第十二話 火つけ
「食人鬼!」
と、誰かが叫んだ。
『食人鬼』または、『十尺鬼』など、地方によって様々な名で呼ばれる悪鬼である。妖魔とも、巨人とも分類されるが、共通するのはその体躯と食人の性である。
鞣しただけの革をトーガに纏い、手には文字通り丸太を棍棒と握っていた。
筋骨隆々たる赤黝い巨体にざんばら髪を振り乱し。両の目は爛々と、乱杭歯を剥き出しにして、である。
低く後背に振った棍棒を、掬い上げる様に振り抜く。オーガーの腰程の背丈のオークが、足元をチョロちょろとしている。差し掛かった不幸なオークにその一撃が炸裂し、文字通り弾丸となって柵へと飛翔する。
散発的に降り注ぐ矢は、いつの間にやら火矢に変わり、当てずっぽうに射かけられる中に魔法の《火矢》が混じる。
「予測通りだが……やってくれるっ! 女衒は昏森人か?」
瞬く間に火の海。
柵にも火が付き、薄ら暗い午後を朱く照らし出す。
不幸なオークを数匹と、逃げ遅れた傭兵が火達磨となってのたうち回る。
「あれじゃ、火が消えても助からないっ!」
「水呼べぇっ! 落ち着いて消せるヤツから消してけ」
近くにレナータの悲鳴が聞こえる。
「火は後に任とけっ。食人鬼は速か無ェ! しっかり避けて、膝を狙えェ、膝を!」
言いながらもセレンゲティは、振り上がる棍棒を盾で去なして、脇を切り裂く。
迫る火矢を、蔵で見つけた鎧の端で弾く。胸と胴回りは板金誂え。ばんと叩いて、火を払う。
他方、ジェネッタが隣を巻き込んで吹き飛んでいく。盾で逸らし損なったのだ。左腕が明後日の方向にひしゃげて、苦悶に咽ぶ。
「坊やが……、自前で何とかしろォっ」
空いた網の目を、髭達磨が塞ぐ。
槍をぐるりと回して目眩し、逸れた注意の隙に得物を突き出す。
深追いはせず、石突で叩いては躱し、脇腹へ、また膝を突く。足捌きは軽く、動きは若い。
矢を撃ち尽くしたのか、森から矮鬼が躍り出して、戦場は混迷の度合いを高める。手にした松明を投げ飛ばし、或いは打ち捨てながら。
潮騒の様に引いた紅蓮は、大潮の如くたちまち盛り返す。海が近い国とは言え、皮肉に過ぎると後に愚痴ったのは、誰であったか。
拾った小剣を振りかざして、豚頭が死を先送りにしようと試みる。
柵の上からは幾度と無く水がかけられて、類焼は防ぎつゝあるがーー、
「"水で消せぬ炎"が……」
野太い神官の悲声が上がる。
「レナータ!」
「益体も無しに……消しますよッ」
消耗を抑える為か、レナータはしっかと発声して、件の魔法陣を展開する。
寒風の中に汗を垂らし、迫る妖魔も悪鬼も周囲に任せる。
小柄な傭兵が一人、レナータの魔法陣を転写し始めた。
『成る程、誰でも出来る事では無い。が、誰も出来無い訳でも無い。か』ジェネッタは、遠巻きに嘆息する他ない。そのジェネッタも、神に奇跡を乞うて、砕けた左腕を癒したばかりだ。
この様な混戦も、意識を手放す程の激痛も、ジェネッタは初めての事である。正しく"傭兵のジェネッタ"初陣であった。
傭兵達は半森人の胆力に驚嘆しつゝも、彼の魔道師の周囲に防壁を巡らせ、集中を助ける。が、
「くふッ」
戦場の残り香が、レナータの太腿に生える。泡を食って武装した神官が、治療へと駆け付ける。
「まだ、抜くな……集中が……」
血流に合わせて魔法陣が脈動する。疼き、目眩、吐気、朦朧としながらも、意識は炎の一点に集約して……。
火が消えるのと同時に、レナータは膝をついた。
「僕はどれ位意識を?」
「ほんの一瞬だ。良くやってくれた、消えたぞ」
矢を抜き治療を受け持った神官が、口早に労う。早くもメイスを振り回しながら、慌たゞしい。
剣戟は途切れぬ。
逆巻く黒煙を背景に鉄火が瞬く。
不毛な消耗戦と成り果て、様相は凄惨を極める。
オーガーの振り回す丸太を躱せば、横合いからゴブリンから殴打され、そのゴブリンを別の傭兵が盾で突き飛ばす。蹈鞴を踏んだゴブリンは、オークと団子になって、別のオーガーに踏み潰される。
『火を付けられたら、負け。街に入られても、負け。当然死んでも負け。向こうは命を使い捨てに出来る……最初っから、分が悪過ぎるぜ……』
ゴブリンが、傭兵と抱き合う様にもつれ合って刺し違える。
何とか復帰したジェネッタが、面目躍如で食人鬼を漸く一体倒した。ひらりひらりと躱し続けて、精密な刺貫きを膝部に集める。醜態を忘れさせる鮮やかさを魅せた。
『個人技は悪く無ぇ。……悪く無ぇが、平穏無事ってのは、集団戦の経験が乏しいってコトか……』
『しかし、このままじゃぁーー』
「来た……。セレンゲティ! 来たよっ」
「遅っせぇよ。左右にばらけろっ! 急げッ!」
震動が、蹄音が、近づく。
「騎兵隊のお出ましだ」
声を張ったセレンゲティに、ふらふらと、食人鬼が立ち塞がる。よもや逃がしはすまい、と。
「試してみるか」と、一つ言ちて、巨漢は野性の獣の如く蹴り足をすり抜ける。
間合の際から、喉元へ刺突一擲。「浅いかッ?」
一足に間を潰して、更に刺突。眉間を狙った二射目は、逸れて右目を貫く。
苦痛に咆哮し、掴みかからんとする食人鬼の腕を、横滑りに躱す。ーー左へ。
肋骨の下辺から、剣を平に突き徹す。三撃目!
掌に伝わる確かな、ぞぶりという手応え。にも関わらず、驚嘆すべき生命力!
盾諸共に掴まれる。
「おォッ……」
掴まれたままに深く沈み込んで、足をかけ引き倒す。
更に抜き取った得物で、迫る右腕、肘の内を貫く。
四打目。遂に食人鬼は、浮くかに地を揺らして、倒れ伏した。
「かかり過ぎたか」
荒く息をついて、飛び退るように柵際へと後退する。
自棄になったか、矮鬼が門へと吸い込まれて……いっそ戯画的と言える様な、壁に当てた鞠が跳ね返るかの如くに、弾き返されて転がった。
セレンゲティは、仕事の締めを力の限り吐き出す。
「勝ち鬨を上げろ! 歓呼三唱ォ!」
「ラー! ラー! ラー!!」
開け放たれた門から騎兵が轢殺の濁流となって、押し出す。
百貫を優に超える箆鹿に跨る、騎鹿の兵達。
それぞれが跨る巨大な雄鹿の頭部には、名に恥じぬささくれ立った一対の角が生えている。それは大仰な盾に思いつく限りの棘を付けた様な、悪魔的な程に禍々しい形状である。
吹き飛ばし、弾き飛ばし、轢き潰す。
一刻で山野二十里を踏破する脚力である。速度と重量に、生来の獰猛さを加えて、進路上のすべてを薙ぎ倒す。
躱したか、或いは逃げ去るモノには、騎士達が容赦なく投擲用金属短槍を撃ち込むのだ。
被害も強かに、ではあるが、守りきった安堵に傭兵供は撤収を始める。
それは、取り敢えずの勝利と互いの無事を喜んだその後だ。
「使えば死なずに済んだものを、愚かな……」
横たわるのは、若い傭兵の亡骸だった。
盾は持っていなかったのか、喪ったのか。剣を持たぬ逆手の内には、血晶石を握りしめたままに生き絶えていた。
音ならぬ声を聞いてしまったレナータは、「ジェネッタさんッ!」と、たちまちに激昂し、声にしたつもりの無かったジェネッタは、血色と言葉を失う。
食って掛かったレナータは、白騎士の首を鎧ごと捻り上げて、殴りかねない勢いになる。
「ジェネッタさんッ! あなたは何て事を!?」
「私は……そんなつもりは……」
「つもりも何も、あるもんですか?!」
「よせよせ、レナータよ。坊々にゃぁ物の値打ちは解らんよ。一生な」
「セレン! 私はっ……」
「レナータ、放してやんな」
レナータは、憎々しげに突き飛ばす。
「私は、そんな……」
「ジェネッタさんや。歩哨に立って幾ら貰った?」
「銀貨五枚、……ですよ」
「たった銀貨五枚の歩哨だってなぁ、死ぬ事だってあるんだ。血晶石一つに幾らかかるよ?」
「……」
「金貨で百枚位か? 戦が近くなれば、百五十も超える。売りに出るのも珍しいが、人生が買える値打ちだぜ? 使っちまうかどうか、文字通り死ぬ程迷ったんだろうよ」
「分かっててジェネッタさんは、腐してーー」
セレンゲティは、些か強めにレナータの腰を正して気付けてやる。
「レナータ。お前さんは、精神を使い過ぎたな。休んでこいよ」
「セレ、僕は……分かった。ジェネッタさん、僕は謝れませんよ」
レナータは言い捨てて、先に帰ってしまった。
置き捨てられた格好のジェネッタは、居心地が悪くて敵わない。
「ジェネッタ。後始末に付き合わんか?」
「何処へ?」
セレンゲティは、森へ顎をしゃくる。
「女衒を拝んどかんと、気持ち悪いだろう?」
「あぁ……」
既に掃討は終幕して、兵達が傭兵の骸を収容にかかっている。騎士達は余勢を駆って、森へと分け入る様子だ。
「私、物の値打ちを知る事は出来るでしょうか?」
森に入ればーー。其処彼処に、油の壺やら粗末な短弓などが転がっている。それなりに周到さが伺い識れて、薄気味悪いものだ。
「値段て奴ぁ同じなんだ。しかし価値が違う。価値観、てぇ奴なんだろ? 坊やのまんまじゃ、一生分かる訳ゃ無いぜ」
「坊やのままでは?」
「記章、作ったんだろ?」
「え、あ……はいっ」
「伊達か?」
ジェネッタは、また襲撃者の跡に気付いた。
木の太い枝に、ロープで松明が結えられている。
「違っ……、います」
「なら、その内理解るだろうよ。俺たち傭兵は、戦じゃぁ騎士様の盾か弾除け、精々が露払いだ。死ぬるも仕事の内だ。だがよ、死ぬ為に働いてる奴なんざ、居ねぇんだぜ?」
「……謝ります。レナータ君に、皆さんの分も」
松明の火は消されているものの黒く油が滴って、如何にも危なげに見える。
ジェネッタは、持ち帰って処分しようと思ったのだ。
「そうだな……」
セレンゲティは、沈み気味な若い騎士を、お節介にも励ますべきか、少し、逡巡した。
ジェネッタが素手で解こうとロープをいじっているのは、低木、下生えは密だが視界は開けている森の端。林冠までの空間がある、森の端は木々の間隔も広いのである。
つまり、射線は通るが、行き来は難儀なのだ。
その視界の向こう。射程の範囲に。
「ジェネッタぁッ! 伏せろーッ!」
髭の傭兵。
こちらに背を向けて。
自前の槍を、身を捻り、天蓋に向け爆ぜんばかりに力を溜めている!