第十三話 足跡のゆくえ
ドッ、と重く小さく、しかし確実に耳朶を触った。
幻触に息が詰まる。だのに、鼻腔には生臭な鉄の味を感じるのだ。
経験的にセレンゲティは、ジェネッタが殺されたものとして反応すると、身を沈めて得物に手をかけた。
目鼻の距離である。
避けよう筈も無い。
アネムリオンの御加護か。
反射的な身のこなしで躱したジェネッタ自身も、胸に手を当てて、穴が空いて無いかを確認してしまう。
「私、生きて?」
髭達磨は、ジェネッタの向こうを睨んで、隙なく腰から短刀を抜いた。
何も無い空間に槍が浮んでいる。
やがて槍の穂先の吸い込まれた先から、粘度の高い錆色を垂らす。
寒風が運ぶ雪片は、次第に粒を大きく変え……その雪が何も無い空間に貼り付いて朧な存在を主張する。
槍を受け止めた空間は、次第にぼやけて輪郭を成し、やがて昏森人の死体へと変じて崩れ落ちた。
「昏森人! 女衒の正体はコレですか?」
「どっちを狙ったかッ?!」
警戒を解け無い二人に、警戒を解いた髭の玄人は事も無げにあしらった。
「どちらかを言うて、信じるのか?」
「ならば、口封じかッ?」
「なる程。そういう線も有ったか……」
俄かに吹雪く気配を見せて、ほんの僅か視線を遮った。
「何れにせよ、証は残らなんだし。殺らなければ、代わりはお前さん等であったろうよ」
仰向けに倒れ伏した昏森人は、被ったローブの裾から匕首ーー当り前の様に赭い粘液がこびりついている。ジェネッタには、知り得ないような毒の類だろう!ーーが、覗いている。
「だから? ……何だってんだ?」
「救うた分の恩は売らんから、有りもしない仇を探すのは……やめにせんか?」
「何を言っーー」
「……ーー分かりました」
「おいっ。いいのかよ?」
「人を呼んで来ますから、その昏森人を見張ってて下さい」
「承った」もっさりと髭が蠢く。
ジェネッタを庇いながらの後退。ジェネッタ自身はと言わば、気にも留めず踵を返すと、木々の間を縫って来た道を戻る。
憮然と、合点のいかぬセレンゲティは背後を気にしながらジェネッタに続く。
「どうした? どう言うこった?」
「彼は、警告です」
「ダークヱルフと組んでか?」
ジェネッタは柔らかに足を止めると、振り返った。そして、寒空を春と誤る程に暖かに微笑んだ。
「昏森人の方は、知り様も在りますせんが。まぁ……大方ニアンガか、シウダートホヘイダでしょうがね」
「?」
「王家は。モトラッド王家は、嗅ぎ回るな、これ以上詮索するな。と」
「俺が……必要な理由か?」
寒風が、血の匂いを呼び戻した。
「えゝ、そうです」
「急ぎましょう。彼、髭の内側で歯を鳴らして待ってるでしょうから、ね」白騎士は、これ以上は今、話せぬと、仰せだったのだ……。
ひと戦あっても、動ける者達に仕事は尽きぬ。
活躍し損ねた者は、酔いを払って出張って来、魔物どもの死体を始末しなければならない。死臭が流れれば、早晩のうちに倍する魔獣の餌場となるだろう。
また、活躍し過ぎた連中の亡骸をも、弔ってやる必要がある。
兵隊さんの家族には、恩給が支給されるのであろうし。傭兵達なら、紀章の裏に彫られた宛名(が、在るならば)へ遺品ないしその買取分を送ってやらねばならぬ。それらもまた、傭兵達の日常の仕事なのだ。
夜半に鐘が鳴り響く。
「葬いの鐘か?」
「様子が違うね?」
「レナータ、足、いいのか?」
屋敷の庭まで出迎えに出たレナータは、バツの悪そうにはにかむ。
「傷自体は大した事無いよ。この街は大きい。神官も大勢居るし、ね」
「水時計の水が、替えられたんですね……」
巨漢の影に隠れるようにしていたジェネッタは、そのまま素通り出来る性格でもない。無いし、それで鼻白む程レナータも子供では無かった。
「レナータ君……。その、今日は、済みませんでした……」
半森人は、ちらと巨漢の顔を伺う。
「畏まりました。……ジェネッタさん」
渡る風は、寒く。吐く息は、白く。
しかし、一種の爽やかさを醸して、二人の間を吹き抜けた。
「年が明けましたね……」
「また一つ歳を喰ったのか」
「今年もよろしくお願いします。ですね」
冬には柵から離れるを能わぬ、人の種なのだ。
擦り合わせて、折り合って、落とし所に納まるのが習い性なのであった。
◇◇◇
「腕下げんな、ジェネッタッ!」
後ろに目が付いているのか? ジェネッタは、疑り深くセレンゲティのーーやたらとデカいーー背中を睨みつけるが……、やはりその様な器官は見受けられ無い。
しかし、目前の背中越しにも、レナータが意地の悪い笑みを堪えているのが伝わってくるのだから、なるほどそういう事なのだろう。
手前勝手に納得をして、ジェネッタは松明を心待ち高く掲げる。
洞穴の中を、冷気がすうと流れて松明の灯りが揺れる。
「上ぇ見てみろ。苔が生えて無いトコが有んだろぅ?」
大小の鍾乳石が下がる洞穴である。
洞窟というのは、古来より異界へと繋がっているなどと言う。
ベテランの巨漢は、油断や慢心を一つ一つ折ってくれる。
「苔が生えて無い所は、スライムが這った跡なんですよ」
「熱が届かなけりぁ、頭から被る事になるぞ。髪どころか、顔も残らん」
口の中で「ひっ」と、息を飲み下す。有難い事に、前の二人は聞かなかった態で居てくれた。
重く、嵩張る松明を何本も買い込む二人にジェネッタは、ランプで良いでは無いかと主張したのだ。手配が利かぬ訳でも、金が足りぬ訳でもないのに、だ。しかし、二人共に揃って譲らなかった。必ず要する也。
実際に相対しなければ合点のいかぬ事が、如何に多いことだろうか。
洞穴の入り口付近の広く天井の高い辺りには、子供程に大きな蝙蝠の群。彼奴等は死角から死角へ、鎧われていない柔らかな所を目掛けて飛び込んできて厄介極まり無い。
奥へ行くにつれて、狭くなり、曲りくねり、鍾乳石が鋭くささくれ立って危険度を増す。セレンゲティは体躯の良さが裏目に恨めしく、新調した外套に早くも穴を開けて大仰に嘆いてみせた。
そう。彼等は今、洞穴に挑んでいるのだ。
春を待って、彼等はエンドラの街を後にし、旅へと出た。モトラッドの歴史を追って、である。
未成人の婦女の場合、王家であっても出産の記録以外は、公記に記されていない。傍系や類系まで記載していては、煩雑になるが故であろう。何より、情報量が膨大に過ぎる。
家人の手記や日誌、書き付けから出納までひっくり返して、手掛かりを追うのだ。
年末にセレンゲティが、読み書きの手本にしていた二百年も前の御用書が、結果として大きな助けとなった。それには、当代姫君の成人後における冠婚葬祭が記されてあった。
これを起点に調べてみれば、三代後、中興の祖フェルディナント王の治世から、件の"呪い"が始まっている事が識れた。彼の王は、二人の男児と、二人の女児に恵まれたが、女児二人を幼いうちに喪っている。
死因は、不明。
しかも、彼の王は都に不在で、在位の節目でも無い時期でありながらも、領地を巡幸中であったらしい。
当時の領地は、現在の三分の二に届く程度で、王都を囲み真円形に近い。その領地をぐるりと、都を留守にしたまま一周していたようである。
その当時から既に、エンドラは公家であり、巡幸にも訪のうた北の端でもある。
レナータは日々鍛錬の為、午前中は屋敷を出る。
特段決まったメニューやルートでは無いのだが……剣術の稽古の折、屋敷の裏に違和感を捕らえた。神殿の機能を最小化して収めた、随分と古い祠である。しかも、掲げられた聖印は、分かつ円に流水。
エンドラの主祭神は、風の神。二柱の大神、ルフトとアムネリオンである。古くからエンドラでは、風車の神アムネリオンを祀っていると言う。
そして、その祠の、これもまた見落とす程小さな礎石に刻まれてあったのは、巡幸の翌年の年号であった。
フェルディナント王は、達見の行動派であったらしい。姻戚、通商だけでなく、権謀術数や武力衝突をも手段の一つとて、今のモトラッドへと至る地盤を築いた。
曰く、"フェルディナント王は三人いる"だとか、"事明るみに至れば、手配済み""三界(魔導、精霊、神聖)の術を用いる""天蓋の地政を識る"だ、そうな。脚色を引いても、傑物であった事が窺える。
在位時代から余程の人気とあって、彼の御仁の記述には事欠かぬ。虚々実々、膨大な記録である。
巡幸の内実を除いては。
調べ上げ纏めるまで、結局春風月までの時間を要した。
旅の支度を整え出立したのは、幸喜月も近くなってからだ。
シウダートホヘイダの国境に沿って、海へ向かう道半ば。当時の地図にあって、今は記されておらぬ村。その跡地には、洞穴の入り口が遺るのみであったのだ。
曲がりくねった洞穴の奥から、短い足を懸命に回転させて、てんが戻って来た。
レナータが先払いに要求したのは、魔導書の閲覧権で、その成果だ。
"天使の召喚"だとか言っていたが、要は使い魔であって、それ以上でも以外でも無いように見える。
森で行き倒れていたそいつは、白茶のひょろりと細長い体を器用に動かす、中々に愛くるしい生物で、意思が半端にかよった尻尾の動きも悪く無い。ついと澄ました顔立ちも、痩身と相まって拾い物である。悪く無いと皆思うのだが……。
てんは、少し手前で息を整えると、重苦しく口を開いた。
「諸君、驚かないで聞いて欲しい。ここから二度曲がった先に、柵人の、かつて傭兵であったと思しき亡骸がよこたわっている……。何やら淡く光彩を放っておる様子で、警戒が必要だ。……? もう一度繰り返すべきかな? 諸君」
耳心地良く響く、年嵩の男声。
一同は、この使い魔の話の内容を捨て置いて、溜息を合わせてしまうのだった……。