第二話 二人だけの戦場
昼過ぎを跨いだ頃、南の青藍の空に浮かぶ太陽は、低く鋭い。
こちらからは見えなくなった北の空からは、微かに柔らかな陽射しを感じられる。影を失った胡粉色の雲が、くっきりと水平に連なって白緑の空に滲んで消え入るまで続く。天頂を仰ぎ見みれば、薄い若芽の色の天蓋が眩しい。
立派な角を持つ何頭かの鹿達が、冬に向けて様々な緑を食んでいる。もし恋の季節に遭遇したなら、威嚇では済まない距離だ。だが、セレンゲティの倍も有りそうな体躯と平たい角を持つ一頭は、こちらに一瞥を送ると興味を失ったように食事に戻る。見える中で一番小さなものーーと、言っても、レナータと同じ位の体格だがーーを庇う位置へと、少しずつずれながら素知らぬ顔をしている。
傭兵の二人も緊張を緩めて、口角が上がる。
「僕らも、食糧が足りてる訳じゃぁ無いんだけどね」
「強弓も無し、矢も足らん。腕試しなら俺と離れてからだ。たっぷり一刻待ってからで頼むな」
「冗談さセレ。うちの養父は我慢とか辛抱が、教育方針だったんでね」
ひょろりと細い半分が森人の青年は、半分は柵人であり、食べる盛りの年頃でもある。冷静の仮面を繕ってうそぶいても、紅潮した耳の端が顔を背けただけこちらを向くものだから、セレンゲティとしては苦笑いしか仕様がない。
手妻を用いれば良く肥えた鹿が、暫くの間二人の腹を満たしてくれるだろう。
しかし、今は『死線では無い』という認識が、二人の共通の了解である。
魔術の類は絶大な効果を期待出来る、希少な消耗品だ。術者の精神力と、精神そのものを対価に求められる。尋常にあって乱用するならば、危難に直面する時には、後悔する事となるだろう。反応に遅れ判断を誤り、冷静を欠く。挙句、魔術に頼ろうとするならば、期待を裏切る大失敗どころか、詠唱すらままなら無くなる。
箆鹿達から適度に距離を開けて、ゆるゆると下ろうかとした所だ。
ヘラジカ達が先に"何か"に気付き、一斉に斜面の下側にその顔を向けると、二人をすり抜けて逆方向へと走り去って行くでは無いか。
「つくづく僕らはツイて無いな。さて、鬼が出るか? 蛇が出るか……」
「さっきは鬼だったからな。次は、蛇と相場が決まってる」
「問題は、どんな蛇か? だろう」
「そうさな、用心に越した事は無いか」
二人は背負い袋を降ろすと、手早く武装を整える。
セレンゲティは、麻布を頭巾に巻いたら冑を被り緒を締め、メイスの把の握り具合を確かめる。下ろした丸盾の内側に有る帯革に腕を通す。丈夫な梛の木製の盾は、赤銅の薄片で縁取られており、彼の戦歴を表面に刻んでいる。
レナータの方は、旅装と武装にそう変わりは無い。革兜の緒を締め直す程度だ。
セレンゲティの背後を見回しながら、左手指に嵌った指輪を弄んでいる。太さもまばらに歪な銀の指輪だ。
大太刀を持つレナータは、胸元に迫る長さの杖に一瞥をくれる。鹿角を削って握りと石突きを仕立てた、意匠も無く飾りの少ない杖。山歩きの輩となる事暫しであるが、魔術の助けにと養父が手ずからに誂えてくれた物だ。自然と、力が篭る。
なだらかな丘の下から、何者かを呼ぶ声が聴こえる。
「森ん中で、でけぇ声出しゃァがって……余程の阿呆ぅか? さもなけりゃぁーー」
「尋常ならざる、か?」
「前者なら吊るして説教だな。後者なら……」
セレンゲティは、何かを言い淀んで一呼吸置いた。
「俺達の出番かも知れんな。……レナータ。お前さんはいつでも撃てるように、そっちに隠れておいてくれ」
「ん、セレ」と、レナータは呟いて、荷物と共に茂みにもぞもぞと躙り入る。
時を置かずして『おーい、おーい』と、何やら切迫した響きの呼びかけだ。幾人かの人語を話すモノが、近くまで登ってくる。
誤射を受けて怪我をしては、大損にしても情け無いものだ。セレンゲティの方から、声を張って呼びかける事にしたようだ。
「柵の外で大音声とは、何事か!? 事と次第によっては、立ちはだかりも助太刀もするっ。如何かっ?」
「そちらへ行きますだ。撃たないでおくんなさいよっ!」
登って来たのは、野良着を着た柵人の者達が五人ばかり。それぞれに鍬や鎌を手にしているが、戦い慣れのある者にはとても見えない。
セレンゲティは、革鎧の内側から予め取り出しておいた記章を見せる。傭兵の証だ。
「俺は傭兵だ。セレンゲティと言う。改めて問うが、何事か?」
「はぁ……、傭兵さんかね? 珍しい。儂ら、この丘の下った辺りに柵を囲っとる者だが……。朝方に子供が二人、柵から抜けて遊びに出ちまって、帰って来ねんだ」
「くそっ!」
「!?」
セレンゲティが悪態を吐くのと、レナータが息を飲むのは、同時だったかも知れない。
「誰ぞ、森を案内出来るヤツは居ないか? 健脚な奴がいい。……レナータ、出て来い。荷物も頼む」
レナータは心得たとばかりに、二人分の荷物を茂みから引っ張り出す。
「誰か、僕らの荷物を頼む。盗るなよっ! 呪われる品も混ざってるからな」
「あんたら何か、心当たりが有るとかね? だとしても、儂らはのう。傭兵さん方に払うほどのお金は……」
「倭鬼供を丘を越える途中で見た。今から急いでも、手遅れかもしれん」
「ほ、本当かいっ?! 今、人は呼びに行かせてる、ちょっと待ってくれ! じゃけんど……」
「飯と湯の用意をさせとけよ。あと、有るだけの薬草と寝床だ。それだけでいい、寝覚めが悪くなるからな」
農夫達に急がされて、狩人と思しきが駆け上がって来る。樹皮の肌に、涙滴状の細かい葉を頭に繁らせた樹人。すっ、と森に生えた一本の木が、革の上下を着て狩人の出で立ちで現れた様。肩には合成弓を抱え、襷掛けた矢筒からメダルを取り見せるのである。
「樹人が柵人と、しかも狩人たぁ珍しいな。傭兵のセレンゲティだ。案内は出来るか?」
「カエノメレスと言いまス。見ての通りでス。フェンサにもヱルフにも、後れをとるつもりはありませン。四年前まで私も傭兵でしたから。メダルを持っておいて良かった」
柵人と樹人は、互いに手早くメダルを確認する。
「牡丹の花弁が二枚か、信頼出来そうだな。案内と援護を頼む」
「剣はソコソコ。弓ならば、其れなりより少し上だと。あなたは……普通科、凄いベテラン」
「レナータ、《防護》の手妻を。走るぞっ」
「…………アルムムッ!」
既に詠唱を始めていた《防護》の呪文を、レナータは完成させた。自身と、セレンゲティと、樹人のカエノメレスに燐光がちらりと触れる。
「動きながら、打ち合わせるぞ。考えられる状況は三通り…………」
樹人を先頭にして、非常識な速度で走る。いや、速度が異常なのでは無い。森を走る事が非常識なのだ。
防護の魔術を受けて、触れただけで爛れる草葉も、棘を纏う木々も気にはしない。毒虫も何をも全てを無視するのだから、前提から違う。
一刻余りかかる道のりを四半刻足らずで、直線的に踏破する。
◇◇◇
パパ! ママ!
怖いよ! くさいよ! わたしたち助けてよ!
弟がしゃくり上げるように、泣いてる。涙と鼻汁で顔中がぐちゃぐちゃだけど、多分わたしもいっしょなんだ。弟のところへ走ろうとするたんびにわたしは転んで……ゴブリンたちは笑うんだ。
わたしは、村で飼われてるヒュドおじさん家の狼と同じように、お腹を縄でぐるぐる巻きされて動け無いし。弟はもう疲れきって、うごく元気が無くなっちゃったからしばられてもいないんだ。
大きなお鍋に火がかけられてる。お湯がわいたら、わたしたちきっと食べられてしまうんだ。
『私達は柵を作って、その中で暮らすから柵人なんだよ』 『柵の外には、出てはいけないよ。絶対に! 約束だ』 『柵の外には、食人鬼や竜狩熊がいるんだよ』って、パパやママが言ってたのは本当だったんだ!
遠くでわたしを呼んでる。こんなに近くにいるのに! わたしの手は届かないし、弟の声も良く聞こえないよ。
弟の後ろからゴブリンがやってきて、赤くて大きなオノを持ち上げてる! わたしはお姉ちゃんだから、弟を守らないといけないんだ!
少しだけ後じさって、とび出す。縄がゆるんでいきおいがついて、弟に手をのばしてーー。
ーー『……パパ、ママ……。 手がね、熱いよ』ーー
パパより大っきな背中だ。ゴツゴツなのに、あったかい気がする。おんぶだぁって、安心する。
「お姉ちゃん頑張ったな! 弟は無事だぞ! お姉ちゃんだもんな!」
「痛いな!? 痛いよな!? 生きてるから痛いよなっ!? もう少しで、村に着くから頑張れっ!」
ママくらいキレイな声が聞こえるよ。頑張れって、頑張ったって声がする。
『パパ! ママ! わたし、お姉ちゃんだから、お姉ちゃんを頑張ったよーー』