見ている、秋月」
「え?あ、すみません!」
顔をしかめた歴史教師がぼくの横に立っている。
教科書でぽんぽんとぼくの頭を叩いてから授業に戻っていった。
しまったな、気付かないとは。
視覚に意識が完全にいっていたと言うことか。
まぁ、あまりに幻想的な光景でぼんやりしていたような気もする。
視線を校庭にちらりと戻すがすでに蛇の目傘の少女は居らず、雨足が強くなっていた。
目をそらしていた数十秒で立ち去れるような場所はない。
夢でも見ていたような気分だった。
もっと見ていたかったがいなくなってしまったのなら仕方がない。
てか他に誰も気付いていなさそうだし、また心霊現象かもしれないからあまり下手に関わらないほうがいいだろう。
そう思ってしばらく授業を受けていると――
「こんにちはー!」
ガターン!
大きな音を立てて教室の扉が開かれる。
そして、そこには先ほどの蛇の目傘の少女が満面の笑みで立っていた。
目をそらしたくなる。
いや、これどう考えても心霊現象だろ?
ぼくに会いに来たとか言うんだろ?
ランの知り合いとかじゃないか?
学校にまで来るなよ。
「き、君はいったい誰だ!?」
ありゃ?
歴史教師が驚きの視線を送っていた。
そして、教室中の視線もそちらへ向かっている。
うん?ってことは心霊現象じゃない?
なんだ、それなら安心か。
そう、安堵の息をついた直後に、ぼくは更なる驚愕に飛び上がることになるだなんて誰が思うだろうか。
思わねぇよ、普通に。
「紅夜の嫁の春日井 つぼみです!えへへ、来ちゃった」
教室中に亀裂が走ったのは言うまでもない。
とんでもないヤツが来ちまった。
もはや誰も口を開けない。
そして、その視線はまぁ当然のことながらぼくへと向かう。
視線が痛いです、先生。
そのぼく自身も口を開いたまま閉じることができず、しゃべることもままならない。
だって、
「君は、誰なんだ?」
ぼく、この子とはお知り合いではなかったのです。
ひと悶着あって、ぼくは何故か早退させられることに。
彼女を家に送り届けろ、と。
それが授業を妨げた罰とかなんとか。
いや、マジで困るんですが。
とは言え二人きりになった方が自由に話せるのは確かなのでありがたくはある。
「えっと、とりあえずはじめまして、ぼくはコウヤ。君は?」
「つぼみはつぼみだよ。コウヤとは会うのは久しぶりかもだけど覚えてない?」
押しかけてきた割に思っていたほど強引な感じではなかった。
会話が通じるのはありがたい。
ぶっちゃけなんかの思い込みとかで突っ込んでくるようなぶっ飛び少女かと思っていたのだ。
しかし、ひさしぶり?
「その、前ってさっき目が合ったのとかそういうことじゃないよな?」
「最後に会ったのはずいぶん前だよ。その時に紅夜はつぼみのことを大切にしてくれてたの」
照れたようにえへへ、と笑う彼女はあまりにもかわいくて、頭を抱える。
なんだ、それ。
ぼくってそんなに無責任に手を出すようなやつだっけ?
身に覚えないんだけどどういうこと?
彼女は青い自然な色味の髪で身長は平均的、アヤと同じくらいだろうか。
しかしなんと言うか、プロポーションが凄まじいことになっている。
うん、はっきりとは言えないのだけど、ぼん、きゅっ、ばぼん!と言う感じ。
出るとこ出てて引っ込むとこ引っ込んでる。
理想的過ぎるスタイルだった。
健全な男の子としては正直なところ直視するのが辛い。
オマケに顔もすごくかわいくて笑顔の威力が凄まじかった。
「覚えてなくても仕方がないかも。紅夜はまだあの頃中学生さんだったし」
「いや、中学生って一年でもまだそんなに昔じゃないから忘れてないと思うんだけど」
ついでにこんな目立つ青髪忘れられるわけがない。
地毛っぽいし、顔立ちだって結構特徴的だと思う。
なんと言うか、ぱっちりとした目の中にくるりと大きな瞳。
その瞳の色素も髪と同じく薄くてふちが濃くて中が薄く、中心がまた濃い。
その目がとても印象的で、一目見たら忘れられそうになかった。
ただ、ひとつだけなんとなく仮説があったので今こうして研究棟に向かっているのだ。
「どこに向かってるの?こっち校門じゃないよ?」
「部活だよ」
「つぼみもついていっていいの?」
「あぁ、ちょっと調べたいこともあるからさ」
騙しているようで心苦しいところもあるんだが嘘はついていないから気にするな、自分。
それに確かめておいたほうがいいだろう。
違ったら勘違いしてしまっても彼女に失礼だし。
そして、
『認証、反応二個体、承認できません』
「やっぱりかー」
そうだよねー、そうだと思ったよー。
って言うかそうじゃなきゃおかしいと思ったんだ。
いきなりやってきて嫁なんて言う子がいるわけがないだろ!
こんなにかわいい子が人間なわけがない。
「君はいったい何者なんだ?」
「あぅ」
『コウ、入るの』
「あ、キリ。いたのか」
『私は一通りの修得科目は終了済みなのでこの学校の授業は受けていない』
「改めてお前のすごさを知った気がするよ」
初耳だったし。
どういうことなんだよ、終了済みって。
いや、そういえば博士号持ってるとか言ってたっけ?
理学博士だっけ?
なんかすごい論文を発表したらしくてそっちの業界ではかなり高い評価を受けているとか。
確かアキラも同じ理学博士だった気がする。
てか同い年なのに大学教授レベル以上の頭脳を持ってるって事なんだよな。
すごすぎるんじゃないか、それって。
想像もできないな。
キリが解除してくれて中に入れるようになり、つぼみと連れ立って中に入る。
「サンキュ」
「ちょうど飲み物を買いに来たところだった」
「そっか。あー、そういえばアキラもいるのか?」
「いる。これはアキの分」
ドクペだった。
なんだ、頭のいいやつってのは味覚がおかしいんだろうか?
いや、キリはミルクティーを持っているしそんなこともないはずだ。
知的飲料とかなんとか言ってる作品を読んだことがあって飲んでみたのだが、あの甘ったるくて薬っぽい感じが受け入れられなかった。
コーラのがはるかにおいしい気がする。
「てかここの自販機はドクペとか置いてるのかよ」
そんなに需要あるのか?
「アキと理事長の好みらしい」
「理事長もその口かよ?」
「私もさすがにあの味は理解できない」
「だよなー。アレが知的飲料とか言ってるやつの気が知れない」
突然背後からぬっと手が現れてキリの手からドクペが抜き取られていく。
「キサマのような凡俗に理解してもらおうなどとは思っておらん」
「アキラ!?」
身長がメンバーの中で一番高いのでなんだか見下されている感があるのでちょっと立った状態で向かい合うのは好きじゃない。
まぁ、ぼくが低めだからなんだけど。
カシュ、とプルタブを起こしてそのまま一気に飲んでいく。
「フン、やはりこれでなくてはな。炭酸がコーラしか売っていない自販機を見ると萎えるからな」
「ドクペしか売ってない自販機とか見たらむしろ戦慄すら覚えるわ」
「凡俗には理解できんということだろう。別に構わん。理解できるものだけがこの飲料の良さを理解していればいい」
「それを理解できなかったら凡俗になるのならぼくは凡俗のままでいいよ」
「そうか、残念だな。まぁ、冗談だが」
そして、そこでアキラは初めてつぼみに気付いたようできょとんと目を細めて首をかしげた。
「キサマはまた新しい女を連れてきたのか?」
「失礼なことを言うな!?ぼくが女たらしみたいじゃないか!?」
「違うのか?」
「断じて違う!」
「違うの?」
「キリまで言うか!?」
「愛人でもいいよー?」
「つぼみ、お前まで乗るなよ!話がややこしくなるから!」
はぁ、もう、なんつーかよくわかんないけど疲れるっつーの。
「しかし、なんだ、こうやって普通に話せてるってことはアキラにもちゃんと普通につぼみは見えているのか」
「あ?」
「いや、つぼみは人間じゃないからな。まぁ、何かはぼくもまだわかってないけど」
「待て、お前は何を言っている?オレにもちゃんと見えているか確認する意味がわからない」
「なんでわかんないんだ?」
「何故、ここにいるオレに確認したのだ。一般の人間に確認すればいいだろうが。オレには見えるに決まってるだろう」
「いや、他の人にも見えてたけどさ。アキラなら人間じゃないものは見えないけど感じれるんだからもし人間じゃないとしてもちゃんと判別できるだろ?」
「いや、判別は確かにできるがキサマは何を言っているんだ、オレは霊視能力があるのだぞ?」
「コウ?何を言っているのかよくわからない」
「いやさ、アキラって霊視できないだろ?お前、見えてないじゃん」
そう、だからこそ、ぼくはここに来たのだ。
『霊視能力はないけど霊体感応でいろいろと気付ける』、アキラに判断してもらうために。