第十六話 光る宇宙
「本当に大丈夫なの?」
ジェネッタは、随分と不安そうだ。
「感覚共有は何度か試しましたから、問題無い筈ですよ、ジェネッタさん」
「任せたまえ、ジェネッタ君。何かあればすぐに諸君等の元へ駆けて来るから、宜しく頼むよ。セレンゲティ君もな」
ライルはととててと、洞穴の更に奥へと進んで行く。
「何でこう……ライルさんは、あゝも自信が有るんでしょうねぇ」
「感覚共有中故"聞こえているぞジェネッタ君"だそうです……」
「にゃろぅ、偉ッそうに」
三人は全周を注視しながら、ゆっくりと尻尾の行く先を追う。
「ラ・イルの宿り身は夜行性の動物だから、夜目が効くんだ。真っ暗なのに物が見えるのは、新鮮な感覚だよ」
ライルは、なだらかな湾曲を下る。水平とは無縁の洞内。
松明に照らされて、影がたなびく視界と、水の流れを脇に隘路を進む視界が、レナータには薄い膜になり重なって見える。
更に感覚を研ぎ澄ませば、足の裏を滑らせる苔のしっとりとした感触や、三人では気付けない微かに漂う獣臭さえも、捉える事が出来る。
獣の匂い? との呟きに揶揄をされれば、ライルが憤慨する。随分と賑やかになったものだ。
ライルーー本人曰く、エティエンヌ・ド・ヴィニョルーーの視界は、広く低い。
三人が姿勢を低くして、垂れた鍾乳石の先端に意識を向けているのは、つい先程にライルが通った道筋。
彼の目を通してレナータが見たこの景色は、暗い闇に棘が無数に浮いているかに見えたのだ。
複数の感触を、共有し集中していると、なかなかに無視し得ぬ頭痛が頭を重くする。この頭痛もまた、レナータのモノなのか、ライルのモノなのかが判然とはしないのだった。
洞穴を抜ける空気が、ひょうひょうと鳴く。まるで三人と一匹が沈黙した時を狙って鳴らしたかのように。
『これは……いやはや、凄いな』
ジェネッタの、エンドラ家の屋敷が丸々一つ納まるやもしれぬ広大な空間であった。
ライルが居って睥睨しているのは、天井に近い端の辺りで、一間足らずの盆が足元から無数に重なり合って広がっている。滑らかな岩製の盆。その縁は、ライルの顎が乗るくらいか?
滴り集まった清水を湛えて、その先へと水の流れが続いている。ライルから見通すのには難儀であるが、その流れも沢か小川かと呼べる程度の、さらさらという涼音を伝えてくる。
ライルは、慎重に盆の縁をなぞり下る。
縁にしがみ付いて、伸長に流れを見下ろす。
暗い。
いや、溟いのか。
底を見通す事は成らず、存外地底湖と称すべき深さが在るのかも知れぬ。
ライルはぷるりと身震いして、収るりと身を縮めた。
『主様よ、微温いのだが……何故であろうか?』
一方で、レナータもその生温さを感じてもいた。
「洞穴を空気が流れて、笛みたいに鳴ってた。水の流れにも先が在るようだし……地上へ、別の何処かへ繋がっているのかも知れないね」
『なるほど……』
無数の氷柱石が石筍ーーレナータは石柵と呼んでいたーーと、向かい合い、まるで怪物の大口の様におどろおどろしい。天井の低くなった辺りでは、それらが繋がって石柱となり仰せ、視界と進路を遮るのである。
氷柱石の向こう側、石筍の奥、石柱の影……。至る所に隘路や隙間が覗く。何が飛び出すか? と、警戒を怠れぬ。しかし、かえって不気味なほどに、何も現れ無い。
何も出てこないのをいい事に、ライルは無手勝に先へと進む。
暫時進んだ後、レナータ/ライルはそれに触れた。
基は石柵であろう洞窟の壁の割れ目に納められて在ったのは、拳よりやや大振り程度の聖印。
表面には薄く石灰質が固まり、元の材質を覆い隠してはいるが、確かにそれは聖印。
刻まれた紋様は"分かつ円に流水"
屋敷の裏手にあった祠で見た聖印と、同様のものに見える。
「……やっぱり、在ったよ」
「ここにもフェルディナント王が来て、何かをしたんだ。聖印を持ち込んで」レナータは興奮を押し殺して呟くように、まだ見ぬ二人に伝えた。
ライルの目を通して、足下不確かになりつゝも検分する。
不自由さに呻きながらも、ライルはレナータに身体を預ける。
釿で戸板を削り出す様な、時間の囁き。一目して完成品に見える物を、完成へと導くに必要な、そんな時間の連なり。
それらの間にも、一匹と三人の距離は縮む。
三人は、先刻一匹が岩盆を睥睨した場所まで歩を進めていた。
斧で裂いた亀裂の如く、天井が低く、左右には無限に思える暗黒が広がる世界。その果ての足下に、ライルが潜った亀裂がある。
感応を切り、レナータは慎重に亀裂を確認した。
レナータとジェネッタは、身を屈めて。履いた剣がつっかえるセレンゲティは、荷物を渡してから這いつくばって潜り落ち、それを観賞する。
確かにそれは、重なり合い水を張った岩製の盆である。手に掲げる松明の灯をキラキラと反射して、まるで彼等の為に切り取られた星の海の様であった。
快い涼気が落葉に似た気配で頬を撫でる。
誰の喉からか「ほう」と吐息が漏れる。
荷物を担ぎ直し、慎重な足取りでライルの行った先を目指す。
皆が口を閉ざさば、静寂に響くのは水を跳ねる足音だけとなる。天然の造作に圧倒される様が、三様に共有されたのだ。
「嘆息の他無し……です」
ジェネッタが吐息と共に漏らす。
「ライルの目を通して見たのとは、また違う美しさだ」
レナータが応じる。暗視がもたらす視界とは、やはり違う。造形美に原初の恐怖さえ感じていたものが、今は、荘厳の畏怖に慄く。
「……あぁ、スゲぇな。靴ん中に水が入ってこねぇから、万年の工芸に魅入られるんだろォなぁ」
セレンゲティの所帯染みた感動の言に、別の嘆息が重なる。
一呼吸を置いて自然と、くすりと笑みが零れた。
この暖かな寸時と、続く次の寸時は、レナータの長い生にあって忘れ得ぬモノとなった。
疼痛。
レナータの脳髄を、突如、鈍い痛みが襲う。
それはライルからの精神感応であり、警告であったのだ。
レナータの口を借りて、ライルが低く、強く伝える。
「諸君。慌てず、しかし急いできたまえ。戻るにはもはや間に合うまい。通り過ぎた石柱の向こうから、何かが来るぞ!」
水音を立てて走り出し、小さな獣の姿を見つけて駆け寄る。
適当な石筍の陰に荷物を放って、三人は装備を整えるのだ。
何かも警戒しているのか? 赤い瞬きを高い位置に燈して、中々に近づいては来ない。それは半端に知性を感じさせて、不気味さを強く印象付ける。
「今更ですが、セレン。貴方、主武器は?」
「俺ァ戦じゃ大弓を使う。持っててきてもおらんぜ、依頼は戦の予定じゃ無かったろ? どうせ、この間合いじゃァ弓なんぞ何発も撃てはせん」
セレンゲティは、ざっくりとジェネッタに答える。ついでに「お前さんは?」と、水を向ける。
「私は騎士ですよ? 鹿は連れてませんし、洞窟には入れないでしょう。鹿も無しに投擲用金属短槍は重いばかりですから……」
二人はちらりとレナータを一瞥する。示し合わせた訳もないはずだが、同時だった。
レナータはゴクリと唾を飲む。
灯る燈色に照らされて露わになるは、柵人の頭一つなら丸飲みにするであろう竜の頭。
チロチロと火炎を口元から垣間見せて、洞内を快い涼温に暖めている……。
「ライル。魔力で同調しておくれ」
「やれやれ……腹を空かせているのだろうな。アレは」
半森人と小動物。
洞窟に溜まる澱んだ魔素を、硬い表情のまま胸いっぱいに吸い込む。
一本が短剣程もある鉤爪を見せて、しなやかな前脚が清水を飛ばした。