第二十話 水底からの悪夢・中編
海上の月は着々とその歩を進め、西へと傾いている。
時刻は零時を過ぎ、旅館の窓から見える外の風景に人の営みを伺うことは、もう出来なかった。
極東支部による七人ミサキの捜索と言えば完全に煮詰まっていた。
先程までと同様に張り巡らされたタカハラの海陸同時の探知網、レミーと鬼口による必死の海岸線捜索にも関わらず、七人ミサキはその姿を見せる事は無かった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ~~。
自信なくすわあこんなん。全然見つからねえでやんの」
木製の長机にゴン! と頭を打ち受けてタカハラはぼやいた。
普段からボサボサしている頭髪は疲労で更にボサボサになり、脂によるつやが増していた。
管制と周辺データの分析を部屋から一歩も出ずにずっと並列処理していればこうもなる。
「周辺地域に被害が出ている情報もなし、現地警察無線からもそれらしき案件なし。相当頭いいぞコイツは」
タカハラは何本目になるかわからない栄養ドリンクをまた一本飲み干して、髪の毛を更に掻きむしった。
「あんまり頭皮いじってるとハゲるわよー。流石の私でも植毛とかは御免だからね」
「うるせ――――うっ」
すると彼はブルリと肩を震わせたかと思うと、己の股座を押さえつけて硬直し、プルプルと震えながらアンジュの方へ顔を向けた。
「す、すまんトイレ」
「はあー!? 栄養ドリンクばっか飲んでるからそうなるのよ! もういい年なんだから自分の膀胱の許容量考えなさいっての!」
「返す言葉もねえ……。つーわけでちょいとレーダーの監視頼むわ。誰か欠けてもお互いの仕事を最低限こなせるように技術共有したからわかるだろ?」
アンジュは額に手を当て、目を呆れたように伏せながら大きな溜息をついた。
「わーかったわよさっさと戻って来なさいね」
タカハラはもう一度だけすまん! と言って、跳ねるように部屋備え付けの個室トイレへと向かった。そして扉の取っ手を掴み勢いよく開けようとしたが、ガチッという金属の鋭いとも鈍いとも取れる音と共にその要求は拒絶された。
「あるるぇ!!?? え、ちょっと、ドアノブの故障か何かですかァ!? 膀胱が破裂しそうなんですけどォ!」
ガチガチガチガチガチガチガチ。
しかしタカハラの健闘虚しく、ドアは一向に彼の膀胱に解放への道を開こうとはしなかった。
刻一刻と迫る股間にセットされた時限爆弾の限界が更にタカハラを追い詰める。
「す、すいませんタカハラ様! 先ほど季太朗様がトイレに行くとおっしゃられまして」
「ゔぇえ!? マジかよもうちょい早く言ってくれよ風香ちゃん!
はうあっ! 仕方ない、共同トイレの方に向かうしかないか。待ってろよ俺のアヴァロン!!」
ピューッ! というアニメで聞くような効果音と共に、漫画の描写にも負けず劣らずの足の回転速度で以って、タカハラは部屋を飛び出した。
●
「あ゛あ゛あ゛あ゛ー、生き残ったぞォー」
無事、健康的な大の男として世間体的な致命傷を負うことを回避したタカハラは、足早に手洗い場に向かった。
いつまでもアンジュ一人に任せておく訳にはいかない。寄り道でもしようものなら白衣の懐からメスを取り出して苦無のように投げつけられるのは避けられない。
トイレということで少しは躊躇しそうなものだが、タカハラはそんな素振りを見せることなく、蛇口から水を手ですくうと、乱暴に自らの顔へ叩きつけた。
そしてハンカチを取り出し、顔を抑えた瞬間
「……ごめんなさいタカハラさん」
「ゑ?」
●
「…………遅いッッ!!」
アンジュの堪忍袋の尾は限界に達していた。タカハラが厠に発ってから既に十五分ほどが経過していた。
大の方なら十分くらいかかるのはまだ理解できる。しかしどう考えても先ほどのタカハラの様子を見るに小の方。
いっそのこと瞬間的に席を外して男子トイレに突撃し、首根っこ引っ掴んで来ようかとアンジュは考え始めていた。
「だけどそーする訳にもいかないのよね。いつ反応が出るかも本当にわからないし……。
仕方がない! 季太朗くん! 悪いんだけどタカハラの様子見てきてくれないかし――――」
そう言って、後ろの方を見やったアンジュは固まった。
季太朗の姿すら、部屋のどこにも見当たらなかったのである。
そこにいたのは、いつもと変わらない大和撫子然とした表情のまま、座して動かない風香だけ。
しかし数多の人間との腹の探り合いを潜り抜けてきたアンジュは見逃さなかった。いつも凛として結ばれている風香の口角が、この時は僅かに、不自然に硬くなっていたことを。
(まさか)
アンジュは跳ねるように立つと、部屋に備え付けられていた個室トイレへと直進した。すぐさまドアノブへ手をかけ開けようとするが、鍵が閉められていて開く気配は一向にない。
するとアンジュは大きく溜息を吐いて――扉を無理矢理に蹴り開けた。ストッキングに包まれたすらっとした足からは想像もつかない程の威力の蹴りの前に、扉の鍵は屈服した。
『!? おいアンジュ、なんか嫌な音が聞こえたんだがお前何を』
「ちょっと黙っててレミー」
通信機越しに何かを察したレミーの悲痛な声を、アンジュは有無を言わせず黙殺した。施錠機構を完膚無きまでに破壊されたドアはギィ、と力ない音を立てて開いた。
――個室の中には、誰もいなかった。
「……風香ちゃん、どういうことかしら?」
身も凍えるような笑みと眼鏡の鋭い反射光が、風香を捉えた。
すると風香はピクリと震えたかと思うと、次の瞬間には芸術的なまでの土下座を繰り出していた。
「すいませんっ! 実は、実は……!」
●
「起きなさいタカハラァ!!!!」
「ぶぶげっばっ!?!?」
途轍もない衝撃を(主に股間に)受け、タカハラは飛び起きた。視界に入った白色のタイルを見、そして自らの頭の鈍痛を自覚して、自身が倒れ伏していたことに気付いた。
「いってええ……ってアンジュ!? お前ここ男子トイレ……!」
「私がいざとなればそんなもん気にする性格じゃないってのはよく知ってるでしょうよ。
それにマズイわよ――季太朗くんが、脱走したわ」
●
ホテルから海岸へ通じる断崖の斜面を、砂埃を立てながら滑り落ちる人影があった。季太朗だ。肩にはしっかりとステラがしがみついている。
「すまないタカハラさん…」
脳裏にタカハラを締め落とした時の苦々しい感覚が蘇ったが、季太朗はそれを振り払って、前へ前へと、海へ向かって走り続けた。
季太朗はずっと、意気消沈しているように見せかけ、旅館から脱出する機会を伺っていたのだった。しかし、一人ならまだしも二人が部屋にいる状況で普通に部屋を出ても、すぐに気付かれる。だから季太朗はアリバイを作るための行動を起こした。
まず、タカハラが栄養ドリンクを過剰に摂取している姿を観察していた季太朗は、彼がそう遠くないうちに尿意を催すであろうことを予測し、ステラの透過を使って部屋のトイレの鍵を内側から施錠させた。加えてステラをそこに待機させ、風香にも自身がそこにいることを証言させて、自分がまだ部屋の中にいると誤魔化し、アリバイを作った。
そして二人がバックアップに手一杯である事、共用トイレが幸い部屋の近場にあったことを利用して一瞬の隙をついて単独で部屋を脱出し、タカハラが駆け込んでくるであろう共用トイレの個室に潜伏。
タカハラがトイレに来れば部屋でバックアップをしているのはアンジュ一人のみ。であるならば、ここでタカハラを気絶させアンジュを孤立させれば僅かな間であっても、自身への警戒が疎かになると踏んだのだった。
そしてアンジュが忙殺されている合間にステラと合流。トイレの窓から飛び降りて、浜へと向かった。
極東支部の甘さにつけこんだ、無謀で最低な作戦だった。しかしその罪悪感以上に、季太朗を突き動かす衝動があった。
「風香には……いや、ステラにも悪いことしたな。片棒、担がせちまった」
「ほんとよ! ……ほんと……」
季太朗はステラの方を向いて、くしゃりと苦笑いしてみせた。
自分がどうしようもなく間違っているということを自覚して、それでも、もう止まれないからこその表情だった。
ステラは文句の一つでも言ってやろうかと思って口を開きかけたが、言葉を紡ぐことが出来なかった。なんだかんだと言いながら自身の命を省みず人を救ってきた季太朗が、己に泣いていいのだと言ってくれた季太朗がそこまで我を通したという事実が、軽率な言葉を胸底に押し込めたのだ。
代わりにステラはありったけの力で季太朗の二の腕を掴んだ。初めて会った時より一回り、いや、二回りほど太くなった、なってしまった腕。
本人はきっと、誰の為でもなく、自分が生き残るために鍛えたんだと言うに違いない。ただ、自分はこの腕に何度も何度も守られてきた。
「……ちゃんともどったら、みんなにあやまって」
「……ああ、そうだな」
季太朗の足が感じる地面の感触が変わった。少しでも気を抜けば、足がとられ、身動きが出来なくなってしまいそうな砂の地面。
いつ、現れたのか。
漆黒の海上に白い影が立っていた。ボロボロの死に装束をまとった影。だが、季太朗にとってそいつがどんな服を着ているかなどは心底どうでもよかった。
「……久しぶりだね、お兄ちゃん」
「ああ、本当にな――――夏希」
七年前に失った妹の名前を、季太朗は噛みしめるように口にした。