表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

出発地点は終着駅

作者: 些稚 絃羽

霜月維苑様主催『赤い糸で結ばれた企画』参加作品です。

「前島さん? 前島深花(まえじまみか)さん?」

「はい?」


 深花は突然見知らぬ声にフルネームで呼び掛けられて、訝しがりながらも振り返った。

 初めて使う駅のプラットホーム。知り合いなど皆無のこの場所で、声も知らなければやはり顔も知らなかった男から名前を呼ばれて警戒しない筈がなかった。

 一時間後の電車を待つ無人駅でたった二人きりなら、尚更。


「どちら様ですか?」


 何かあったら叫びますよ、という気持ちを思い切り顰めた目から伝える。


 深花はどちらかと言うと出会いには恵まれない方だった。絶世の美女とは言い難いが親しみやすいなりをしていて、友人は男女共に少なくないが恋のお相手となると話は別。好意を寄せる者も居ないではないが、大抵は遊び相手を探す軟派者か、若しくは深花に縋ろうとする人生の難破者だ。

 そうこうしている内に気付けば三十を過ぎ、人の結婚式には嫌という程出席した。どれも馬鹿みたいに豪華で煌びやかで――笑顔が眩しかった。あんな風に笑える日は来ないだろうと、毎度思わされている。


 そんな深花からすれば目の前の男は警戒対象以外の何者でもない。人を騙せないような柔らかな雰囲気をした男だが、人の本質なんて分からないものである。男の髪から雫が落ちた。

 いつでも声を張り上げられるよう喉の奥を開いて、男を改めて見据えた。


「失礼致しました。私は旅館“風月(ふうげつ)”の仲居をしております、菊田(きくた)と申します」


 菊田の言葉に深花は、えっ、と驚きの声を漏らした。内心ひどく焦っている。

 旅館“風月”とは先程まで深花が滞在していた旅館の事だ。自宅から新幹線で一時間、各駅停車の電車に乗り換えて一時間の距離にあるこの隠れ家的な地への一人旅。ここへ行くならどうしても泊まってみたい旅館があった。それが菊田の言う風月だ。

 旅館の中で深花が菊田を見かける事は一度もなかったため、その人を見ても旅館の者と気付かなかった。今菊田が普段着を着ている所為もあるが、知らなかったとは言え結果的に世話になった旅館の人間を敵意剥き出しで睨みつけたとなると、深花の心は申し訳なさでいっぱいになる。


「ごめんなさい、気付かなくて。大変お世話になりました。この二日間、本当に良い時間を過ごす事ができました。ありがとうございました」


 深花は心からの感謝を菊田に述べ、深く頭を下げた。素性が分かれば何て事はない。深花のその態度に今度は菊田が焦る番だった。


「いえ、こちらこそ、ありがとうございました! えっと、あの……」

「はい?」


 先程の慇懃な挨拶とは打って変わって、何か言いたげに口篭る菊田。

 一介の客人に挨拶をする為だけに追い掛けてきた訳ではないだろう。旅館から駅までは十分程歩かなくてはならないし、何より今日は五月雨。断片的に降り続く雨の中、傘も差さずに来た事は濡れた髪で分かる。深花は未だ菊田がここに居る理由を図りかねていた。

 俯いて黙ってしまった菊田から視線を移すと、プラットホームから海が見える。太陽が出ていればさぞ綺麗だっただろうと、また降り出した雨に打たれる海を見ながら思った。


「……綺麗だ」

「でも今日は残念な天気ですね」


 菊田の口から思わず出た言葉に、深花は真っ直ぐ海を捉えたまま答えた。菊田の瞳が深花だけを映しているとは知らずに。

 菊田はその横顔に、意を決して言葉を投げかけた。


「あの、これをどうぞ!」

「これは?」

「……女性のお客様にお渡ししている櫛です。地元の職人が彫った、世界に一つのものなんです」


 菊田の力を込めた声が、コンクリートに跳ね返る。

 手渡された櫛は薄い茶にくっきりと入った木目が美しく、何かを塗った風でもないのにさらりとした感触から丁寧に仕上げられている事が分かる。丸みを帯びた造形が可愛らしくもあった。

 ふと見ると端の方に彫り物の装飾がされている。角度を変えて見てみるとよく知る花の形に見えた。


「……チューリップ?」

「はい」

「まぁ、可愛い」


 幼い頃から深花は花を見ると心安らいだ。名前に花と入っているからだけでなく、大好きな祖母の影響だったように思う。

 その素朴な装飾がその櫛を更に愛らしく思わせた。


「こんな素敵なもの、頂いて良いんですか?」

「はい、勿論! ……気持ちですから」

「ありがとうございます。ここまでわざわざ持って来て頂いて」

「いえ」


 深花はいつまでもその櫛を撫で、彫られたチューリップの感触を確かめていた。その顔は優しく微笑み、愛おしいとでも言うような瞳で見つめていた。

 その様子を見て、菊田の心は騒めく。この人は今日、自分の知らぬ地に帰って行ってしまう。やはりこれを最後にはしたくない。ここまで走って来た事を無駄にはしたくないのだと、何かに背中を押されるように静かに言葉を吐き出した。


「すみません。……嘘をつきました」

「え?」


 菊田の一声は、深花を戸惑わせるには十分だった。少し気を許した相手の、まだ数える程しか言葉を交わしていない男の、嘘。無意識に足が下がり、掴んでいた傘の先がコンクリートを鳴らす。ぶつかった小石がカラカラと転がった。


 菊田が自分と彼女との間に更なる空間ができた事に気付かない訳がなかった。元々は先程まで知らぬ者同士。もうどうにでもなれと口を開いた。


「風月の仲居だというのは本当です。でも今月だけのアルバイトみたいなものです。

 その櫛を職人が作ったのは本当です。でもその櫛を他のお客様にお渡しした事はありません。

 ……それを作ったのは僕です。そしてそれを渡すのは――貴女にだけです」


 真剣な眼差しを向けられて、深花は困惑していた。柔らかな雰囲気をしていた男の真っ直ぐな瞳。少し離れたそこからでも分かる。その瞳が深花だけを映し、少しも揺れる事がないと。


 菊田はその表情とは裏腹に鼓動を速くしていた。緊張で口が渇く。髪から落ちた雫が首筋を伝う。

 信じてはもらえないかもしれない。鼻で笑われるかもしれない。それでもどうしても伝えたい気持ちが、彼女の心に残りたいという思いが、菊田の心を正直にさせた。


「それは、どういう……?」


 ――自分が作った櫛を私だけに渡す。

 そんな言葉に含まれるものと考えてみれば、全く思い至らない程深花は若くはない。

 それでも問わずにはいられなかった。言葉は心の真実を語るのだと、祖母の教えが頭を掠める。菊田の言葉にもうこれ以上の嘘はないと、何故かそう思えた。


「風月は実家なんです。いつもは近くの工房でそういう木を使った日用品を作る、所謂職人として毎日過ごしています。この時期はいつも人手が足りないからと、毎年五月だけ仲居として働いていて」

「そうじゃなくて!」


 深花の突然の声に菊田はびくりと肩を揺らす。深花の目元が苦しそうに歪んでいる。

 その声を出した深花本人も予想以上の切羽詰まった声に、はっとして口元を手で押さえた。――どうしてだろう。分からない。分からないけれど、胸の奥で彼の真意を知りたがっている自分に気付く。


「……大きな声を出して、ごめんなさい」

「いえ、その」

「どうしてこれを――この櫛を、私にくださるのですか?」


 深花の問いが菊田の耳に切なく響く。言ってしまえばこの人はどうするだろう。見知らぬ男の戯言だと、すぐに忘れてしまうだろうか。

 そうかもしれない。

 だけど、その問いに答えない選択肢なんて菊田の中には初めから無かった。


「……一昨日、風月に到着された時から貴女の事が何故だか頭から離れないんです。こんな事初めてでよく分からないんですが、きっと一目惚れなんだと思います。

 一目見た瞬間から、貴女へと視線を向けずにはいられなかった」


 菊田は声が震えそうになる。こんなにも張り詰めた思いで語る事など、これまで一度も無かったから。


「今日お帰りになる事は当然分かっていました。貴女が帰ってしまえばまた普通の、いつも通りの生活に戻るだけ。三十にもなって一目惚れした相手の事で他の事が手につかなくなるなんて、そんな事今だけだから、って思ってたのに。

 ……思っていたのに、気が付いたらそれを作っていました」


 菊田の視線が深花の手に移る。

 深花も釣られるように視線を落とした。自分の居場所はここだと言わんばかりに、それはそこに横たわっていた。


「以前、風月に来られたお客様からチューリップは愛の花だと教わりました。自分の気持ちを伝える時にはチューリップが良いのだと。私も孫も大好きな花なんだと笑ったお客様の事を思い出して、それで」


 そこで言葉を切った菊田が眩しいように目を細めて、もう一度深花を見つめる。伝えたい気持ちは愛なのだと、確かにそう深花の心に届いた。

 その凹みをなぞる深花の指が、本人にしか分からない程小さく震えた。


「――貴女が好きです。

 たった二泊三日の内のほんの幾らか貴女を見ただけの僕ですが、どうしようもないくらい貴女が好きなんです」


 深花の心に、その言葉は深く優しく根付いた。胸の奥が温かくなっていくような、そんな気がした。

 はらりと落ちた前髪で表情は分からない。黙ったままの深花に菊田は取り繕うように、頭を掻きながら明るい声を出した。


「本当はもう少し工程を経て完成なんですけど、時間が無かったので中途半端な仕上がりですみません。でも、その状態でも十分使えるものには仕上げたので、その、大丈夫です!」


 言い切ってみると言い訳がましく思えて小さな声ですみません、と重ねた。俯いた先、薄汚れたスニーカーの爪先が見えて、悩みに悩んで工房から飛び出してきたのを思い出す。よく見ればポロシャツやズボンのあちこちが木屑で白くなり、雨の所為でそれがこびり付いているのが分かった。

 こんな姿の僕を見て、どう思っているだろう。途端に不安になる。どうにでもなれ、伝えるだけ、と思っていた筈なのにいざ伝えたら応えてほしいと思っている自分がいる。ただ自分の薄汚い、絶対告白には適さないなりに気付いた今、菊田の心は崖っぷちに立っているような絶望的な気分だった。


 深花には気付いた事がある。

 深花が風月に来たいと思ったのは、祖母の話を聞いたからだ。数年前、旅行好きの祖母が最後の旅行にと訪れたこの地。あれから何度も祖母はここの話をする。どんなに美しい地だったか、どんなに良い旅館だったか。暗唱できてしまう程に繰り返し聞いた。

 その中に一人の若者についての話もあった。私と同年代位の、手の綺麗な男の子だったと祖母は話した。こんな年寄りの話を笑顔で聞いてくれる、優しい青年だったと。

 目の前の男を見る。悲しそうに俯く姿に何故か胸が苦しくなる。


 黙ったままの二人、聞こえるのはただ小さな雨音だけ。

 次に耳に飛び込んだのは、傘が倒れる音だった。


「あっ」


 菊田は反射的に閉じた瞼を持ち上げて、倒れた傘に手を伸ばそうとした。でもその手も浅黒く汚れているのが見えて、それ以上伸ばす事なく拳を握って引き戻した。

 深花は倒れた傘には目もくれず、バッグの中を漁り始める。そして目当てのものを見つけると、櫛と共に差し出した。


「お返しします」

「あ……」


 あぁこれで終わりなのだと菊田は思う。自分でも疑ってしまうような気持ちではあったが、これは確かに恋心だった。だとしても相手の気持ちが重ならなければ恋は成立しないのだと、今更ながらに考える。

 この人はいつもの場所に帰って行く。僕はここで同じ日々を過ごす。

 そんな当たり前の事が、今はひどく心を掻き毟る。


「――て下さい」

「え?」


 機能していなかった五感が動き出す。真っ暗だった視界が深花を捉え、雨の匂いが鼻を掠める。握りしめている拳が熱い。鼓膜を震わせた言葉の正体を確かめたくて、喉の奥から漏れた声で聞き返した。


「完成したら、ここに連絡して下さい」


 深花のはっきりとした声が小さく反響する。雨は上がり、海には薄く光が差していた。

 まだ戸惑いばかりの深花にはこれを言うのが精一杯だった。でも手渡したそれに伝えるべき気持ちは詰まっている。


 差し出された櫛と一枚の名刺。若干震える両手でそっと受け取った。

 名刺には『前島深花』という名前と『フラワーデザイナー』という肩書き、そして彼女の連絡先が記されていた。

 そしてその名刺には小さくチューリップの絵が描かれていた。


「……チューリップは愛の花。祖母の口癖です。私の、好きな花です」


 そう微笑んだ深花の顔とあの女性の笑顔が重なる。


「必ず、必ず完璧に仕上げてご連絡します! ……それまで、それまでどうか、この日の事を忘れないでいて下さい」


 そう微笑み返した菊田の顔に流れた雨の雫が、涙のように見える。


「忘れません。忘れ、られません。とても素敵な旅に、なりましたから」




 時を越え、人を越え、もたらされた出会い。

 枯れる事のない、その胸に咲かせた花を抱いて二人は微笑み合い、そして別々の場所へこれから帰って行く。

 それぞれ見上げた空には、濃く大きな虹が掛かっていた。


 電車はもうすぐ来るだろう。遠くの方で踏切の警報音が鳴っている。

 それは新たな旅の始まりのファンファーレに聞こえた。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言]  感想書くのが遅くなってしまい申し訳ありません!!  私情が忙しかったため中々なろうにログイン出来ずにいました。  りぃ様と時雨様の作品がなくなっているため、あまり断定的のことは言えません…
[一言] 一目惚れをした青年と、落ち着いた年齢になって、恋に奥手になる女性の恋物語。そこにおばあちゃんの存在がジワジワと効いてきます。丁寧に書かれた可愛らしい物語でした。
[良い点] 情景が浮かんできました。 ハッピーエンドを思わせるストーリーが、幸せな気持ちにしてくれます。 [一言] 後日談を…是非。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ