第十七話 Re:Start・後編
『ゴアアアアアアアアア!!!!』
ソレが叫んだだけで豪風が吹き荒れ、無数の窓が砕け散った。遮蔽物が消えたことで更に差し込んだ月光が、その怪物の姿を照らし出す。
常人ならば姿勢を保つのもままならないその状況で、季太朗は微動だにせずに、ソレと相対した。
歯茎が剥き出しにされ、醜く歪んだた口元からはヘドロのようなものが垂れ流れ、背は天井を突き破らんばかりに山のように盛り上がり、双腕は垂らすだけで地に着く程長く、爪は触れただけでコンクリートの床を切り裂いた。鬼も相当の巨体ではあったが、溢れ出る殺意の量は比べ物にならなかった。
「鬼口さん、退がって下さい。こいつは俺が相手をします」
「ッ、駄目です! アレはまともに戦ってはならないものです! 今度こそ本当に死んでしまいますよ!?」
鬼口は季太朗の襟首を掴み、必死の形相で引き止めた。だが彼には、絶対に退けない理由がある。
「風香があいつの後ろにいるんです。それにどのみち倒さなきゃ俺達全員殺されますし、それに――――あれは、見てられませんよ」
世界への底なしの怨嗟、運命への嘆き、自分より幸福なものへの妬み。それらを釜へ投げ入れて限界まで煮詰めた様な叫びは、目を背けたくなる程に痛ましかった。
『殺す殺す殺してやる!! 俺達の、邪魔をする存在を、全てッ!!』
季太朗が周囲を確認すれば、先程まで自分達を包囲していた人影は、急激に思念を吸い上げられた影響で地に倒れ伏していた。加えて黒い靄のようなものが体から溢れ、巨大な影へと注がれている。
そうして生まれた人の怨念の怪物は、今まで季太朗が相対したどの存在よりも強大だった。
季太朗の頰を冷や汗がつたう。
「もう一度言います、退がって鬼口さん。キツイでしょうけど全力で」
季太朗は丁寧に鬼口を床におろし、神無月のグリップを握りしめた。そして、
「はあっ!!」
一気に攻勢に出た。まずは鬼口を極力巻き込まない為に怪物めがけて疾走し、牽制も込めて三発の弾丸を撃ち込んだ。
が、それは呆気なく巨大な鉤爪に弾かれてしまう。
(ちっ、やっぱり普通の弾じゃ効かねえか!)
『ハハハハ!! 蚊みたいな攻撃だなあ!!』
直後大きく横なぎに振るわれた腕を姿勢を屈めて回避し、
「足ならどうだ!!」
先程よりも霊力を込めた弾を、比較的華奢な下半身に連続で撃ち込んだ。怪物は季太朗の狙い通りに体勢を崩しかけたが
『舐めるなァ!!』
「ぐうっ!」
接近は許さないとばかりに凶腕が周囲を薙ぎ払った。床には円状に亀裂が走り、衝撃波が大気を切り裂く。
「きゃあああああ!!」
「ああああ!!」
「風香! 鬼口さん!」
風香の体が激しく宙で嬲られ、鬼口は為す術なく吹き飛ばされ壁に背を強打した。このまま戦闘が長引くことになれば、二人に対する甚大な被害は避けられないのは確実だった。
「突っ込むぞステラ! 離れるなよ!!」
「うん!」
季太朗は少しの躊躇いもなく自らの身体とステラを強化コートで包み、怪物に飛び込んだ。それを待っていたと言わんばかりに再び凶腕が振るわれ季太朗達に肉薄する。
『死ねええ!!』
そして怪物の腕が通り過ぎると、そこにいたはずの季太朗の姿は無かった。すわ鉤爪の餌食となってしまったのかと風香が絶望の表情で声にならない悲鳴を上げた。が、
「ぐうううう!!」
『何ッ!?』
有り得ないという表情で怪物は自身の腕を凝視した。張り付いているではないか、憎き男が、自身の腕に!
「片腕、もらったぞ!!」
次の瞬間、怪物の視界を蒼い閃光が塗り潰した。走る激痛。開けた怪物の視界に飛び込んできたのは無残にも肩から抉り飛ばされ宙に舞い上がる自身の右腕だった。
『俺の、俺達の腕があああああああああああああ!!!!』
鼓膜を破らんばかりの絶叫を聞き流しながら、季太朗は何度か地面の上で回転した後、着地した。
「げほっ!! かはっ!!」
大きな成果を上げた季太朗だったが、彼の有様は痛み分けにも等しかった。口からは湧き上がるように血を吐き、左手の前腕を右手で庇うように覆っている。間違いなくヒビが入っているか、酷ければ完全に折れている。
『有り得ない!! 何でそんな真似ができる!! 死ぬのが、死ぬのが怖くないのか!?』
幽霊でも見るような目で怪物は季太朗にそう言い放った。怪物は本当に理解できなかった。自分たちと同じ被害者である筈の緋村季太朗が、何故こんなことを、自分の命を躊躇なく投げ捨てるようなことが出来るのかと。
溢れ出る血を袖で乱暴に拭って、季太朗は口を開いた。
「はあ……? 死ぬのが怖くないなんてことあるかよ、こちとら死なねえ為に退魔師やってんだぞ……!!」
季太朗は息を整え、歯を喰いしばり、痛みに耐えながら重い銃口を持ち上げる。
「まあでも確かにてめえの言う通りだ。死なねえ為に退魔師になったのに気付いたらいつも死にかけてる自分がいる。まあ、多分馬鹿なんだろ。それだけだ」
季太朗はそう言い切ると同時に血の混じった唾を地面へと吐き捨てた。
それが、第二ラウンド開始の合図となる。
「おおっ!」
『ッ!』
季太朗はまず怪物の頭部に向かって二発の弾丸を撃ち込んだ。怪物はそれを残された左腕で防いでみせる。無論、弾丸は無情にも弾かれた。だがこの瞬間、怪物は自らの巨大な腕で自身の視界を遮ってしまった。
怪物が腕を視界からどけた時には既に、季太朗は怪物の右半身側へと回り込んでいた。そして先程まで凶腕の付いていた傷口をさらに抉り飛ばすように、弾丸を連射した。
『ガアアアアアアアアア!!!!』
肉を削られる激痛に耐えかねて怪物は苦悶の咆哮をあげる。
怪物は季太朗を止めんと左腕を振るったが、それはいとも容易く季太朗に避けられる。
「流石にその体じゃあバランス悪いだろうな!! もう一本吹き飛ばしてやろうか!?」
『殺す殺す殺す殺すう!!』
季太朗の挑発に激怒した怪物は、今度は腕を使わずその牙を季太朗に突き立てようと力任せの突進を繰り出した。が、精度を欠いた攻撃はまたもや季太朗に躱されてしまう。
(どうして? 季太朗さんは、もう限界のはずなのに…!)
信じられないものを見る目でその戦いを見る者がもう一人いた。鬼口だ。レミー達程ではないにしろ、いくつもの修羅場をくぐってきた彼女は勘付いていた。緋村季太朗は、人間としておかしいことに。
緋村季太朗は数か月前まではただの一般人であった。おおよそ死とは無縁の、刺激もないが危険もない世界の住人だった。だがここ最近の彼はどうだ? 死を覚悟するような状況に陥っても決して退くことはなく、自身の肉体をあまりにも顧みない戦闘を平然と行う。今だって、もう霊力切れを起こして倒れてしまってもおかしくない。
彼の在り方は、異常だ。
鬼口がそう思考している間に、季太朗は再び怪物の脚を吹き飛ばした。片腕を失った怪物は先程のように反撃することもバランスを取ることもできず、地面に倒れ伏す。
『何で……何でだ。俺達の憎しみはこんなもんじゃ無い筈だ!!』
自身がこうも一方的に嬲られ始めたことに納得のいかない怪物は、血走った眼で季太朗を睨みつけた。
『こんな醜い姿になるまで憎み続けて! 人生の全てを復讐の為に費やして! やっと、やっと!!』
片腕を地面に突き刺し、怪物は無理矢理に巨体を立て直して、
『ここまで来たんだああああああああああ!!!!』
次の瞬間、怪物の腕が突如として再生した。しかし、ただ元通りに再生されたわけではなかった。
再生された腕は元々の物よりも遥かに巨大で、歪。指先だけでなく腕全面を鋭い鱗が隙間なく覆い尽くし、肩との接着部分には巨大な眼球がぎょろぎょろと忙しなく動き、まるで腕ではなく一つの生物のようなソレは、おおよそ人の感情から生み出されては良いものではなかった。
『これなら、どうだあああああ!!』
巨腕が、怪物の全身全霊を以て容赦無く振り下ろされた。
人間が両足で立つことがままならない程に大地が激動する。結果、何が起こるか。
工場の壁に数え切れない程の亀裂が走り、とうとう全ての窓が砕け、鉄骨が飴菓子の如く軋み始めた。
「まずいッ!!」
このまま建物が崩れれば自ずと風香はその下敷きになる。それだけは何としてでも避けなければと季太朗は怪物の一瞬の隙をついて風香を吊り下げていた鎖を撃ち切った。
「あっ!」
突然として宙に放り出された風香は力無く落下し――走り飛び込んできた鬼口に抱きかかえられた。鬼口は風香の無事を確認し安堵の表情を浮かべたが、崩壊の時はすぐそこまで迫っていた。
「季太朗さん!! 風香は確保しました! 急ぎ脱出を――――」
先に行け。一瞬だけ鬼口が捉えた季太朗の目は、そう言ってるような気がして
「季太朗さ――――ううっ!!」
虚しくも鬼口の叫びは轟音を立てて落下した鉄骨に打ち消された。
舞い上がる砂埃を突き破って外へと飛び出した鬼口と風香が見たのは、ガラガラと音を立てて崩れる工場と、鉄骨に蹂躙される季太朗の立っていた大地だった。
「きたろうさまあああああああああ!!」
風香が届かぬ手を必死に伸ばしながら絶叫する。鬼口も、歯を食いしばってその場所を見続けることしかできなかった。
二人とも、無残にも潰された季太朗の姿を幻視したが、次に二人の目に飛び込んできた光景は、それとはかけ離れたものだった。
『……馬鹿な』
怪物が呟く。その視界に拡がっていたのは、淡い蒼をたたえた半球状の膜のようなものが、憎悪を生み倒れ伏した人々を覆っている状況だった。そして、
「……間一髪、だったな」
息も絶え絶えになりながらも、両足で地面を踏みしめる季太朗の姿がそこにはあった。見れば彼の方も、他のと比べて薄く、ひび割れてはいるが、同じような光の膜に覆われていた。
季太朗が霊力を弾丸状ではなく限界まで薄く伸ばし、ドーム状に成形することで生み出したそれは、一種のバリアーだった。霊体、物体に関わらず、あらゆるものを遮断する蒼き盾。
よく観察すれば、それで覆われた人々には一切の落下物が当たっていないことが分かる。
『なんで、なんでだ……。そいつらはお前らを憎んでいるんだぞ!? なぜ救う!?』
怪物は困惑した。理解が及ばなかった。何故、果てしない憎悪を向けた相手の命を救ったのか。
「……さっきな、月明かりが教えてくれたんだ」
季太朗はその問いに答える為に、口を開く。
「そいつらさ、左手の薬指に指輪を嵌めているサラリーマンとか、買い物帰りとしか思えねえ格好の主婦とか、どうみても遊び盛りの学生な奴とか、健康的に日焼けした兄ちゃんとか、アニメTシャツを着たオタクとか……どう見ても復讐に人生を費やしたとは言えねえ人達ばかりだよな……?」
鬼口はハッとして倒れ伏す人々に視線を向けた。そこには季太朗の言った通り、何の変哲もない、さっきまで自分自身の人生を送っていたかのような姿の人々がいた。
「これは、一体……?」
「鬼口さんと同じですよ。多分この人達はこの怪物、いや……ヤマダに操られて連れてこられた被害者だ」
季太朗の脳内に、家に入る直前に耳にした警察巡回車の注意喚起が再び流れ始める。
「お前、全国から害霊に親しい人を殺された人々を攫ってきたな?」
『…………』
ヤマダは季太朗の指摘に対して何も口にしなかった。まるで、その沈黙は肯定と言わんばかりに。
「多分、この中で極東支部に対して明確な復讐心を持っているのはお前だけだ、ヤマダ。
お前は計画を練った。人生の全てを投げ打って、極東支部への復讐を願い続けた。だが自分だけじゃどうやっても足りない、殺せない。だが殺したくて仕方がない。
そんな時、お前の憎悪に満たされた心に――害霊が住み着いたんだ」
「お前はその力を手に入れて、次々と人の憎しみを増大させていった。どうやったかは知らないが、かつて極東支部が救えなかった人々を見つけては過去に抱いた憎しみや後悔で心を潰して、自身の支配下に置いた。そうして得た憎悪を取り込んで、自身の力を強化する算段がついたお前は、極東支部を内部から壊す駒として鬼口さんに接触した……。
……さっきお前、なんで勝てないんだって叫んだよな? それに答えてやるよ」
ギリリと、折れそうな程に食い縛られた季太朗の歯の隙間から音が漏れた。腕には青筋が浮き出で、グリップが握られる力で神無月は細かく震えている。
「この人達はな、確かに救われなかった人達だ。極東支部がとりこぼした、報われない人々だ。憎悪は抱いて当然さ。
――――でもな、この人達は、自分の人生を歩んでたんだ。前を向いて、どんなに憎くて、辛くても、進むことを選んだんだ」
未だ微動だにしないヤマダへと、季太朗は歩を進めていく。
「お前の人生を否定してるわけじゃない。過去を見続けることはいいことではないかもしれないが、間違いじゃあない筈だ。
だがよ、自分の為に他人の幸福をぶち壊すなんてのは……外道にも劣る!!」
そして、神無月をヤマダの額に突きつけた。
「お前は、自分の人生の為に他人の人生を利用した時点で間違ったんだ。
その時点で、お前は、負けてんだよ」
神無月の銃口がより一層、ヤマダの額に深く食い込んだ。
静かに、蒼い光が銃口へと収束していく。
『フ、フフ。ハハハ……』
その時だった。ズルリ、と音を立てて怪物の肉体からヤマダの本体が抜け出た。といっても、上半身だけだったが。
すると、ぬらぬらと怪しく輝くその両手で自らに突きつけられていた神無月を掴んだかと思うと、自分から額に強く押し当てた。
「なら……お前が正しいと証明して見せろ。引き鉄を引いて俺を殺せ。俺は絶対に、間違ったなどと認めないからな」
過去に囚われた者と未来へ歩き出した者。
決して相容れない二者の間に、永遠かと思われる程の時の静寂が流れる。
その静寂を、鬼口の叫びが破った。
「っ駄目です季太朗さん!! 人を、人は殺しては……!!」
いけない。彼女はどうしても、その最後の言葉を喉奥から捻り出すことが出来なかった。
自分たちは人を守る退魔組織である以上、人殺しは到底許されるものではない。
だけど、彼を、ヤマダを生かしておけば、いつかまた復讐が再開されるかもしれない。今度は、ここにいる以上の無辜の人々が巻き込まれるかもしれない。そして何より、自分の大切な仲間が、家族が、また傷付けられるかもしれない。ならば、いっそのこと――――。
脳内に浮かんだその言葉を、鬼口は必死に否定しようとした。
だが出来なかった。あまりにも思い描いた人々が、大切であるが故に。
(ああ…!! 私は、私はなんて未熟なのでしょう…!!)
彼女は自身の内で渦巻く感情の濁流に飲まれまいと、唇を強く噛み締めた。つう、と一筋の鮮血が、地面へ垂れた。
優しい肌触りの何かが、そっと鬼口の口元を拭った。
「鬼口さま。貴女は、何も間違ってはおられません。それは人間として抱いて当然の思いです」
「っ」
自身の醜い心を見透かされたような気がして、鬼口は咄嗟に差し出されたその手を、風香の手を退かそうとした。
だが優しく触れられた着物の裾とは裏腹に、風香の腕には強く力が籠められ、退かすことはできなかった。
「割り切り、というものは非常に難しいものでございます。それらしきことができているように見える人でも、必ず心に無理がかかっているのです。鬼口さまも例外ではございません。それこそ完全な割り切りなど、できるのは機械ぐらいでありましょう。
ましてこの度は肉親にも等しい人々が秤にかけられている。それでもなお、秤を水平に保とうとする貴女は、とても偉くて、お強いのですよ」
「……!」
その言葉を聞いて鬼口の瞳から、とめどなく涙が溢れ始めた。拭っても拭っても溢れるそれの所為で、視界が定まらなくなる。
何度も、色々なものを捨ててきた。青春は修行に費やし、友人は足枷とばかりに作らず、抱いた使命の下に命を危険に晒し続けた。それを面と向かって褒められたのは、初めてで。
風香は先程と同じように、裾で鬼口の目元を優しく包み込んだ。
「……季太朗さん、お願いします。私には、選べません」
鬼口は目尻に涙を溜めながらも、季太朗を真っ直ぐ見て、そう口にした。
一人の女の子が、人生で初めて、誰かを手放しに頼った瞬間だった。
季太朗は何も口にすることなく、ただ一度の首肯を以て返答した。神無月のグリップに、再び力が籠められていく。
「ヤマダ、あんたも結局は、ただ寂しかっただけなのかもしれねえな。
自分だけ取り残されるのは嫌だよなあ。俺も、落ちこぼれだからわからんくもない」
光がより一層の収束を開始する。だがいつものような全てを塗り潰すような極光ではなかった。辺りが暖かい光で包まれていくのを、その場にいた誰もが感じ取った。
「あばよ復讐鬼、ゆっくり休め」
「はっ、精々あがくんだな、偽善者めが」
カチリと音が鳴って、夜の闇が払われた。
●
「おい、担架よこせ!! 人手と薬もだ!!」
「なんでこんな崩落に巻き込まれて傷がこんなに浅いんだ? まあいい次の搬送車回せえ!!」
「おい包帯が足りないぞ!! 至急補充を頼む!!」
「ええい瓦礫が邪魔だ! すまんが早くどかしてくれ!!」
季太朗達の戦いから数刻後、辺りは夜の静けさとは程遠い喧噪の渦に包まれていた。
赤いランプが明滅を繰り返す中で、サイレンがけたたましく鳴り響き、あちこちで救助服を着た医療従事者たちが担架を担いで走り回り、連携して消防団員が崩れた工場の瓦礫を必死に撤去している。
その中には先刻レミー達の救助を担当した極東支部の存在を認知している人物もいたが、規模が規模ゆえ、大多数は一般の救急隊員だ。
その作業の邪魔にならないよう少し離れた位置にあった柱にもたれながら、季太朗達もまた応急処置を受けていた。
「打撲十数か所、完全骨折一、亀裂骨折一、裂傷無数、一体何をどうしたらこんなになるんだ!」
「すんません……俺はいいですからどうか他の人を先に」
「そう言う奴が一番危ないってのが救助の中では常識なの! ほら、取り敢えず固定もしたし傷口の消毒もしたから絶対安静ね。そこの貴女もな!」
「は、はい」
自分たちを治療した救急隊員のあまりの剣幕に思わず二人はすくみあがった。傍から見ても超重症の二人を見るや否や目にもとまらぬ速さで応急処置を済ませてしまった点から見て、相当の修羅場をくぐってきた精鋭であることが窺えたが。
そんな光景をうすぼんやりとした眼差しで見つめながら、季太朗は思った。
ああ、終わったのだと。
振り返ってみれば、壮絶と称する他ない一日だった。もう時刻は、明け方に近い。あと数十分もしない内に、陽は上るだろう。
「ぎだろうざまあああああああ!! ふうがば!! ズビィッ、るずぢゅうのいえもまもれず!! あげぐのばでにびどじぢになるなど!! ヴエッ、がおがらびがでぞうでずうう!!」
某県議員を彷彿とさせるレベルで嗚咽りながら季太朗の腿に顔面を擦り付けている風香の頭を骨折していない方の腕の手で撫でつつ、次に季太朗は、ある一か所に視界の焦点を定めた。
丁度ある男が担架に乗せられ、救急車の中へと運ばれる最中であった。
(ヤマダ……)
他の怪我人の誰よりも包帯を厚く巻かれ、それは顔面の大部分にまで至っていたが、包帯の隙間から僅かに覗く特徴的な白髪から、間違いなくヤマダであるとわかった。
結局の所、季太朗はヤマダを殺さなかった。
季太朗はヤマダの肉体を覆っていた害霊としての体躯だけを、放射状に成形した弾丸を用いて綺麗に消し飛ばした。元々霊的存在を殺すことに特化した銃ゆえに、その不可能と思われる行動は実現に至った。
勿論、そうは言っても霊人関わらず殺傷できるだけの力が神無月にはある。だから、その中心かつ至近距離にいたヤマダも無傷とはいかなかった。圧倒的な熱量を至近距離で浴びた為に軽度ではあったものの全身に火傷を患い、かつ閃光を間近で直視したので、彼の視力は著しく低下しているだろう。
これが正しかったかどうかは、季太朗にはわからない。害霊としての力は完全に殺すことが出来ても、ヤマダの心は変わらないかもしれないし、鬼口の懸念通り、また誰かを傷つけるかもしれない。
任されておきながら情けないと、季太朗が内心自責していると
傷だらけの季太朗の手に、隣に座っていた鬼口の手が重ねられた。
「季太朗さん……ありがとうございました」
「俺は、何も……」
きゅっ、と、鬼口の手が季太朗の手を握った。
女性的かと問われれば余りにも硬くてガサガサの手には、僅かに熱が籠っていた。
「あそこで彼を殺していたら……きっと私は、戻れなくなる所でした。
彼は、確かに許されないことをしました。他者を傷つけた挙句駒として使い、害霊に飲まれ……私の家族を傷つけました。
でも、それでも、きっと、彼は、私と同じなんです」
季太朗の手が、さっきよりも少しだけ強く握られた。
「ただ少し、運が悪かっただけなのです。
私は、運良く極東支部に拾われて、皆に手を引っ張られて、ここまで生きてこれました。
でも彼には、誰も手を差し伸べてはくれなかった。闇の中で、一人きりで足掻いて、足掻いて……」
私も、一歩間違えれば、きっとああなっていたんですよ、と、鬼口は寂しげな笑みを浮かべて言った。
否定することも肯定することもなく、ただ季太朗は黙って静かに、鬼口の言葉を聞いていた。
鬼口にとってヤマダは、有り得たかもしれない自身の姿の一つだった。ただ本当に、運が良かったか、悪かったかの違いであっただけで。
「!」
今度は季太朗の方から、鬼口の手が握られた。そのことに気付いて、鬼口は少しだけ体を震わせる。
「……それでも、あなたは、ここにいる以上でも以下でもない。
有り得たかもしれないなんてことを気にしてうだうだするのは意味がないし、何より――――貴女は俺の命の恩人で、頼れるかっこいい先輩であることに変わりませんよ」
……そんなことを季太朗が言った数秒後、鬼口はギ、ギ、ギと音を立てるようにして深く俯いてしまった。もしや機嫌を損ねたかと思って季太朗が顔を見ようとしたが
「ちょっ、ちょっと今顔が汚れてると思いますので? あまり見てほしく? ないので?」
と言ってとうとうそっぽを向いてしまった。
「そんなこと言ったら俺なんて血塗れですし泥だらけですから気にしなくても」
「お、男の子にはわからないアレが、女の子にはあるのです! 本当に大丈夫ですから……!」
それ以後、鬼口は頑なに顔を上げようとはしなかった。いきなり挙動不審になった鬼口を見て、季太朗の頭の中には?マークが浮かぶ。
そんなやりとりをいつの間にか泣き止んで、光の消えた目でじっと観察していた風香は見逃さなかった。鬼口の顔が耳まで真っ赤になっていることに! ついでに言えばそんな風に顔を背けておきながらも絶対に握られた季太朗の手を離そうとしないことに!
(季太朗さま……恐ろしいお方! ここまで見事な天然ジゴロ、私見たことがありません!!)
ガ〇スの仮面の某有名なコマみたいな表情になりながら、自身の主人の人垂らしっぷりに風香は戦慄した。先日の神社の時も含めれば前科二犯である。無論、当の季太朗本人は邪な考えなど一切持ち合わせていない故に尚更性質が悪い。
長年世間に揉まれてきたので、痴情のもつれの危険さを彼女はよーく知っていた。
しかしコロコロと忙しく表情の変わる付喪神である。
その時、ぺいっと鬼口の手が払われ、間髪入れずに季太朗の手より一回りも二回り小さい掌が重ねられた。鬼口は一瞬むっとした顔になったが、その主犯を見て、内心惜しみつつも潔く腕を引っ込めた。
「…………」
「ステラ……」
目尻に涙を溜め、口を横一文字に結んで『私、不満です!!』オーラを滲ませているステラが、季太朗の手を握っていた。
実はステラ、ヤマダを倒したあたりからずっと気を失っていた。それでもって目を覚ましたらなんか目の前で鬼口たちとイチャイチャしてる(ステラにはそう見えた)季太朗がいたので、無性に不機嫌になって行動に出た次第である。
が、頑張って踏み出したは良いもののそこから固まってしまって動けない。
「きゃっ!」
そんな状況が停滞していると、急にステラの体が浮いた。そして次の瞬間には、季太朗の胸元へと運ばれ抱きかかえられる。
ぽすっと音がたって、ステラの体は季太朗の曲げられた片膝と上半身との間に綺麗に収まった。
(人がたくさんいるからあんまりでかい声じゃ喋れねえけど……よく頑張ったな、ステラ)
霊の見えない人達が大勢いる中であまり怪しまれないようにと、ステラの耳元に口をうずめて、季太朗は囁いた。
今夜は、間違いなく季太朗の退魔師活動の中で最もハードな日であった。
極東支部の爆発、レミー達の救助、鬼口との戦闘、風香の誘拐、そして、ヤマダとの激突。これだけのことが一晩で起こったのである。季太朗の肉体、そして精神に蓄積したダメージの大きさは想像に難くない。つまり、ステラにも凄まじい負担がかかっているのは自明の理だ。
そんな状況で泣き言一つも言わず、そうするしかないとはいえずっと自分の隣にいてくれたステラは、季太朗の絶大な支えだった。
これまでも何度か頭を撫でたりしたことはあったが、季太朗は今回は慈しむようにステラを抱きしめ、感謝の念を伝えた。ステラの蒼い肌に赤みが差しているように見えるのは、きっと間違いではないはずだ。
「おい!! ここに俺の義娘がいるって聞いたんだがどこだっ!!」
「義娘って、うわっ! あんたら、絶対安静って言われただろうが! 何抜け出してきてんだ!!」
「いや~我々は止めたんですけどねえ~。こんなマッチョの進軍を止められる筈もなく」
「あ~、心配してもらって大変ありがたいのだけれどこの男、この程度なら死なないから大丈夫です。むしろ本当に死ぬレベルのケガなら殺してでも止めてますわ。私も医者ですから」
「ころっ……!?」
そんな時に、どこからかとても聞き覚えのある声が季太朗たちの耳に届いた。
たった何日か聞かなかっただけのその喧騒は、どこか酷く懐かしくて
「あ……」
そして、騒ぎの中心にいた大男と、鬼口の視線とが重なる。
大男は鬼口の姿を見た途端、松葉杖をついているのにも関わらず止めようとする救助隊員も、彼に追従してきた二人すら目もくれずに振り切って彼女の前で立ち止まった。
「アイラ……」
「レミー、隊長」
鬼口の体が硬直する。何を言うべきなのかはわかっているのに、口が動かせない。鬼口の中の罪の意識が鎖のように巻き付いて、心身を締め付ける。
しかし、彼女はその強靭な精神力で以て苦痛を堪えて立ち上がり、何とか言葉を発した。
「この度はっ、害霊の力に洗脳されるなどという失態を犯したうえ、極東支部にっ、多大なる損害をっ」
「馬鹿野郎ッッ!!!!」
レミーの発した突然の大声に、鬼口の体がビクッと震える。刹那、親に手を挙げられた子供のように身を縮こまらせた鬼口だったが――――そんな彼女を、温もりが包みこんだ。
「無事で……無事でよかった……! 本当に……良かった……!」
大きな体を震わせて、病室の時とは比べ物にならない程の涙を流しながら、レミーは鬼口を力強く抱きしめた。無論、怪我人である鬼口にとってその抱擁は痛みを感じる程のものであったが、その強さが何よりも嬉しくて、愛おしくて、
「あ、あ、あ……!!」
呼応するように、鬼口の瞳からも大粒の涙が溢れ出す。
レミーの大きな背と比べればか細いその腕を、彼の背にまわす。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!! 傷つけてしまってごめんなさい! 素直になれなくてごめんなさい! 嘘をついてしまってごめんなさい! 心配させてしまってごめんなさい!」
ごめんなさい、ごめんなさいとなおも繰り返す鬼口の姿を見て、誰も憐れだと、情けないと思ったりはしなかった。
何故なら、『悪いことをしたら謝る』のは至極当然で、それでいてとても大切なことだということを、誰もが理解していたから。
「俺も、俺もすまなかった。お前の強さに甘えて、あの時の罪に怯えて、お前と本当に正面から向き合おうとはしてこなかった……! ようやく、気付けたんだ……」
二人の抱擁はそれからしばらくの間続いたが、鬼口の涙が一旦落ち着きを見た時を皮切りに、彼女は自らの内にあったひっかかりをレミーへと尋ねた。
「あの、レミー、さん。さっきここに来たばかりの時なんですけど……義娘って言ってませんでした?」
「……あっ」
それを指摘されて、レミーの顔がどんどん赤くなっていく。それはもう、額で茶を沸かせるかもしれない程に。
「いや、その、あれは何というか勢いというか」
レミーがしどろもどろになっていると突如、ガッ!! と音を立てる勢いでレミーの両肩に手が置かれた。レミーが恐る恐る後ろを見ると、アンジュとタカハラの二名がそれはもう凄い怖い三日月の様な笑みをたたえながら各々の片手をレミーへと伸ばしていた。
「ヘタレんなよお隊長? 立派なのはガタイだけですかあ? おおん?」
「致死量のモルヒネを打たれたくなかったら男を見せなさあい? 今なら安くしとくわよお?」
「わかったわかったガチの殺気を放つのはやめろお前ら!! 目が! 目がなんか危なく光ってるから!」
二人の眼光はは完全にこれから獲物を狩る獣のそれであった。
これまでのやり取りを遠目に見ていた季太朗さえも圧を感じた程の脅迫に、レミーは冷や汗を掻く。着ているタンクトップが即じんわりとしてくるレベルで。彼に抱きしめられている鬼口にとっては大変いい迷惑である。
が、レミーは何回か深呼吸をした後にそれを引っ込めさせると、かつてない程の真剣な、だがそれでいてどこか恐れを抱いているような視線を、鬼口へ真っ直ぐに向けた。
「……アイラ。これはただの、情け無い男の自己満足に過ぎない。決してお前を縛るつもりはないし、嫌なら、断ってくれ。
……俺たちの家族として、義娘としてもう一度、一緒に居てくれないか」
その言葉を聞いた時、鬼口は咄嗟に反応することが出来なかった。数秒おいて、言葉の意味を咀嚼して、理解して、
「……馬鹿ですね。ずっと昔から、私たちは家族じゃないですか」
屈託無い、幼い子供のような笑顔で、そう言った。
それからはもう、どんちゃん騒ぎだ。
レミーが更に滝のような涙を流しながら鬼口を天高く抱き上げて踊りのようにぐるぐると回転し、そんな彼らにタカハラとアンジュの二人も子供のように飛びかかるようにして抱きつき、年甲斐もなく抱き上げられて衆目に晒された鬼口が涙目で降ろすよう抗議したりして、最終的にあの鬼気迫る救助隊員に怒鳴られた挙句レミーは鎮静剤を打たれかけるなどした。
その団欒を少し離れて季太朗は、苦笑を浮かべつつも、どこか尊いものを見るようか視線を向けていた。
ああ、俺も、家族にあんな風に素直になることができていれば……。
そんな事を彼が思った、その時だった。
夏の暑さが見せた幻夢だったのか、それとも、疲れきった季太朗が見た単なる幻覚だったのか。
二人の男女と思しき形をした白い人影が、季太朗の隣に立っていた。顔は白く霞がかっていて、細部まで把握することはできない。全身に至っても蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて覚束ない。
だがそれでも、何を見て、何を想っているのかを、季太朗は心のどこかでなんとなく理解できた。
(……鬼口さんは大丈夫ですよ。責任感が強くて、自分を追いつめるのが得意で、自分の感情を出すのが苦手な難儀な人だけれど……彼女は、もう一人じゃない)
季太朗が心中でそう呟いた時、二つの白い影の口元が、安心したように僅かに上がったような気がして――――
一陣の優しい風が吹いた後には、もう何もいなかった。
再び喧騒が季太郎の耳に到来する。
遠くの空を見やれば、太陽が顔を出し始め、闇に覆われていた空が曙色に染まっていくのが見えた。
全てが終わったことを改めて理解した季太朗は、穏やかな表情で、束の間の微睡へと落ちていった。