間話 アンジュの危惧
蛍光灯の光もない薄暗い部屋の中で、パチパチとキーボードをタップする音が響いている。机に置かれたライトスタンドの頼りない光と、パソコンの液晶が放つぼわっとした光が、その人物の顔を照らし出していた。
アンジュだ。
作業が一段落したのか、彼女は腕を天高く伸ばしたあと、肩をほぐす為にぐるぐると回し始める。濃い目のタイツに包まれた脚もぐるぐると回し始める。全身の至る所に、滞っていた血流が染み渡り始めるのをアンジュは感じた。
「っん~~! 全く、毎回レポート書いてまとめるのも楽じゃないわ! お肌が荒れちゃうじゃない」
椅子に深々と座り直し、背もたれに全体重をかけて大きく息を吐く。
極東支部において、何か事件があるごとにレポートを書くのは彼女の役割だ。他の古参二名がそういうのを書くことに致命的に向いていないということも一因だが、医療担当として彼女が最も各隊員のバイタル面を把握しているということで、自然的にその役割を回されている。
とは言え、もうあまり若くない彼女にとっては眼精疲労まっしぐらの辛い作業でもあるのだが。
「げっ、もう朝五時……。今回の事件複雑すぎよお~!!」
亀裂の走った壁に掛けられた時計を目にして、アンジュは思わず体をぐにんぐにんと捻った。この奇怪な動きは、物事がうまくいかない時にでる癖のようなものだ。
あの爆破事件から一ヵ月。極東支部のオフィスは、未だ完全に復活したとは到底言えなかった。
鬼口による洗脳への抵抗によって真に壊滅的被害は避けられたものの、過去数十年に渡る資料、データなどの修復には膨大な時間が必要で(タカハラが大半をデータ化していたものの、組織的に現物でしか保存できないものも多くあった)、また、場所が都心の地下深くにあることと、純一般人には到底見せることのできない極秘資料の雨あられということもあって、建築業者の介入による修繕もままならない有様だ。
ちなみに現在、季太朗を除いたメンバーは日本政府からの援助を受けてホテルで寝泊まりしている。
なら何故アンジュがわざわざこんな場所に単身戻ってきたのかと言うと……レポート作成と並行してどうしても、現物を早急に回収し、分析しなければならない物があったからだ。病院のベッドに縛り付けられている間、ずっと気掛かりだった物だ。
机の上に置かれたそれを、眼鏡の奥の瞳が見つめる。
土汚れが所々に付着しているそれは、季太朗の症状をまとめたカルテだった。
「やっぱり、増加しているわよね……」
怪訝な目で彼女が見たのはカルテの中でも季太朗の霊力値が書かれた欄。なんとこれまでの半年間の経過観察中、季太朗の霊力の上限値はずっと右肩上がりに上昇していた。
霊力というものは、言ってみれば後天的に向上させることが出来る身体能力とは異なり、産まれた時点で人ごとに持つ量が決定される先天的才能である。故にこのような上限値の増加というものは本来有り得ざるものだ。
それもアンジュにとって摩訶不思議極まる出来事だったが……他にも一つ、それ以上に彼女の頭を悩ませることがあった。霊力値の上昇によって季太朗の体に出て然るべきはずの拒絶反応が、まるで現れていないのである。
肉体と霊力のバランスが崩れれば拒絶反応が起き、身体に様々な悪影響が出るのは退魔に携わる者の間では常識だ。季太朗もその症状に苦しめられ、その治療を名目にして極東支部へと入隊した。
しかし、ここ最近は記録されたように霊力が増大しているのにも関わらず、一向にそれといった反応がない。加えてその数値はとうに、季太朗の入隊当初のそれを超えている。
アンジュは自身の持つ知識を総動員して、その答えに迫ろうと思考を巡らせ、一つの仮説に行き着いた。
(考えられるのは……
季太朗くんとステラちゃんの相互理解によって、お互いが拒絶し合うことなく完全に馴染んできているとでも?)
医療に例えるなら、季太朗にとってステラが憑依することは、確実に凄まじい拒絶反応が出るとわかっている臓器を無理矢理移植させられることと大差がなかった。だが、そういった臓器を痛みに耐えながらも使い続けたことで拒絶反応が抑制され、身体に馴染み、結果通常通りの働きを行えるようになった事例は現実に何件か存在する。
鬼口の証言によれば、季太朗はヤマダとの戦いの最中にまた、新しい技を開発せしめたという。その霊力の扱い方の向上ぶりも、季太朗とステラとの間に似たようなことが起こったと考えれば合点がいく。
それで終わりならば、アンジュも気が楽だっただろう。
(マズイわ……! 生楔とこれ以上の憑依深度に至る可能性があるなんて、上に露呈でもしてしまったら!)
机に両手を振り下ろし、アンジュは椅子が揺れるほどに乱暴に立ち上がった。一筋の汗が垂れた顔には、飄々としたいつもの余裕はなかった。
机の上のカルテを束ね、懐に力強く抱え、白衣を翻し、彼女はレミーたちのいるホテルへと足取りを取る。
ああ、本当に今回の事件は複雑すぎると、心の中で嘆きながら。
(神様……あんたに少しでも人の心が理解できるのなら、どうか、彼女から安寧を奪うことのありませんように!)