第三話 強行突破作戦
倭鬼の手から小ぶりな、赤錆た斫り斧が振り下ろされた。
ゴブリンの向こう側に、細い腕が跳ね上がる。天を仰いだ掌は、粘っこい尾を引いてーー落ちた。
細く耳に届いていた『おねぇちゃん!』と呼ぶ、幼子の哭き声は止まった。
「俺は! 俺は、また! 間に合わんのかッ!?」
セレンゲティは、自分でも何を喚いているのか解らない。打ち合わせの通りに、注意を引き付けながら鬼供の中に割って入っただけだ。開けた沢にはゴブリンが十ばかり、小癪にも簡易な竃を囲っている。
セレンゲティは駆ける勢いのまま水平に振って、無防備な後頭部に槌矛の殻物を叩きつける。振り抜いて、果実を叩き潰す感触。血生臭さがバッと広がる。
鼻孔を犯す生臭い匂いを、口から吐き出す。と、垢と糞尿とが入り混じった臭気が、迫る様に纏わり付いて身体が傾ぐ。
歯を食いしばり、これに耐える。
ーー違う。これは、《睡魔》の呪文。
レナータは、声になる前の叫びを聞いた。セレンゲティと共に出でて撹乱する手筈であったが、先に行かせて足を止める。
叫びの元に当たりを付けて、手早く《睡魔》を唱える。もし生きているならば、痛みの衝撃で生を手放してしまう前に!
素早く駆け寄って様子を伺う。ゴブリンに取り囲まれた子供達が、焚き火の近くで転がっている。セレンゲティが、子供達に近付こうに近付けないでいる。
脇からセレンゲティを狙う一匹の腹と肩に、矢が二本生えた。
風上に位置取りを求めて、カエノメレスは彼等とは先に別れていた。ふと葉の裏に、快く生臭い香りが触れた。現役の二人が?! と、神経の通わぬ樹皮が騒めく。が、位置取りを急ぐ。
柵人の中で樹人が馴染む為には、有為であり続けなければならない。
見通しが効き、迂回を要求する茂みに妥協をして、上着を脱ぐ。こうなると、森に溶けて消えてしまう。ゲズウは、森の精の友だ。弓を取る者は少ない。弓勢も速射も、たかが知れている。
然してカエノメレスは、弓箭の面目を知る者だ。後ろ暗い頃よりも、ずっと幹を正して狙いをつけた。
かつてセレンゲティが『知ってれば、耐えれる』と短く答えた通り、睡魔に耐えてくれた。
耐える事で応えてくれたセレンゲティの為にも、最も"今"有効な一手を打たねばならない。
続けてレナータは、棍棒と石斧をそれぞれに持つモノの辺りに、《痒雲》の呪文を投げかける。結果を伺う前に、《惚け》の呪文を唱え始める。
セレンゲティをも巻き込んで効果を発揮した《睡魔》の呪文は、子供達とゴブリンを二匹無力化した。奥歯を軋ませて傭兵闘士は、メイスに力を込める。
「こなくそォッ!」
矢を生やしてたたらを踏んだ一匹を、盾で殴って押し返す。返す勢いでメイスを掬い上げて、寄って来た一匹を捉える。しかしすんでの所で、転がり躱される。そのまま足元を低く四つん這いに交差して、大振りなブッシュナイフで脛を斬りつけて抜けて行く。
振り返って背中を狙おうかとすれば、別の一匹が入れ替わりに石斧を出鱈目に振り回して割り込んでくる。駄々子の様に振り回す石斧を、殻物の更に先端で弾いて、そのまま大振りに左腕を叩き折ってやる。
そうする間にも炎の向かいから、大小様々な投石がセレンゲティを襲って強かに打ち据える。盾と我が身で、倒れた子供達を庇う。
投石をセレンゲティの肩口に叩きつけて嘲弄するゴブリンの足首に、とつと矢が吸い込まれ、途端にのたうち回る。
盾の死角から、短槍を一杯に伸ばしてくる。硬い革鎧に穴を穿ち、肉に浅く食い込む。
「大赤字だぞッ!! 修繕費でェっ……、あァーーッ!」
穿ちの衝撃に逆らわずに身を翻して、メイスを兎角流し込む。右の鎖骨から殻物を丸ごと呑み込み、血反吐を垂らして顔から崩れ落ちた。
血が噴き出してなお腕を掻き毟り続けるゴブリンに、身体ごとぶつかって沢の方へと押し倒す。
焚火に足を突き入れて、湯の沸いた大鍋を蹴倒す。一匹がまともに被って、沢へまろび入る。
「熱っちぃぞォ! ド畜生奴ッ!!」
斫り斧を持って惚けていたもう一匹が、はたと我に帰る。頭部を狙って斧を投げ、矢の刺さった背を向けて逃げ出そうとしている。丸盾で斧を刺し受けて、振り落とす。新たに太ももに矢を受け身が竦んだそいつの頭を、力任せに後頭部から叩き割る。
レナータが時折用いる痒みの雲と思しきで、ゴブリンがもう一匹、体中を砂利や礫の地面に擦りつけ、身をくねらせながら赫を塗り付けている。
逡巡していた一匹の頭に、矢が一本二本と現れ律動する。
逃げ出そうとしていた小鬼は、森から駆け出てきたレナータと交錯する。大太刀に一閃されて、沢に水音を散らす。
セレンゲティは痒みに気狂う残りの一匹を、顔面から叩き潰した。
やはり数匹は逃した様だ。
水の匂いと、葉風が急に戻ってきたかに感じられる。
途端、静かになった……。
「何匹逃した?」
「……多分、三つ」
「姉弟は? 無事でスか?」
「弟の方はまぁ無傷に見えるが……、姉の方が……な」
六つか七つに見える童女の右肘の二寸先は、赤く蹂躙されて、元の形も不明な具合になっている。一定の呼吸で、赤黒い涙をつうと流す。
二人の頭を何か、瞬時よぎって言い澱む。
「持っていると思いまス。けど、使わないで下さい。……出さないで置いて下さい。
私達では、とても対価は払えまセん。……しかし、見てしまえば、どうなるか分かりませんカラ」
何を、とは言わない。
表情に乏しい割りに、哀しい響きで話すものだ。
「村に神官は?」
レナータは問う。カエノメレスは葉先を揺らして、小さく首を振った。
「俺たちも、一つきりしか持って無いんだ。心遣い痛み入る。レナータ、済まんが《麻痺》の呪文だ。焼くぞ。狩人さんは、肩を縛ってくれ」
セレンゲティは、愛用の短刀を沢で入念に洗う。童女を縛っていた荒縄で、カエノメレスが肩口を固く縛って血止めをしている。
「其れに虚ろ、我に器、界に静寂を。三相五体に全きを得ず。魔力よ、身命を巡る理を縛れ」
童女の右腕が、びくりと跳ねて血が飛び散る。
セレンゲティは、傷口をナイフで割いて骨を漏出させると、柄頭で骨を缺いて欠けらをまた、ナイフで取り除く。
汚れて無惨と化した肉を切り捨て、残った部分で元の腕の形に捏ねくり直す。
打ち捨てられた租税を納める時に使う麻袋に、消え損なった燠火から火を移し、傷口を焼いた。
魔法の効果で右腕は強く麻痺して、童女が目を覚ます事は無かったようだ。
肉を焼く香ばしい匂いが、ゆらりと漂う。カエノメレスは、無意識に数歩退いて周りを警戒する。
そっと童女を抱き抱えて、焼けた傷口を沢に挿し入れて冷やす。じりじりと重たいだけの時間が流れる。
樹人に目で合図して、傷口を縛っていた縄を解かせる。
童女を背負うたセレンゲティは、縄を負ぶい紐にして、具合を確かめる。
三様に口は開かなかった。
「弟の方は、狩人さんに任せる。死臭が流れれば、デカイのも寄ってくる。鬼共も仲間を連れて戻って来るかも知らん。レナータ、走れるか?」
レナータは淡い燐光を五つ創りだして、触れる事で応えた。口の端だけで力無く笑う。
三人は、再び走り出す。
途中セレンゲティの背中で、意識を酩酊に取り戻したようだが、レナータが慌てて安心させようと必死だった。体力を失って再び眠り堕ちたようだが、先を急ぐ。
嗚呼……。
「柵だ」
誰とも無しに、呟く。
不揃いな丸太作りの柵が見えた。
二人は、森を突破し生きて柵へと、辿り着き、 また帰って来たのだった。