第一話 始まりの夜
────白い壁、白い天井、白い床、見渡す限りの白、白、白。
こんな光景を、何処かで見たことがある。─────病室だろうか。
そう、緋村季太朗は思った。
とはいっても、見渡すことができたのは、彼の眼球が現在かろうじて捉えられる世界の一部だけだったが。
「どこだってんだよ、ここは……」
その一言と共に、季太朗はぼやけた思考を何とか持ち直そうとした。
彼の中でいくつもの思考が浮かんでは、泡のように消えていった。
そしてその結果、ここは何処かの隔離された空間であり、自分は寝かされていた、ということまでは把握した。自分が、何らかの理由で倒れたことも。
しかし未だに彼にとって理解できないことが多く存在した。
ここは一体何処なのか。何故自分は倒れたのか。どうしてここにいるのか。
そして、
「――――あなた、だれ…………?」
この目の前をふわふわと漂う、蒼く光る少女は、何なのか。
「なんだ、コイツ……」
混乱からか、両者とも似たようなことを言葉にしてしまう。
季太朗は何とかして目の前で絶賛発生中の怪奇現象を理解しようとしたが、その時間は与えられなかった。季太朗の目の前にあった扉が突然開いたからだ。
開いた扉の奥から人影が差し込み、筋肉隆々のバンダナをまいた外人らしき中年と、付き添うようにして一人の若い、髪を後ろ手に結んだ女性が、姿を現した。
「おーう、目ぇ覚めたみてえだな」
「…………」
女性の方は黙ったままであるが、男の方は季太朗をみるなりきさくに言葉を交わそうとした。
すると周囲を浮遊していた女児は、季太朗の背に素早く隠れてしまった。
その一連の行動が、さらに季太朗の思考を惑わせる。
とにかく、一度起き上がって何か知っているであろうこの男女に話を聞かなければならない。
季太朗はそう考えて、何とか体をベッドから起こし、前を見据え、言葉を発した。
「此処は、何処ですか?」
「……驚いたな、もう話せるのか」
「もう一度お聞きします。此処は、何処ですか」
「がめついねえ……」
がめついだろうが何と言われようが構わない。とにかく、季太朗は一刻も早く情報が知りたかった。
この、自身の背後に隠れている何かのことも含めて。
「その調子だと、自分が倒れて此処に運ばれてきたってのは理解できてるみてえだな。
と、いうことは、ここが何処なのか、ということは勿論、どうして自分が倒れたのか。そして俺たちはいったい誰なのか。そして――――」
そこまで喋った後、男はゆっくり、季太朗の背後の、小さくうずくまり、肩を震わせている『ナニか』に指を突きつけた。
「そいつが何なのか知りたい……ってとこだろう?」
男は、季太朗が今最も知りたいことを見事に言い当てていた。
季太朗は答えを促すように、軽く頷き、その男の眼を真っ向から直視した。
季太朗は期待していた。自分が納得できる答えが得られることを。この訳の分からない存在に何か、理知的で根拠のある説明がもたらされることを。
しかしこの男が放った言葉は、とてもではないが納得できるものではなく、理不尽極まりなく――――季太朗という男が受け止めることができない現実であった。
「そこまで知りたいのなら教えてやる。ここは、バチカン聖光王教会直属極東退魔支部、その医療室。俺たちはその構成員。
そして、お前の背後にいる奴は、運悪くお前が『拾っちまった』幽霊サン。お前が倒れた原因ってなあ訳だ。
そして、一番重要なことは――――お前さん、このままじゃ死ぬぜ」
●
細く開いたカーテンの隙間から、弱弱しい一筋の明かりが差し込んでいた。
お前は死ぬ。何の前触れもなく、見知らぬ男から唐突に突きつけられたその言葉は、一つの現実として鋭くとがった刃のように、季太朗の胸を抉って離さなかった。
あの後、季太朗は自分がどういう行動をとったのか、明確には覚えていない。
気付けば、知らぬ間に自宅であるアパートに帰還して、床についていた。
現実を全て肯定してきた季太朗にとっても、夢と思いたいような出来事だったが、どうやらそれは許されなかったらしい。
あの日着ていたコートのポケットに入っていた、
『助かりたいのなら、今日の夜、この場所に来るといい。
指定時刻は夜中の零時丁度。大通り沿いにある教会まで来なさい。
準備をして待っているからよ。
レミーより』
という趣旨の手紙と、体に相も変わらず激痛が走り続けていること。
そして、
「お前、ふよふよふよふよ飛ぶのもいい加減にしろ。ここは俺の部屋だぞ」
「……ごめん」
そう言いながらも、全く懲りる様子もなく未だ部屋の中を浮遊しているこの謎の少女が、数時間前季太朗の身に起こったことが紛れもない事実だということを明確に示していた。
手紙の続きの内容を季太朗が呼んだところ、この少女は紛うことなき幽霊というやつで、季太朗に憑りついてしまったらしい。倒れてしまったのはその時のショック反応だという。
季太朗は、何度も言うが現実と虚構の区別がはっきりついた人間で、幽霊という存在は彼の中で間違いなく虚構の方に属する存在だった。しかし彼の中で有り得ない存在であるこの眼前で浮遊するこの少女を、真っ向から否定する気にはなれなかった。
理由を挙げるならば、今まで非現実的なことが起こりすぎて頭がマヒしていたこと、自分が死ぬといわれナーバスになっていたことも一因だが、季太朗にとっては自分が死ぬということの方が目の前の幽霊のことが霞むほど遥かに否定したいことだったからだ。
つまるところ、季太朗はどうあがいてもあの男の呼び出しに応じなければならない状況だ。
幸いまだ男が指定した時刻まで時間はあったので、その時まで少しでも心を落ち着けようと、季太朗は難しい顔をして横になるのだった。
●
大通りは、季太朗宅からさほど離れていない所にある。
そこの教会といえばそれなりに規模が大きいことで有名で、季太朗宅の窓からでも見えるほどであった。
現在時刻は午後二十三時五十分。
普段、この通りは交通量もそれなりにあり人の行き交いも多いのだが、今日はやけに静かだった。
教会の昼は神々しく輝く白壁も夜の闇に塗りつぶされ、不気味さを醸し出していた。
「まだ、あと十分はあるな。……ッ!」
時間を確認すると同時に、季太朗の体に鋭い痛みが走った。この痛みは、季太朗が今ここに来るまでも、時間を重ねるごとに重くなっていた。
できればもうあと十分も待ちたくない。
内心彼はそう思ったが、それでも虚しいことに時計の秒針は僅かずつしか進まない。
「……おっきい」
「なんだ、教会を知らないのか?」
感嘆を含んだ無垢な声が季太朗の耳に届いた。
何故か勝手についてきた少女の呟きに、わざわざ返答する義務もないのだが、喋って少しでも痛みがごまかせればそれでいいと季太朗は思って、そっけない返事を返した。
「なんだかなつかしいかんじがする……。けど、よくわからない」
「わからないってお前な……」
「わたしはおまえっていうなまえじゃない。わたしのなまえは……なまえ、は……」
どうやら、彼女は自分の名前を思い出すのにかなり時間がかかるらしい。場に長い沈黙が流れる。
自分の名前ぐらいぱっと出てくるものだろうにと、内心呆れて季太朗は、少女に聞こえない程度の声でそう呟いた。
「……わからない」
「はあ? わからないだあ?」
この答えに、ますます季太朗は呆れた。
その理由を問いただしてやろうかと季太朗が考えたその時、厳かに教会の扉が開いた。
時計を視認すると、よほど少女が、自身の名前を思い出そうとしていた時間が長かったのか、いつのまにか十分が経過して約束の時間である零時になっていた。
扉からあの筋肉隆々の男が姿を現すのかと季太朗は思ったが、その予測は外れることになった。
扉の奥で立っていたのは、あの男の後ろにたっていた若い女性だ。
その姿を見た途端、幽霊の少女は以前のように季太朗の背に隠れてしまった。
「……お待ちしておりました。こちらへお入りください」
そういうと、その女性は教会の扉を更に大きく開け、季太朗に中へ入るように促す。
その奥には、暗い、暗い廊下が、季太朗を誘うように続いていた。
主人公が非日常的なことに巻き込まれる話って、書くの難しいです