第十五話 託されたもの
◇◇◇
蜻蛉を追い駆けている。幼い自分。
滞空し、急に軌道を変えて、くいと上昇する。
宙に飛べるはずも無くて、足が止まる。
上昇して、また、一所に漂う蜻蛉の向こうに、麦粒ほどの何かが飛んで往くーーたぶん飛竜。
遥か彼方を飛ぶ、飛竜の姿に目を凝らす。
やがて、薄焦茶色の天蓋に溶けて消えてしまう。
消えた先は、半円に切り取った茜色の空で、毎日見てるのに知らない空……あぁ、私は私では無くて、血水晶の見せる幻視なのだ、と幼いなりに感得する。
夕餉だと、呼ぶ声が聴こえた。
弾かれたように、振り返った。
振り返るとそこには、仲間の命を奪った竜狩熊!?
愛用の短剣では、いくら振り回しても傷一つにもならない!
そう。蓋を開けてみれば、何て言う事も無い。毎年村から竜狩熊を遠去ける為に、架空の矮鬼退治を依頼してた訳だ。
矮鬼が居たなら、減れば良し。竜狩熊が退治されれば僥倖、と。
悔しくて、無力感で溢れて、泣く事しか出来ない。
ただ泣くばかりの私に、ご贔屓さんがお捻りを下さった。少しずつ、少しずつ、自由を買う為にとっておこう。
不作の年にも、芸を売る傭兵達がやって来る。
祭の時くらいは、皆、羽目を外すのだ。
祭の終わった翌日、私は銀貨で売られた。
一緒に売られたあの娘も、大好きだった向かいのあの子も、もう名前も思い出せ無い。
柵を出て乱暴されて、森を越えて、街では金貨で女衒に売られた。
狒々爺に媚を売って、身請け話で貢がせた。貯めた金で自由を買い取る事が出来た!
あぁ、そうだ。あの日見た、飛竜の飛んだ先へ行ってみよう……。
立ち寄った村で、子供を引き取る。
仕様がないから、銀貨を握らせた。
子棄ては出来ぬと泣くのなら、こんな事しないでよ!
せめて町で暮らせるように、道行きを頼まれる。
あぁ、……嗚呼ッ。
苛立ち、焦立ち、荒立ち。
短剣をひたすらに、只管に振り続ける。
踏み込んで、突き上げる。ひたすらに、ただ只管に……。
雨の日は、少し好きだ。野良作業でいつも忙しい母ちゃんが、昔語りをしてくれる。
内容は良く覚えられないから、おんなじ話を何度もせがんだ。うつらうつらと夢心地に聴きながら、雨のまくを眺めるのが、好きだった。
歩哨に立って、雨のカーテンを一緒に眺める。
よく仕事を共にする、気のおけない傭兵仲間だ。
汚れた私は幸せになれないんだと思う、けど。
少し……、少しだけ気になる仲間なの。
練兵場の端を使う。
火照る顔が見られないように、短剣を突き上げる。
踏み込んで、突き上げる。疾く、鋭く。
この気持ちは、まだ……。
犬頭の汚らしい妖魔! 腐銀犬奴ッ。
深く踏み込む。地を舐める程に!
一足に間合いを潰して、突き上げるッ!!
ほら、ね。反応も出来ないまま、腐銀犬の頸が堕ちるじゃない!
ね?
あれ? なんで、死ぬの?
義務感みたいに、逃げろなんて言わないでよ。
ねぇ、何で燃えてるの?
この気持ちは、まだ……。
ダメだ。鉤爪が背中に。
あぁ、……嗚呼ッ。
伝えなければ! ……伝え。
誰だろう、私を呼ぶのは?
嗚呼、伝えなければ……。
◇◇◇
「ジェネッタっ、おい! ジェネッタッ!」
次第に激しくセレンゲティが揺さぶる、けど、ジェネッタは帰って来ない。
ライルがそわそわぐるぐると、ジェネッタの足元を歩き回る。
「ジェネッタッ! 帰って来れなくなるぞッ」
「ダメだセレっ。ジェネッタさんの頸が折れちゃう」
セレンゲティは手を振り上げて、頬を張ろうとして……止めた。
「いや……、加減はするぜ」
仲間としてか、出資者故か? ライルが心配そうに伸び縮みして覗き見る。
「一体、ジェネッタ君に何が起きているのかね?」
セレンゲティは肚の内で、レナータの不運に感謝しておく。ライルに似合わない低音は、セレンゲティを少し落ち着かせた。
「ジェネッタの意識は血水晶が繋げた、夢幻の異世界を旅してるのさ」
「異世界へ……?」
「そうさ。大概はソリが合わんで、すぐ戻ってくるんだが……鹿が合うのか、戻って来ない奴も居る」
磨き上げた黒曜玉の瞳が、疑問符を浮かべた。
「戻って来ない場合は、どうなるのかね?」
「意識が魂を引っ張り込んで、肉体は朽ちるまで置いてけぼり……らしい」
「砂の精を呼んで、どうにかなるかな」
「心身を正常に戻せる。と、先程セレンゲティ君は言っておったな? 其れを求めてもこうなるのかね?」
「んなこたぁ無いさラ・イル」
「血水晶の恩恵は二つ。有り体に言えば、回復か継承だね。回復を願えば、瞬時に。腑がはみ出てたって生きてさえいれば癒してくれる。心も同時に、気が触れていても。だそうさ」
「継承って奴ァ、見ての通りだ。時間も場所も煮溶けて混じり合った夢幻界へ行って、託されてくるのさ。たぶん、何かを」
「……」
飽きたのか、退屈なのか。ライルがジェネッタの体によじ登って巻き付く。
一頻りぶら下がってみたり、顔を舐めてみる。
◇◇◇
蜻蛉を追い駆けている。幼い私。
漂う蜻蛉の向こうに、麦粒ほどの飛竜が飛んで往く。
遥か彼方を飛ぶ姿に目を凝らす。
やがて、薄焦茶色の天蓋に溶けて消えてしまう。
消えた先は、半円に切り取った茜色の空で、毎日見てるのに知らない空……あぁ、私は私では無くて、血水晶の見せる幻視なのだ、と幼いなりに感得する。
私を呼ぶ声が聞こえる。
嗚呼、呼んでいる。
伝えなければ……。
……誰に?
踵を返す。やはり竜狩熊!
傭兵の私は、腰の短剣を抜いて斜に構える。
大きい。しかし、二足で上体を上げても、食人鬼程では無い!
雄々しい攻撃を済んでのところで躱して、横へ。
刺突三連。鋒は緋脂に濡れるが、やはり浅い。
ここで私は私に切り替わる。
地を砕くかの打撃。後ろ跳びに避ける。
追い縋って噛み付いてくる!
跳ぶ。弧を描く様に飛び込んで、目を突き通してやった。
引き抜く勢いのままに、宙を回る。奴の後ろへ!
振り返って私を捉える頃には、死角。
足元から突き上げる、頸を抉る。
ほら、ね?
わたし、大丈夫。
大丈夫って、伝えなきゃ。……伝えに行くね。
彼のところへ。
「あゝ、仲間の所へ」
じゃぁね。
◇◇◇
爽やかな微睡を感じながら、私は世界から遊離する。
いや、違うな。遊離した肉体へ帰還するのか。
幸せな眠りから穏やかに目醒める感覚は、やはり好ましい。
冷たく清浄な水の香気。それを覆い隠してしまう獣臭。この臭いは、近い。
「お帰り、ジェネッタ君。体調はどうかね?」
声も近い。
なるほど。ライルが私の頭から顔にへばりついているのか。摘み上げて、一睨みつけてみる。
「体調は悪くありません。気分は少し害しましたが」
「それは重畳。ならば少しの間だけ、声を落としてくれまいか? 彼らは君を案じてずっと声をかけていたのだよ」
セレンゲティもレナータも、外套に包まって小さく寝息を立てている。
焦げた松脂の臭い。
暖と灯りだけでなく、スライムが滴り落ちて来ない様に、守ってくれていたのだろうか?
「どのくらい私は?」
「松明二本目だから……一刻半は過ぎておるな」
「三日は過ぎてると思っていました」
「色々体験したようだね」
「えぇ、とても……」
握り締めて、手の平に跡を付けた血水晶は輝きを失って、手の中には寂寥感が残った。
「光の失せた血水晶は、唯の岩塩になっちまう。ありがたく削って使わせてもらうのが、供養ってモンだ」
揺揺目を覚ました二人に、ジェネッタは自らの体験を話した。
多くの事があり過ぎて、復路の松明は、一人一本とはいかないかも知れない。
不思議な感慨に浸りながら、彼女の鎧の背中を確認した。やはり大きく、ざっくりと裂けている。
ちゃりと転がった記章を拾う。憶えの無い、裏書きの土地。
埋葬してやる事は、難しい。ボロボロに錆び朽ちた短剣を墓標の代わり立てておく。
「何十年前か……この先で彼女は、彼女達は戦いました。竜狩熊より強力な鉤爪と、迫る火炎は、まだ目に焼き付いています」