プロローグ 白い闇を抜けて
雷鳴が森に轟く。
「明日は晴れだな!」
「はぁっはぁっ……生きて、たらねッ!」
男二人、森を遮二無二駆けて行く。
「ええいッ! ジリ貧だ! どうするかっ?!」
「ぜぇ……追い付かれちゃうよ?!」
真っ暗な中を魔法の弱い灯だけを頼りに、走り続ける。旅装を背負ったままの様だ。
木の根、下生えに足を取られる度に、卵の腐った匂いが近付く。
メキメキと枝葉を薙ぎ落として、黒一色の獣が迫り来る。ばちっばちっと、触れる物全てに電光を撒き飛ばしながら、だ。
大きな魔獣。しかし、木々を薙ぎ倒す程では無いから、距離が縮まらず二人は生き延びているようであった。
「何てェ奴だ! お前さんの電撃食らって、ぴんしゃんしてやがる! アレは何なんだ? レナータっ」
「識るもんか! セレンゲティ、あんたの親戚じゃ無いの?!」
ただひたすらに走る。遠く雷光が閃き、瞬間、白に包まれる。
セレンゲティと呼ばれた方は、革鎧を纏った巨漢の禿げで、壮年と見える。
レナータの方は若い。長髪、短身痩躯に同じく革製の装具。映した影の耳は、長く伸びて尖っていた。
「んなワケあーー、しめたッ!」
先の視界が、少し開けている。一口に森と呼ぶが、内実ここは密林だ。開けた平地は珍しい。
「灌木の引っ越し跡だ! 通り過ぎたら仕掛けるぞッ!」
「心得た!」
決して広くは無い、が、贅沢は言えぬ。サっと通り過ぎて左右に分かれる。木の影に入って旅荷を降ろし、得物を取る。セレンゲティは槌矛、レナータは淡く輝く大太刀である。
朝露の滴りを眺める様な、冷たい刻。毒虫の一匹でも落ちてくれば、御破算である。
ハッハッと息荒く、魔獣が近づく。暗闇に却って浮き上がる黒の体躯は、犬か、狼か?
ざんざと音高く駆ける魔獣、それが二人の間を通り抜ける……その瞬間!
臭気にアタリをつけて、巨漢は飛び出し銅鑼叩きの要領でメイスを叩き付けた。
勘働は魔獣の顎を捉えて、鈍い音と共に牙の幾本かを砕いた。同時にばちんと高鳴って、電撃がメイスを伝う。セレンゲティの腕を強かに打ち据え、彼は得物を取り落としてしまった。
レナータはセレンゲティと同じく魔獣と擦れ違い、後脚を一閃、ザックリと斬り咲いて……相棒が得物と別れる場面を目にした。
吠えるに吼えられず苦悶に呻く魔獣が、脚を曳きずりながらのっそりと振り返る。
二人は既に開けた場に在って、途方に思案だ。
「電撃が伝ったぞ。くっそォ、まだ痺れてゐやがる」
「僕の太刀を使うかい?」
「あゝ……、借りるかな。奴の目が死んで無ぇ」
雷鳴が、近く轟く。
目には爛々と殺意を灯して、血泡を吹く魔獣。睨み合うのも消耗を避け得ない。
稲妻が閃く。
暫時視線に火花を散らしたが、魔獣から逸らした。びくんと何かに反応して、鼻を鳴らす。
ゴロゴロと、また天蓋が鳴る。
牙を剥いて、視線を二人に刺したまま、じりっ、じりっと後退する。
落雷。
魔獣が全身で浴びる。
「あぁ……、嗚呼……」
レナータが戦慄く。
全てが白く、顔を覆う。
再び、落雷!
大音に、耳が割れる。
落雷を浴びて悠然と、魔獣が屹立する。
「セレンゲティ……奴は。奴は電撃を食らったんじゃ無い。電撃を……雷撃を喰ったんだ!」
「まんまと餌をくれてやった訳か? 御立腹かと思ったが、懐いてやがるのかァ?!」
しゅうしゅうと傷口から煙を上げて、魔獣が間合を詰めてくる。
ゆっくりと、ぎこちなく。しかし、もう、脚を曳きずってはいない。
「畜生奴がッ!」
セレンゲティは吐き捨てた。
「俺は生き残る! 生き残るぞ。何としてもだ! レナータ。お前を見捨てて、盾にしても」
レナータが息を飲む。
静かに息を吐いて、吐き切って、丹田に大きく吸い込む。
「応ッ! 僕が勝手に付いて来ただけだ。コイツを倒して、また勝手にさせて貰う!」
レナータの宣言が、嚆矢であろうか? 魔獣が傾ぎ半ばに飛び掛かって牙を剥く。
左右に二人は別れて、間を測る。
「浅いかッ」
セレンゲティが、レナータの愛刀"蓬生"を振るう。
真に恐ろしいのは牙のみと、腹をくくって足留めに徹する。
彼方ら此方らに傷を増やしながら、鉤爪を掻い潜り、四肢を浅く深く切り付けて回る。
レナータは詠唱。雷鳴にも剣撃にも勝り、堂々と、朗々と。
魔力が舞う。レナータの精神を喰って、半透明の幾何学模様と古代文字を表す。
セレンゲティに丸太の如き前脚が迫る。ソレが振り落とされる前に、体ごと突き込みに行く。ばちりと雷光を浴びつゝも、致命の一撃を避ける。
巨漢の膂力を一杯に集めて、筋力が鎧の内側からミシミシとした音が触れる程に膨れ上がる。撫でる鉤爪を転び潜って、腹に渾身の斬撃を叩く。
重さの乗った、横溢の斬り降ろし。間合の外側、背中に至るまで、浅く斬り割く。
良く戦っているようだが、野性とは根本的に体力、生命力が違う。
打撲、失血、痺れ、そして臭気によって、セレンゲティの動きが見る間に鈍くなっていく。
レナータの精神力を織り込んだ魔力は、刻々と姿を変える魔法陣となって、冷気を漏らした。
静かに現われたのは氷の精霊、氷雪の淑女。冷たく透き通る彼女は、冷気の夜衣を乱さず宙空を滑る。
必死の魔法、掛け値無しの切り札。
レナータの精神は喰い潰され、負の感情がぐちゃぐちゃに渦巻く。嫉妬、怒り、悲哀、焦燥、無力感、劣等感……それらが綯交ぜとなって、無気力と鬩ぎ合う。激しく餌付いて、視界が涙で滲む。
レナータは膝から崩れ落ちた。
淑女は主人の心根を忖度して、艶然と微笑んだ。
精霊に触れる者、召喚を操る者ならば、氷の精霊は誰もが修める基本の一つだ。然し、彼女程冷厳に高貴で、愛情深い精霊は他に在るまい。
彼女は音ならぬ声で、魔獣に愛を囁いた。冷圧を高めて、雪……。辺り一面を白に染め上げる。集めて都合四つの氷塊と成した。更に氷塊は、氷華を散らして圧縮されて、氷柱と変じる。
遂ぞセレンゲティが、顎門の餌食になったと見えた。
が、巨漢は嗤った。
「へへっ……賭けは俺の勝ちだ」
魔獣の、噛み砕かんと踏ん張った四肢のそれぞれを、氷柱が貫く。
貫いた内の三本が、脚を大地に縫い止めて魔獣は怨嗟に唸りを上げる。
セレンゲティは振り向いて、精霊と視線を交わした。
魔獣は力強く氷柱を引き抜こうと苦悶するが、血潮が噴き出す度に氷柱を伸ばすばかりで、身動きが取れぬ。氷柱を通じて電光が地に吸われ、物悲しく爆ぜる。
淑女は睦み合う様に魔獣の首に絡み、優しく抱き締める。
精霊が冷衣から解けて、霜を降ろす。魔獣を白く染める。
もしかしたらーー、この魔獣は猛々しい氷の精霊に生まれ変わるのかも知れない。
やがて氷の彫像に変わり、魂さえも凍らせて……、魔獣は永の眠りに就いた。
「へへっ……、ふっはっはっはぁーっ」
セレンゲティは巨躯をどうと倒して笑う。
「生き残ったぞ!」
レナータもへたり込んだままに、力無く笑う。
「勝ったね。生き残ったよ」
ごろんと顔だけ向けて、セレンゲティはにぃと笑む。
「レナータ。お前さんは、一コ強くなったな」
かっと、頬が上気する。
消耗した魔術師が、平静を保つ事など不可能なのだ。
雷雲はいつの間にか過ぎ去っていて、既に夜が白んでいた事が知れる。
「先に少し寝とけ」
レナータは「ん」とだけ返した。
「俺も後で寝る。起きたら行くぞ、丘越えだ」
「生き残る為に?」
「あぁ。強くなる為にな」
暁の箒が丁寧に闇を掃き清めて、世界に彩が蘇った。