第五話 再びの覚悟
「…………」
重苦しい空気が、極東支部一帯に充満していた。
時刻はステラが意識を失ってから既に三時間は経過していた。現在、医療担当のアンジュが原因の究明を行っている。
「……終わったわよ」
何分かして、白衣を着崩したアンジュが分厚い鉄の扉の向こうから現れた。
「アンジュさん。ステラに一体、何があったんです?」
真っ先に季太朗は疑問を投げた。
短いとはいえ、今まで共にいた時間の中で彼女は一度もあのような状況に陥ったことはなかった。原因は何か。そして、自分の体に何か影響はあるのだろうか。
季太朗が知りたいのは、主にその二つだった。
「ステラちゃんに関しては、命、というか霊体に危険性はないわね。今は眠ってるわ。
予想はついてたけど、そのような状況でも季太朗君への霊力の流れ込みは止まらないようね。
だからあなたの体に関しても特に問題ないわ」
「そう、ですか」
季太朗はまず、自らの体に悪影響はないことを知って安堵した。異常なまでに憑りつき具合が高い、ということは聞いていたので、共鳴して自らの体にも何か悪影響が起こるのではないかと考えていたのだ。
ひとまず、その不安は杞憂だったようだ。
そしてもう一つ、季太朗にはアンジュに聞いておかなければならない事があった。
「……原因は何だったんですか」
今回の事態を引き起こした根本的な要因をだ。アンジュは幾秒か逡巡した後、重そうに閉ざされていた口を開いて、説明を始めた。
「……どうやらね、ステラちゃん。過去にあの状況とリンクするような……鬼口ちゃんが悪い訳じゃないんだけど、額に鋭器を突き刺されて、何かが絶命する姿を間近で目撃したことがあるんじゃないかと思うの。
言うなれば、辛い、思い出したくもない記憶のフラッシュバック。その症状によく似ているのよ。元々記憶喪失だったから、急に過去の、それも嫌な記憶なんかを思い出したら、多大な負担がかかるに決まっているわ。
結果、意識を失ったのね……。もしかしたら、彼女が霊でありながら霊を怖がるのも記憶が関係している可能性が高いわ」
「辛い記憶の、フラッシュバック……」
「だからまた、記憶は多少なり戻っていると思う。
ただ……かなり混乱してると思うから、起きてきたら何か優しい言葉の一つでも、かけてあげてね」
そう言ってアンジュは、レミーが待機している支部長室に歩を進めていった。今回の事の報告に行くのだろう。
「……季太朗さん」
背後から声をかけられて、季太朗ははっと視線を移した。そこには鬼口がいた。
「どうしました、鬼口さん」
「その……今回は私の行動のせいで、多大な迷惑をおかけしました……」
そう言って彼女は、季太朗に深く頭を下げた。
ステラの記憶のフラッシュバックのことを言っているのだろう。どうやらアンジュの話を物陰から聞いていたらしい。自分がもっと注意を払って行動していたならば、このような事態を招くこともなかったと言いたいのだ。
「いいや、鬼口さんは悪くありません。むしろ、あそこで鬼口さんが何もしていなかったら、俺はとうに死んでます。
助けてくれて、ありがとうございました」
「お、お礼を言われる程のことは……!」
季太朗の言うことはもっともだった。
今回の件は決して、鬼口のせいではない。
結果的にステラの記憶のフラッシュバックを起こすことになってしまったが、鬼口が放った一撃のおかげで、季太朗の命は事なきを得たのである。
むしろ全くと言っていい程役に立てず、助けられるばかりだった自分こそ謝罪すべきだと季太朗は思っていた。
しかし、ここで謝罪をしたとしても、自分が弱いという現実は不変なのだということも、季太朗は気付いていた。――――なら、どうすべきか。
「鬼口さん。……一つ、付き合って貰えませんか」
「え……?」
そう言った季太朗の眼には、これまでの彼には無かった覚悟の色が宿っていた。
●
「入るわよ、レミー」
達筆な明朝体で支部長室と文字の刻まれた鉄製のプレートが掲げられた部屋に、アンジュは入った。その名の通りこの部屋は、極東支部隊長兼支部長レミーの個人的なオフィスとして利用されている場所だ。
「ステラちゃんのことで報告に――――」
そこまで言ったところでアンジュは、この部屋に満ちた張りつめた空気を感じ取った。
それは、普段は凄まじく剽軽なレミー、そしてそこにいた次点のタカハラ。この二人が揃いも揃って、普段からしてみれば有り得ない程の重い沈黙の最中にいたから。
「何か、あったの」
「…………ああ。大ありだ」
「ちょおっとこれは、マズイことになったかな、って」
二人の口が重々しく開かれた。
その声の沈み具合からして、とてつもない事態が起こったことは、容易に察しがついた。
肝心なのは、ソレが何かという事である。
「詳しく、説明お願いできるかしら」
「それ、見てみな」
そう言ってレミーが煙草の煙を吐きつつ、自身の顎で指し示した場所に置かれていたのは、一枚の薄い紙であった。
一見してみれば、色が黄ばんでいるという点を除けば一般的なA4サイズの紙だ。しかしアンジュは、このなんてことのない紙に見覚えがあった。
「……総本部からの命令書?」
それはここ極東支部の属する総本部、聖光王教会より送致されてくる命令書そのものだった。
命令等わざわざ紙にして報せずとも、この時代、メールなどを利用して通知した方が余程効率的だろうという話なのだが、聖光王教会本部は伝統と格式を重んじる傾向にある為、こういった各支部への主な命令は、全て書簡で送られてくるのである。
例えばここ極東支部では、季太朗が近代的武装である銃を退魔武器として使用しているが、近代的武装である銃を退魔武器として使うなどということが本部からしてみればかなり異様である程には時代錯誤的組織なのだ。
訝しげな視線を隠すことなく、アンジュは命令書を手に取り読み始めた。
「いったい何が書いて――――?!」
途中まで読み進めたアンジュの顔が、驚愕の色に染まった。
理由は明快。そこには、己の目を疑いたくなる程のことが書いてあったからだ。
一通り読んだのち、アンジュは大げさなほどの一呼吸をして、レミーの方へと向き直った。
「……これ、季太朗君には伝えるの?」
「いや、伝えない方針でいきたいと考えている。
ただでさえ退魔師としての生活を始めたばっかなんだ。そこにこんな爆弾持ち込んだら、どうなることか」
「自分もそれには賛成ですよ。ステラちゃんもヤバイでしょう。こんなこと伝えちゃったら」
「ええ……、もっともよ。
これ以上あの子の精神に極度の負担を掛けるような真似をしたら、最悪精神が結合状態にある季太朗君とステラちゃん、お互いの精神が同時に崩壊するなんてことが十分に有り得るわ。
万が一伝えるとしても、もっとあの子が記憶を取り戻してからじゃないと、難しいわね」
「……チッ。いつもいつも、嫌な命令ばかり下しやがって。しかも、今回のはとびきり従いたくねえな。
生楔に関する事なんてよ」
「同感です。
とっ捕まえてなんとしてでも連れ戻せ的な事を言ってますけど、まあ、実際に連れ戻さなければ色々と大変なことになるのは確実ですが……。今連れ戻したって彼女は何も自分の役割を果たせないでしょうからね。まあ、連れ戻させませんけど」
「取り敢えず、この件はここにいる三人の中から絶対に外には出すな。
……鬼口に関しては俺が決める。各々、解散だ」
やがて、誰もいなくなったその部屋には静寂が訪れた。
残されたものは、灰皿へと置かれた煙草からの、勢いを失った微かな火の光。そして、机の上に置き去りにされた一枚の指令書。
そこにはこう記されていた。
聖光王教会総本部長官 ザイツ・エグザートより各支部へ通達せんとす
我ら人の世の安定をもたらす贄、生楔の魂が突如として消失。
肉体は生命活動を続行していることより、幽体離脱状態にあるものと推測される。
教皇様を始めとし、各枢機卿のご決断により総力を以ってして生楔の魂を捜索及び回収する任を全支部に与える。強制的に連行しても構わないものとする。
この案件を全業務の最優先事項とし、活動せよ。
なお、対象の生楔の名は
【ステラ・アスモデウス・ブリュンヒルデ】。
●
「ぐああッ!!!」
ドサッという鈍い音を立てて、季太朗は地面に倒れこんだ。それを目にした鬼口が顔を青ざめて駆け寄った。
「大丈夫ですか! 季太朗さん!」
「ッ……! 大丈夫です、続けてください」
季太朗はそう言って、先程鬼口から喰らった頬への一撃の痛みを堪えて、よろよろと立ち上がった。
今現在二人がいるこの部屋は、極東支部の所有する錬武場。構造は一言で言えば、巨大な体育館と言ったところだろうか。
その名の通り、退魔業務を行う者達が自身の身体能力向上を目的としたトレーニングを行う場所となっている。しかし今は季太朗と鬼口の二人しかおらず、ガランとして空間を持て余していた。
「いえ、もうこれ以上は季太朗さんの体が持ちません。少し休憩しましょう!」
「……くっそお」
なんとか立ち上がったものの、季太朗の息は荒く、足もおぼつかない様子だった。
季太朗は、鬼口の提案を飲むことにした。自らが望んだこととはいえ、ここで無理をして何か祟ってしまったら、元も子もないからだ。
鬼口も手にしていた訓練用の、薙刀の形状に似た武具を手放し、座り込んだ季太朗の隣の、純白に染められた壁に背中を預けた。
「……どうして、こんなことをするんです?
貴方は私達が保護する人なんです。こんな、退魔業務の為の特訓なんて、本気でする必要はないんですよ?」
まるでわからない、といった口調で、鬼口はそう季太朗に言った。
先程季太朗は鬼口に、退魔業務の為の訓練を付けてくれないか、と頼んだのだ。
その時の彼の覚悟のこもった声に動かされ、鬼口は訓練を承諾することとなったのだが、よくよく考えてみると彼、緋村季太朗は、極東支部という組織が全面的に保護する対象なのだ。本人もそれを理解している。
故に、鬼口は何故彼がこの様な事をしようとするのか、不思議に思わずにはいられなかった。
「……皆さんにあまり迷惑をかけたくない、というのもありますよ」
「ですから……!」
そのようなことを考える必要はない、と言いたげな鬼口を目線で制止させ、季太朗は再び口を開いた。
「…………妹にそっくりなんですよ。アイツ」
……鬼口は、彼のその発言の真意を理解するまで、僅かであるが時間を使った。
「妹さん、いらっしゃったんですか」
「ええ」
鬼口は、季太朗に妹がいるという話は初耳であったが故に。
「似ている……というのは、妹さんとステラがですか?」
「その通りです。外見じゃなくて性格が、ですけどね」
アイツという言語の対象がステラであることは、比較的簡単に察することができた。しかし性格が似ている、とはどういった意味なのか。
そんなことを鬼口が考えていると、彼はズバッと
「まあ、……まず人に対して愛想が全くない所がむかつくまでにそっくりなんですよ!!」
と、日頃の不満をぶちまける様にして荒い呼吸と一緒に言い放った。
害霊との戦闘や鬼口との組手で疲労していたからであろうか。そこから語られた言葉は、日頃の季太朗に比べて饒舌であるように感じられた。
「は、はあ」
「その癖していざ自分の力が及ばないもの遭遇すると急にしおらしくなって、俺にすがりついて助けを求めてくる!
そこんとこステラも全く同じです。そして結局は、俺がなんとかしてやるしかなくなるんですよ……!」
その言葉を聞きつつ、鬼口は普段のステラの振る舞いを思い出す。成程、話を聞く限り、確かに両者の性格は一致している。どうやらかなりの苦労を季太朗は妹に強いられてきたようだ。
「た、大変だったんですね……」
「ええ、本当に大変でした……。ですけど……
結局は、そういうのは強がりなんですよ。
本当は弱いのに、怖いのに。それを気取らせまいと必死に、無理して本当の弱い自分を偽ってるだけなんです。
そんな奴は、助けてやるしか、守ってやるしか、ないんです」
季太朗の口から発せられたその言葉は、不思議と錬武場に静かに響いた。
「それはアイツも……ステラも同じだと思います。
アイツは、俺にずっと憑いている訳じゃないですか。だから、皆さんに頼りきりなんじゃなくて、俺が何とかしてやるしかないこともあると思うんです」
「……だから、季太朗さんは、ステラの為に、こんなことを?」
「……泣かれたり喚かれると、こっちが迷惑ですしね」
その季太朗の言葉を聞いて、鬼口は思わずふふっと笑った。
何が可笑しい、と言わんばかりの若干不機嫌そうな顔で、季太朗は鬼口を見た。
「……すみません。
そういう、霊と人間の関係も、あるんだなあって思って。
…………ちょっと羨ましいです」
「?」
鬼口は軽く俯きながらそう、独白のように呟いた。
しかしすぐにいつも通りの軽い微笑みを口元に浮かべ、顔を上げた。
「ですけど、妹さんもさぞ、鼻が高いでしょうね。こんな立派なお兄さんがいてくれて。
私なんて一人っ子でしたから、かまってくれる人がほとんどいなくて……」
「――――妹は、七年前に死にましたよ。両親共々、水難で」
その一言で再び、辺りが沈黙に包まれた。
静寂の中、季太朗の口から、妹の死についての詳細が語られ始めた。
「まあ、妹と両親の三人で、旅行に行ったんですよ。
その時俺は受験生だったんで一緒には行けなかったんですけども、むしろ妹に振り回されることも無く、自由に使える時間が増えてラッキーって思ってました。
結果として二度と、生きた状態で会えなくなった訳ですが。
……アイツを毛嫌いしてたのも、その時のことを思い出してしまうから、なのかもしれませんね」
「き、季太朗さん。私、そんな事を言わせるつもりでは……!」
「鬼口さんが謝ることじゃありません。俺が、勝手に話しただけです。むしろこんな陰気くさい話にお付き合いさせて、すいませんでした」
「季太朗さん…………」
鬼口は何か言いたげだったが、掛ける言葉が見つからなかったのだろう。そこから、言葉は続かなかった。
そんな鬼口の心境を察してか、季太朗はおもむろに立ち上がり、これ以上鬼口に気を使わせない為、この場所から一時姿を消すことを決めた。
「すいません。一旦中断して、ステラの様子、見てきてもいいですか?」
「……わかりました。私が行くと、また怖がらせてしまうと思いますので、ここで待ってますね」
そういうと季太朗は、衝撃などを考慮して作られた頑丈な造りの錬武場の出口へと歩き出した。
鬼口の前から消える為の口実にステラを使ったが、それは偽りなく、季太朗の本心でもあった。
(あいつ、もう起きてるだろうか。……どんな言葉をかけてやればいいんだろうな)
そんな事を考えながら、彼が開かれたドアをくぐったその時
ドッ。と季太朗の胸元に飛び込んできたものは、微かに蒼く光を放つ体躯と、たなびく透き通るような髪を持った幽霊。
ステラが、そこにいた。
「なッ……! お、おい。急にどうしたんだよ」
季太朗は胸元に衝撃が走ったことにも驚いたが、まさか衝撃を与えたソレがステラだとは予想だにしていなかったので、さらに軽く混乱してしまった。
何とかして季太朗が平静を取り戻し声をかけるまでに、ほんの僅かであるが時間がかかった。
しかし、依然季太朗にはわからないことだらけであった。
ここに何しに来たのか。というか何でここにいるんだ。
どんなことを言えばいいのか迷いに迷っていた季太朗であったが、ここで一つの異変に気付いた。
ステラの肩が、震えていた。
「おまえ……泣いてるのか?」
「――――ヒクッ、エグッ……えうっ…………!!」
ステラから、嗚咽が漏れている事に季太朗は気付いた。
顔は季太朗の胸にうずめられてしまっている為見えないが、泣いているのは間違いなかった。
このまま泣かれっ放しなのはアレなので、少しでもなだめようと、昔妹にやっていたように、ステラの頭を季太朗は撫でてみた。が、それでも一向にステラが泣き止む気配はない。
「……大丈夫か? ステラ」
「――――こわ、かった……! おきたら、ひとりで、だれも、いなくて……! あんな、こと……おもい、だして………!!」
「…………」
嗚咽混じりの震える、うまく呂律のまわっていない声は、ステラの感じた悲しみと恐怖を、季太朗に伝えるのには十分だった。
「……怖い思いさせて、悪かった」
彼は、屈んで、普段振る舞っているのを見ている時とは想像もつかないほど、小さく、弱々しく震える体を抱きしめた。
「俺はここにいるからな」
「季太朗さん!何か物音がしましたけど、大丈夫で――――! ……」
季太朗は後ろから追いかけてきた鬼口に気付くことはなかった。
ただただ今は、こいつの悲しみをなんとかしてやりたい。そう思っていた。
そんな季太朗の心を察したのか、鬼口も、言葉を発する事はなかった。
(妹の分まで、俺は……)
●
そんな光景を、更に遠くで見つめる影があった。一つは筋肉隆々。もう一つは、首にヘッドフォン。
レミーとタカハラだ。
「……急に飛び出してったんで追いかけてきたが、大丈夫そうだな」
「ええ。季太朗君も、自分から強くなることを決めてくれたようですしね」
「だが、季太朗だけの強さに頼んじゃねえぞ。俺達も俺達で、あいつらを全力で護るんだ。それが……極東支部の信条だ」
「ええ、十分に理解してますよ。……十分にね」
そろそろ、日が昇る時間だ。