第六話 束の間の休息
「……目を覚ましてすぐに、ごめんね、ステラちゃん。貴方の為にも、あの時、何を思い出したのか、詳しく教えてほしいの。
できる?」
「……だいじょうぶ」
正直、辛い記憶を再び思い起こさせるこの聞き取りは拒否されてしまうのでは、と考えていたので、ステラのその言葉を聞いて、内心アンジュは大いに安堵した。
「それじゃあ、一つずつ質問していくわね……」
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「悪いな。季太朗クン。こんな明け方まで残ってもらっちまって」
「いえ……気にしないでください。むしろこれで、何か一つでも俺とステラの事で進展することがあれば喜ばしいことです……」
現時刻、既に午前四時。早朝と言って差支えない時間帯だ。
現在、アンジュによってステラの思い出した記憶についての聞き取りが行われているということなので、季太朗はいまだに自宅に帰れない状況にあった。
退魔業務は真夜中、霊たちの動きが活発になり始める零時前後の時間帯に行うということは、ここに所属した日の内に季太朗は聞かされていたので(ようは出勤時間が非常に遅い訳である)、備えて季太朗は出勤の日は昼の時間を利用してたっぷり寝てきている訳なのだが、それでもだいぶきつく感じられた。
やはり、長年しみついた体内時計と生活リズムはそう簡単には変えられないものなのだろうか、などと季太朗は思いながら、クッションのひかれた長椅子に深く腰を落とした。
「え~と確かあそこに……あった! ホレ季太朗くん。おじさんからのオゴリだ。遠慮なく飲みたまえ!」
「な……?! っとお……」
ヒュッ、という風を切る音と共に、タカハラから小型のガラス瓶が投げ渡された。
危うく落としそうになったが、何とかそれを季太朗はキャッチした。
巻かれた紙製のラベルには『レポビタンT』と書かれている。現代の日本ではほとんどの人が知っているといってもいい知名度を持つ栄養ドリンクだ。どうやら季太朗の疲労具合を見かねたタカハラからのプレゼントらしい。
「ありがとうございます。……これ、冷蔵庫にもなんにも入ってなかったみたいですけど、大丈夫なんですか?」
季太朗は、自分の手に持った瓶が妙に生温かったのが気になったので、そう質問してみた。
「安心しろ。直ちに健康に影響の出るものではない!」
季太朗がキャップの側面に目を落とすと、賞味期限は二〇〇×年三月二十四日を表す数字が記されていた。
……今は四月なので、疑うまでもなく賞味期限切れであることは確定である。
(まあ、無いよりはマシか……)
覚悟を決め、季太朗は思いっきり中の液体を喉に流し込んだ。
「おーいい飲みっぷり。仕事柄一日中パソコンから目が離せないなんてしょっちゅうだから買い漁ってたんだけど、賞味期限切れの奴の在庫処理困ってたんだよね」
「お前はいったい何を飲ませてるんだよ……」
デスクに座っていたレミーが、煙草をふかしながら呆れた声を出した。せめてそう思うのなら飲む前に止めてくれ、と季太朗は内心愚痴る。
そんなやり取りをしていると
「ステラちゃんの聞き取り、終わったわ」
アンジュが医務室から姿を現した。背後にはステラが隠れるようにして付いてきている。
「ステラちゃん、ありがとね。……大丈夫?」
「……うん」
「良かった……。
季太朗くん。悪いんだけど、すぐに季太朗くんだけで来てくれないかしら。ステラちゃんのことで伝えたい事があるの」
「……わかりました」
医者にかかった子の症状の説明を親が聞く様なものだろうか。どうやら、まだ帰れそうにないらしいな、と季太朗は軽く脱力した。
となれば、季太朗がいなくなる間、ステラを見ている者が必要となってくる訳だが、現時点でこの部屋には季太朗とアンジュを除いたらタカハラとレミーの二人しかいなくなるので、必然的に季太朗はこの二人にその役を頼むことになった。
「すいません。俺がいない間、ステラのことお願いできますか?」
その言葉を聞いた瞬間。レミーとタカハラの二人の眼が怪しく光った。
それはまさに
(獲物を狙うタカの目か?!)
と季太朗も思わざるを得ない眼であった。
「安心しろ、俺はこう見えて意外と子守に慣れてるからよお」
「さーて何して遊ぶかステラちゃん?」
「ひゃッ……!!」
瞬間的にステラの顔に恐怖が満ちた。既に軽く目に涙を浮かべているのが見てわかる。
そんな状態のステラを見て、この二人に任せて良いのだろうか、と季太朗が思った時
「何やってるんですか。隊長、タカハラさん」
季太朗が自信をもって極東支部で最もまともな人間であるといえる人物、鬼口アイラの姿が、ステラに迫る二人の背後にあった。
その二人を見る冷めた目からして、状況は察しているようだ。
「あら、鬼口ちゃん。いやさね。季太朗くんにステラちゃんのお守を頼まれたか
らさ、叔父さんたち久方ぶりに張り切っちゃおっかなーって」
「……いいです。私が見ます」
「「「…………え?」」」
「季太朗さん、行ってきてください。この二人には触れさせませんので。」
その発言に、ステラだけならまだしも、レミーとタカハラ含めた三人全員がすっ頓狂な声をあげた。それが気にならないわけではなかったが、とにかく鬼口ならば安心して任せられるだろう、と季太朗は安堵した。
「ええ、ありがとうございます。鬼口さん」
礼の言葉を述べた後、季太朗はアンジュが待っているであろう医務室へ足を踏み入れた。その背中はすぐに、鉄の扉に阻まれて視認できなくなった。
それを確認した後、レミーは口を開いた。
「……意外だったぜ。お前があんなことを言うなんて。いや、言うようになるなんてというべきか」
「……もう、昔のことをいつまでも引きずっていく訳にはいきません。今は少しでも、私みたいな人を作らない為にも……」
その言葉を聞き、レミーの声が、微かに震えた。
「……すまねえ、アイラ。お前がそういってくれて、俺は……」
「……もう、昔のことです……それに今は勤務中です。その呼び方は、止めてください」
「ははっ。そこはやっぱりアイラちゃんだねえ」
「タカハラさんっ……!」
ステラは、三人の会話を理解することができなかった。
それは当然だ。この人物たちについて、彼女が知っていることは無いに等しいのだから。しかし、自身が経験したことの無い感情が、この場に広がっているということを、ステラは心の何処かで理解していた。だがソレがわかったとしても、彼女にはソレの正体がわからない。
(なんだろう……この、あたたかいなにか……)
そんなことを思いながら、少女の姿をした霊は、おとなしく季太朗の帰りを待つのだった。
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「…………やっと、やっと戻ってこれたぜ我が家にぃ……!!」
二十二回門松をくぐってきた男は、まるで長期の旅行から帰ってきた半ホームシックの子供のように声をあげ、喜び、自宅の玄関の床に仰向けに倒れた。
すでに日は昇り、朝陽が玄関のドアにはめられた曇りガラスを通して差し込んでいた。
アンジュからのステラについての報告も終了。ステラの面倒を見てくれていた鬼口に礼を言い、季太朗が極東支部のオフィスを後にしたのは約三十分前の出来事である。
「……おどろいた。あなたでも、そんなことをするんだ」
「ああ? ……まあ、こんな築うん十年の古アパートでも、帰ってこれる場所があるってのは嬉しいもんだ……」
「かえってこれる……ばしょ」
そのステラの一言は季太朗には聞こえず、彼女の口の中で小さく響いただけであった。
「それにしても眠いな……ッ!」
欠伸をした直後、季太朗の顔が苦痛に歪む。鬼口との組手で被った頬の傷が原因だ。
一応、季太朗はアンジュから応急手当てを受けていたので、ひりひりと腫れるような痛みはとうにひいていたのだが、患部を直接動かすのはまだ望ましくないようだ。
そこで彼は、患部を見ようとして気付いた。自らの身体が、かなり汚れているということに。
着用していた靴やコートには、害霊との戦闘で付着したのであろう泥や土がこびりつき、皮膚も同じ有様となっていた。コートを脱いだ瞬間、軽く土煙が舞ったのは言うまでもない。
その所為か、ステラが軽く咳き込んだ。
「むっ。こりゃあ、かなり汚れちまってるな」
玄関先でコートをバッサバッサと音を立ててたなびかせ、季太朗は付着した汚れを少しでも落とそうと試みた。大方、サイズの大きいものは除去することができたが、色が色だけに(季太朗のコートは黒色だ)落とすことのできなかった細かい汚れが目立ってしまう。
服に無頓着であり、代えを所持していない季太朗にとって、大ダメージであった。
幸い、たった今職場から帰ってきたとはいえ、今日は出勤日ではない。衣服の汚れは後で除去すればいいことだろう、と季太朗は考えた。
取り敢えず、季太朗はどうしようもなく眠かった。だがこんなに汚れている体で布団に入るのは忍びないとも、季太朗は思った。なら、どうするか。
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ジャーッ、という聞き心地の良い音とともに、水が溢れ出た。幾分か後、体を包み込むようにして、白い温かみを持った煙が、室を満たしていく。水の温度が自分の望む適温になったことを掌で確認すると、季太朗はそれを、頭から一気に被った。視界が開き、頭が冴えていくのを彼は感じた。
「……ふーっ!! やっぱ、風呂ってのはいいもんだな!」
あまりの気持ちよさに、季太朗は大きく声をあげた。疲れているときほど、こうして風呂に入れることがどれほどありがたいのか強く実感する。多少値が張っても風呂付きを借りた自身の判断は間違いではなかったと季太朗は自画自賛した。
時間的にいえば、いわゆる朝風呂というやつである。と言っても浴槽に湯を張るのは時間もかかるし面倒くさい、という理由で常に彼はシャワーオンリーなのだが(フリーター時代の徹底した節約生活の後遺症でもある)。
「……それでよ。何度も言うが何でお前はそんな扉の近くにいるんだ? もうちょっと位離れられるだろうが」
鏡に映った浴室の向こう側。曇りがかったドアの窓に、ぼわっとした蒼い光が見える。光源はいうまでもなく、ステラだ。
さすがにステラも子供の幽霊とはいえ一応女なので、浴室に連れて入るのを季太朗は躊躇った。故に、季太朗はステラに外で待機しているように伝えたのだが、何故か彼女は扉一枚挟んですぐのポジションに陣取って離れようとしない。
それは今日に限ったことではなかった。なんとも、季太朗は落ち着くことができない。
「いい加減、理由もろくにねえのにそこにいんのはやめてほしいんだが」
「……こんないいにおい、かいだことなくて」
一瞬の間の後にステラが口にした言葉は、頭部に指を突き立ててシャンプーを泡立てていた季太朗の手を止めた。
「おいおい、お前このご時世、風呂にもろくに入ったこと、」
そこまで言いかけた所で、あの時極東支部でみたステラの姿、そしてアンジュの言葉が季太朗の脳裏に蘇った。
(……ステラちゃんは、私たちの想像もつかない過酷な人生を送ってきた可能性があるわ。……だからできる限り、優しく、接してあげてね)
季太朗の眉が、歪む。
「……何で今ここで思い出すんだか」
季太朗は立ち上がり、ステラがすぐそばにいるであろう扉を開け放った。白い蒸気が、浴室の外へなだれ込んだ。
驚いたステラの視線が、季太朗を捉えた。
「おい……入って、いいぞ」
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先程まで一人しかいなかった浴室に、今は二人分のシルエットが浮かび上がる。
「それにしても驚いたな。幽霊ってのは髪まで触れるとは。まあ、向こうがこっちを傷つけたりできるんだから、普通に何処でも触れても大しておかしくないのか? ……うまく洗えてるか?」
「…………」
今現在の状況を簡潔に説明するとするならば、季太朗は、ステラの髪を洗っていた。
しかし、ステラを浴室に入れたのはいいものの、彼女はほとんど言葉を返さず、絶妙な空気が場を支配している有様である。
「なあ……なんか喋ってくれよ。わざわざお前をここに入れた俺が馬鹿みたいじゃねえの」
「……」
何も喋らないステラの態度に思わず、季太朗の口に苦笑いが浮かんだ。しかし、目は笑っていない。さすがの彼も、ここまで華麗にスルーされた場合の対処法は身に着けていなかった。
「……かみのけなんて、あらうものだとはしらなかったから」
「…………そうか」
やっと発せられたステラの言葉に対して、季太朗はそれ以上何も言わなかった。正確には、季太朗がどれだけ考えても、ステラに対して意味のある言葉を思いつくことができなかったからなのだが。
どれだけハリボテの言葉を重ねたとしても、ステラの送ってきた人生はどうにもならない。
「なら、覚えとけ。髪の毛ってのは定期的にこうやって綺麗に洗うもんだ。もちろん体もな。あと、お前がいい匂いだつったのはシャンプーってやつだ。髪を洗うときに使う洗剤みたいなもんでな」
「なんで…………なんでわたしにこんなことをするの?」
「は? お前そりゃ俺に対して失礼ってやつなんじゃないのか……」
「ちがう!!」
ステラから放たれた叫びは、再び季太朗の手の動きを止めた。しばらくは反響が収まらなかったほどの、大声だった。
「わたしのせいで、きたろうはたいへんなことになった。わたしのことがにくいはず。なのに、なんでこんなことを、するの……」
「……たしかに、そうだな。
だけどよ、そんなことはどうでもいいことなんだ」
「どうでも、いいこと?」
いや、と前置きして、季太朗はまた口を開いた。
「正確には、意味のないことだ。
たしかに、お前のことが憎くないと言ったら、それは嘘になる。さっきもお前が自分で言ったが、お前が俺に憑りついちまったせいで、こんなことになっちまったんだからな。
だが結局、こうして切っても切れない状態になってるんだ。なら、お互いに気持ちよく過ごせた方がいいだろ」
「でも」
言葉を言いかけたステラの口を、季太朗は彼女の頭を強くこすることによって閉じさせた。
「そしてな、起きたことは、もう無かったことにはできない。いくらこうしていれば、ああしていればなんて考えても、現実は変わらねえ。そしてそうなったことの原因に対して、不満や怒り、憎しみをぶつけたとしても、全く意味はない。俺はそれを、妹の件でよく思い知ったよ」
「いもうとって……」
「七年前に、家族ともども死んだ。鬼口さん以外には話してないんだ。隊長とかタカハラさんとかには絶対に言いふらすなよ」
「……ごめん」
まーたか、と季太朗は半ば呆れたような口調で言葉を漏らした。
「鬼口さんの時にもいったが、聞いた方が謝る必要はないんだよ。こっちが勝手に喋りたくて喋ってるんだからさ」
だからよ。と区切って、彼はステラの問に答えを返した。
「お前にしていることも、俺がお前にしてやりたくてしていることなんだから、気に病む必要はねえんだよ」
「…………ありがとう」
その言葉に、ステラのへを結んでいた口角が僅かではあったが上がったことに、季太朗は気付かなかった。
しかし、ここで季太朗の爆弾発言が雰囲気をぶち壊す。
「それにしても驚いたぜ。まさかお前にそんな人のことを考えられる神経があったなんてよ。普段からそんな風にふるまってくれれば、こっちも苦労しなくてすむんだがなー」
「…………(ピキッ)。つ、つかれてるから! きょうだけなんだから!」
「ぶっ!! ……てめえ、人が気遣ってやってれば良い気になりやがってぇ~。お返しだこのやろう!」
「キャーーッ!!! ば、それやめブクボクガボッ!!」
……先程までの和やかな空気が一転。桶VSシャワーヘッドの壮絶なお湯の打ち合いのスタートだ。
一切の慈悲なく、容赦なく、顔面セーフなんて遠慮なんぞ完全に忘れ去って互いが互いに全力で間髪入れずに攻撃を続行する。
なんとも気の抜ける光景ではあったが、もしかしたらこれは、心の中で考えていることへの、両者の必死の照れ隠しだったのかもしれない。
(ま……、七年ぶりに、こいつとなら、賑やかな人生を過ごせそうだな……)
(このあたたかさ……ここが、わたしの、かえってこれる、ばしょ……)
新しい一日が、始まる。
●
「な、なんだお前は?!
や……やめろ!! くるな! 来るなああァァァ!!」
悲痛な叫び。飛び散る血の玉。力尽き、うなだれる手。
そのすぐそばに、一つの影があった。黒い、黒い、闇をたたえた影が。
(…………タリナイ、モット、モット)
その言葉を最後に、影は地を蹴り、姿を消した。
あとに残されたのは、細部まで食い荒らされた骸。そして、それに深く刻まれた鋭い牙の跡だけだった。