第十話 テケテケ
イメージイメージ。そう、大切なのはイメージだ。
銃を握る右手に、体全体の血流を集中させる感覚。
よーしいいぞ、深呼吸深呼吸。
「ふっ! ……また失敗か、クソ」
パラパラと破片を落としながら、無残にも大穴を開けられた標的板は空中で力無く揺れた。
望んだ結果が出なかったことに対して思わず季太朗は悪態を吐いた。
「おーう、うまくいってないみたいだな」
「隊長……。ええ、中々感覚が掴めません。絶賛大苦戦中ですよ」
「まー、焦ってもうまくいくもんじゃねえさ。気長にやんな」
そんな季太朗の心境を察したのか、背後でいつの間にか見守っていた極東支部隊長であるレミーも、季太朗へ励ましの言葉をかけた。
今、季太朗は神無月を使った射撃訓練の最中だった。しかし、それは今まで彼がおこなってきたような訓練とは些か様相が異なっていた。
「”あの時”は、特に意識しないでもできたんですが……」
季太朗の言うあの時とは、先日、彼が犬の害霊と戦った時の事。
あの満身創痍の窮地において、最後に害霊を葬り去った弾丸。白色矮星のようなその一撃は、通常の弾丸とは比べる事もおこがましい程の途轍もない破壊力を有していた。
そこで、季太朗は考えた。
『あの時の一撃を意図的に再現できるようになれば、今後の戦闘における強力な切り札になり得るのではないか』、と。
かくして季太朗は傷が癒えてから早速あの弾丸を再現する為の訓練を開始したが、どうもうまくいかず、停滞した状況になっていたのだった。
「感覚としては、途轍もない力が体中の全神経から銃身に流れ込んでくる感じでした。あの時の俺には、そんな芸当が出来る力は殆ど残されていなかったのに……」
「概念的には、『圧縮弾』と言えるかもしれん。
あるんだよ、そういう、ギリギリの状況で肉体が理屈どうこう吹っ飛ばして予想もつかない働きをするってぇのは。
ただ、そういうものは大抵肉体が意識的なコントロールを外れて無意識に、そして反射的に行われるものだ。それを意識してやるってなると、かなり難しいだろうな」
レミーの言葉を聞き、季太朗の眉間には一層深い皺が刻まれた。
感覚は間違っていない筈なのに、何が足らないのかと。
そんな風に季太朗が頭を絞って思考を巡らしているさなか……レミーは笑っていた。
それはもう、とてもいい表情で。
「……なんです? そこまでニヤニヤされると気が散るんですが」
当然、煮詰まっている季太朗にとっては面白くはない。
だが、当のレミーは全く気にした様子もなく、口元をニヤつかせたまま言葉を紡いでいった。
「へっへー、おじさんわかったもんね。お前に何が足りないかってのが。
今のお前に足りないものは……ズバリ危機感だ!!」
「危機感?」
「そう、危機感。
あの弾丸は絶体絶命の窮地において撃てた訳だろ? てことはだ、似たような状況に自分を追い込めば、また撃てるようになるかもしれないってことだ。
習うより慣れろとも言うし丁度いい……お前には、この任務に参加してもらう!!」
●
ある寒い土地の、寒い冬の話だ。
一人の若い女性がいた。彼女は、長い仕事を終わらせて我が家へと帰る途中だった。
「う~、寒いなあ……」
雪が降っていたこともあって、彼女が着けていた耳当てにすら雪が積もっていた。
その日は、あまりにも寒かった。それこそ、彼女の判断力を鈍らせてしまう程に。
「……少しだけなら、いいよね?」
そう言った女性の目の前には、踏切があった。それは赤のランプが交互に忙しなく点滅し、もうじき電車が来ることを報せていた。
だがその時、電車はいつまで経っても来なかった。
よくあることだった。時間合わせや乗客の乗り降りなどでダイヤがずれ込み、踏切が鳴っているのに電車がやってこないなどということは。
「うん、大丈夫大丈夫。すぐに通り抜ければ何も無いわよ。えいっ」
彼女は、踏切をくぐった。くぐってしまった。
――――次の瞬間、金属の擦れ合うけたたましい音と、何かが潰れた鈍い音が空間に轟いた。
真に接近を報せる車輪の音は耳当てに掻き消され、少しでも早く家に帰りたいという焦燥から、この哀れな女性は、車両の接近に気付くことができなかった。
「……かッ――――ヒュウ……! ――ゴフッ!」
だが、彼女は生きていた。
電車によって、上半身と下半身を切断された状態で状態で。
即死と言っても過言ではない重症。しかし彼女は死ねなかった。
原因は、寒さ。
その寒さが、彼女の切断面からはみ出した血管を一瞬の内に凍らせ、止血してしまった。
故に彼女は、意識を失うことも許されなかった。
(うそ……わた、じ、……クるじい、クる、じいよ……!)
彼女はもがく。人に耐えきれぬ程の余りにもの苦痛が故に。
はっきりとした意識など、既に無い。
あるのは歪んで朦朧とした視界と、延々と自らを蝕む激痛。
「――! ――ッ!? ――――……」
血で紅く歪んだ彼女の視界に、人影が映った。
状況を確認しに来た駅員だった。
「たズ……けて……! だずケて、よゔ……! おねがイだガらぁ!」
もう声など殆ど発することのできない喉を必死に動かして、彼女は助けを乞うた。
だが、その願いは聞き届けられなかった。
次に彼女の視界に映ったのは、青い布。
それは彼女はもう助からないという駅員の判断でかけられたブルーシートだった。
彼女の視界が、青に覆い尽くされた。
まだ自分は生きているのに、死んでいないのに、それをかけないで。
彼女は僅かに動く腕で抵抗したが、意味はなかった。
「ヤめ゛で!! たずけデ!! じにたくナイ゛!! じにダぐ、な゛――――」
……彼女が最期に見た光景は、自分を見捨てた、青一色の世界だった。
●
「そーして彼女は、自分を見捨てた人間を恨んで『テケテケ』となってしまったんだよ~」
「……あ……そうすか」
「へえ、……そう、なの」
「あるぇ?! 反応うすいね! おじさん声色とか頑張ったのに! ステラちゃんとかもう少し怖がってくれてもいいじゃないの!」
「いや……だって……」
「ああ……そうだな」
『『―――――車が速過ぎるんだよオオおぉぉおッツ!!!!』』
……ある種の絶望すら感じさせる季太朗とステラの絶叫が、極東支部所有のジープの車中に轟いた。
そして何故彼らは車に乗っているのかというと、現在、次の任務の目的地への移動中だからに他ならない。
レミーが提示した次の任務。それは、テケテケの殲滅であった。
都市伝説テケテケ。上半身しかない女の怪異。
現在とある場所で大量発生しているそれの駆除に向かう為の移動中なのである。いつもと違い車を使っているのは、現場が都心にある極東支部オフィスからかなり離れた山奥にあるからだ。
その間暇だろうということでタカハラが怪談風にテケテケの詳細について解説を始めたのだが、二人にはそんなことを気にしている余裕はなかった。
何故なら、この車を運転しているのが車を運転させれば暴走機関車のごとく速度を出すレミーであるからに他ならない!
「あらあら。酔い止めの錠剤あるけど、飲む?」
「く、ください」
戦ってすらいないのに車酔いで満身創痍となっていた季太朗を見て、アンジュが同情から酔い止めを差し出した。
ほぼほぼ奪い取るような勢いでそれを受け取ると、季太朗はそれを一瞬の内に飲み干した。
「大丈夫ですか? 季太朗さん、ステラ、こういう時は、外を見てると幾分気が楽になりますよ」
「あ、ありがとうございます鬼口さん」
同じく隣に搭乗していた鬼口からの助言に従い、季太朗は首を容赦無くかかる重力に負けないように、全力で窓ガラスの方に傾けた。
現在この車には、極東支部のメンバーが全員が搭乗していた。
一見過剰戦力にも思えるが、それ程今回の標的の数が多いという事の証左でもある。
「……しかし皆さん凄いですね。何もしなくても、この運転に耐えられるとは」
ゲッソリとした表情でもって季太朗は、自分の周りの人物が誰一人としてレミーの運転でダメージを負っていないことに驚愕した。
「まあ、ウン十年の付き合いともなればねえ……。嫌でも慣れるわよ、嫌でも」
「ははは、最初の頃はひどかったけどね。積んでいた機材が衝撃で壊れたり、俺達が盛大に吐いたり、……うん、ひどかった」
そう語る二人の目からはどんどん光が消失していき、とうとう虚空に視線を向け始めた。きっと、過去レミーの運転によって引き起こされた、様々な悲惨な光景をありありと思い出してしまったのだろう。
「鬼口さんは大丈夫なんですか?」
「私は精神統一で、なんとか」
「そうですか……」
口ではそう言った鬼口であったが、固く引き締められた口に若干額に浮いた汗の玉と、かなり余裕がなさそうな表情をしていた。
己より遥かに強い鬼口がこの表情。
レミーの運転の凶器っぷりに季太朗は改めて戦慄した。
「おいおい、気合入ってねえな。そんなんじゃつく前から結果が見えちまうぞ? 特に季太朗に関しては特訓も兼ねてるんだからな」
「……そうですね」
元凶であるレミーのその言葉に、季太朗は今回の任務の本来の目的を思い出した。
圧縮弾の再現。
初めてあの技を撃てた時のような窮地を再現することで、再び撃てるようにすることが季太朗にとっての今回の任務の主目的だ。
要は、訓練でダメなら成功させるしかない実戦でコツを掴め! ということである。
かなり危険なスパルタ習得法だが、実際そういう風にして出来るようになることは多い。
これは季太朗も納得の上での作戦であった。
「しかし、都市伝説……ですか。
害霊とは違うものなんですか?」
だが、今回相対する敵は都市伝説という、害霊としか戦ったことのない季太朗にとって未知の存在。
故に、目的地へ到着する前に知るべき情報は得ておきたいということで、質問タイムである。
そこですかさず、もはや最近説明係と成り果てているタカハラが反応した。
「ん~そうだね。
まず、害霊が死んだ者の思念でできるのに対して、都市伝説は人の噂話や拡散した情報で形作られるんだ。だから、数や、バリエーション、行動は害霊とは比べ物にならないくらい多彩だし、危険度も個体によって大きく異なる。
何の害もないやつもいれば、害霊以上の残虐さを持った奴もいる。厄介さなら、害霊の上を行くね」
害霊以上に厄介。
その言葉を聞き、季太朗の顔は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「そして改めて説明するけど、今回の相手はテケテケだ。
上半身だけの女の姿をしていて、腕だけで移動する。
元々は、さっき話したような、電車事故で真っ二つになってしまった女性の噂話だ。そこからテケテケは生まれた。
性格は基本凶暴、人も殺す。そしてコイツと戦う時に最も厄介なのがその速さだ。その移動速度は一説では時速百五十キロに及ぶとも言われている」
「百五十キロ……?! 下手な電車より速いじゃないですか!?」
タカハラの口からなんて事のないように語られたその数値に、季太朗は驚愕した。間違いなく、今まで戦ってきたどの害霊よりも速い。
季太朗自身、地道な射撃訓練によって初期より遥かに狙いは付くようになってきたものの、そこまで速いとまともに弾が当たるかすら怪しい。
「ああ、あくまで一説で、だけどね。ただそれでも、今まで季太朗君が戦ってきた連中より速いのは確実だ。
だから、作戦としては……おっと。
どうやら、目的地に到着したみたいだよ」
その言葉を聞き終わるや否や、急ブレーキがかけられた事によって季太朗の体はシートベルトを引きちぎりそうな程の慣性をまともに受け、踏ん張る事が出来なかった季太朗はその額を一列前の座席シートに無慈悲なまでの速度で叩きつける事となった。刹那、ぐえっとカエルの潰れたような野太い悲鳴があがった。
タカハラからの説明に集中して耳を傾けていたので、目的地が目前に迫っていた事に季太朗は気付けていなかったのだ。
よろよろと覚束ない足元で車から降り、赤くなった額をさすりながらも季太朗は辺りを見渡した。
そこにあったのは、長年使われていたのであろう、所々が汚れて黒ずんだ建造物だった。
そして季太朗は、その建物の形に、見覚えがあった。
自身がまだ幼い頃、毎日欠かすことなく、幾日も訪れていた場所にそっくりのそれは
「――――……廃校、か」
●
「うーし。ベースの設置も終わったし、作戦会議はじめっぞー!」
パンパン! と二回手を叩いて、レミーがメンバーに集合を呼び掛けた。
それを合図にして、各々行動していた五人のメンバーが、一斉にゾロゾロと集まってきた。
まず、一行が最初に行ったのは、戦闘によって負傷した際の治療場所、機材を使っての支援等を行う本拠地の設置だった。
と言っても大掛かりなものではなく、組み立てテント式のこぢんまりとしたものだ。故にほぼ吹きさらしである。極東支部本部の役割を必要最低限な分だけ縮小して移植した形だ。
勿論、ブリーフィングの場所も兼ねており、これから作戦会議が行われようとしていた。
「全員集まったな。んじゃタカハラ、後は任せる」
「始まっていきなり全部丸投げですかアンタ!?」
「だってよ、そういう事はお前が一番得意じゃねえかよ。な?」
「……はあ、ホントいい性格してますね。わーりましたよ。
知っての通り、今回の相手は都市伝説、テケテケ。注意するのはその素早さと、見つけにくさだ。いかんせん素早くて小型だから、注視していないと中々見つからない。また、それを利用して奇襲もかけてくるから、戦闘する人は全方位に警戒を。
――――問題としては、今それが『大量発生』しているということ。
戦う場所もまた問題だ。何年も前に『廃校となった校舎』。つまり、狭いし動きにくいし、暗い。
下手したら包囲されていた、なんて状況も十分にあり得る。幸い、耐久力は低いので短期戦闘で確実に倒していけば最悪の状況は回避できるはずだよ。
肝心の突撃メンバーだけど、今回はレミー隊長と季太朗くんに入って貰う」
「? 隊長と、ですか?」
思わず、季太朗の頭には?マークが浮かんだ。
鬼口となら何度か組んで戦ったことがあったが、レミーとは今迄組んだことが一度もなかったからだ。
急に組まされたのは、文字通り予想外であった。
「てっきりまた鬼口さんと組まされるものかと」
「ああ、それも考えたんだがな。お前ら何度か組んだことあるからそれなりに連携できるだろうし。
ただ、鬼口の武器が問題なのよ」
「鬼口さんの武器? ……ああ」
季太朗は鬼口の使用する武器を脳裏に思い浮かべ、そして得心がいったように声を漏らした。
薙刀。
このあまり広くはないであろう場所で振り回すには、使い勝手が悪いであろうということは容易に想像がついた。
「つー訳で、俺が入ることになったのさ。幸い、俺の武器は超近接型だからな。
鬼口には万が一何かが起こった時に備えて、本拠地で待機してもらう」
「わかりました。
申し訳ありません季太朗さん。今回はサポートに徹します」
「ええ、お願いします」
タカハラとアンジュはお互いの役目故持ち場を離れる訳にはいかない為除外。
となれば消去法で季太朗と共に組めるのは、レミーしかいなくなったという訳だ。
「あと、中では単独で動いてもらう」
「はい? 単独で?」
だがレミーが言ったその言葉に思わず、季太朗の目が剣呑に細められた。
「ああ、入ったらすぐ二手に分かれて捜索する。オーソドックスな学校っていう建物の構造的に、入り口がど真ん中にあるからそっちの方が効率がいい」
「ですが――――」
口を開きかけた季太朗を、レミーが手で制した。
「言いたいことは分かる。一人で行動するのは危険だって言いたいんだろう? ただな、俺がお前とべったりだと特訓にはならないと思うんだ。
確認するが、あくまでも今回の目的は季太朗自身を危機的状況に放り込むことだ。だったら極力、俺がサポートとして入るのは避けた方がいいと思ったのさ。なに、何かあったら至急鬼口を向かわせるさ」
「む……確かに、そうですね」
確かに、今回の目的を考えれば、敢えて季太朗が単独で行動するのは望ましいと言えた。レミーに同行して行動すれば、安全は確保されるだろうがそれでは本末転倒だ。
ならばこれ以上、このことでグダグダ言っても仕方がないと季太朗は気持ちを切り替え、自分の役割を改めて頭に焼き付けた。
その季太朗の覚悟の決まった顔を見てレミーは納得したように笑い、一拍おいて一際気合いを入れた号令を発した。
その声で、全員の表情が引き締められる。
さあ、仕事の時間がやってきた。
「よし、これでもう各々連絡することはねえな。
それでは作戦を開始するッ! いくぞッ!!」
●
「……しかし、いくつになっても夜の学校ってのは好きにはなれねえな」
季太朗は、ところどころ染みがあり黒ずんだ木の床をしっかりと踏みしめながら、夜の学校を歩いていた。
廃校になって相当の時が流れている事を、季太朗が床を踏むたびに鳴る木の軋みが証明していた。
「きたろう……なんかここ、こわい」
「ああ奇遇だな、俺もだ」
季太朗の腕にピッタリと貼りついたステラがそう言った。
その言葉に季太朗は、彼にしては珍しく迷うことなく同調した。
本当に、夜の学校というものは得体のしれない不安感を煽るものだ。
普段は日の光が当たる時間に使われることが圧倒的に多いこともあり、夜になって闇に覆われると、説明しようのない違和感を放つようになる。
長く細い廊下は、奥の方に何かが潜んでいるかのような雰囲気を醸し出すようになり、曲がり角にもそれは顕著に表れる。
余りにも静寂に包まれたその光景は、生徒や何やらの声で騒がしい学校という場所のイメージを容易く覆す。
何故こんなところに都市伝説が大量発生したのか、と季太朗は心中で愚痴をこぼした。
「だがこうしてみると、俺が初めて夜の学校を体験したのはいつだったかな。
馬鹿やって学校に悪友と忍び込んだ時か、親に怒られて忘れ物を取りに来た時か」
そんな状況の中、季太朗は自分の幼かった時代を回想していた。
出された宿題を机の中に置き去りにしてきたことに気付いて、または悪友たちと共謀して、あの手この手で警備を突破して夜中に学校に忍び込んだ淡い思い出。
この恐ろしくもどこか懐かしさを覚える光景は、その記憶を季太朗に鮮明に思い出させた。
「……ねえきたろう。がっこうって、どんなところ?」
「ん? ああ。お前、学校に行ってなかったのか?」
ステラの短い首が、小さく縦に振られた。
それがわかるということは、この状況で突然、また少し記憶が戻ったのだろう。
季太朗は別段驚かなかった。これまでもそういった、突然ステラの記憶が僅かに蘇るということはあったからだ。
季太朗はその問いに答える為に、自分の過去の記憶を一つ一つ掘り返していった。
学校とはどんなところか?
この場所の持つ独特な雰囲気が、それを知らないステラにそんな問いを吐露させたのかもしれなかった。
「そうだな……。友達としゃべくったり、馬鹿やって先生達に怒鳴られたり、やりたくもねえ宿題やったり、文化祭で羽目外したり、テストで死にかけたり……。
いいことばかりあった訳じゃないし、騒がしくもあったが、まあ……楽しい場所だった」
思い返せば、両親と妹を一度に失って、自暴自棄になっていたあの頃の自分を一番近くで慰め、叱り、支えてくれたのも学び舎の友人達だったと、季太朗は過去に思いを馳せた。
「わたしは、そういうの、しらないな……」
ステラがぽつりと、消え入りそうなか細い声で、そう呟いた。
誰しも多くの者が経験しているべきことを自分は知らないということにステラが思う所があるのであろうことは、季太朗も容易に察しがついた。
だから、季太朗は一つ質問を返すことにした。
「……今は、どうだ?」
「え?」
「今、俺といるこの時間ってのは、どう思ってるって言ってるんだ」
ステラは、突然の季太朗の問いにきょとんとした表情を見せた。
そして数秒の沈黙の後
「……たのしい、よ?」
彼女は、はにかみながらそう答えた。
「なら、いいじゃないか。
今が楽しいって思うんだったら、昔のことでうだうだしてるより、今を精一杯生きればいい。
別に学校を知らなくたって、友達がいなくたって、それでいいと、俺は思う。
それに……俺だってその代わりくらいには、なれるだろうからな」
「きたろう……」
季太朗の口から、思わずそんな言葉がこぼれた。
季太朗からしてみればその言葉は、別に格好つけようとしたわけでも、ステラを哀れに思っての発言でもなく、ただ自分の考えを、率直に伝えただけだった。
だがその言葉は、一人の幽霊の大きな支えとなった。
そしてそこから、二人の他愛もない会話が――――
続かなかった。
「うん、ありがとう。きたろう」
《……テケ》
「気にすんな。隣で沈み込まれるのは、嫌だからな」
《……テケ、テケ》
「……すなおじゃない」
《……テケテケ》
「捻くれてて悪かったな。こういう性格なんだ。
……ところでステラ」
「なに?」
「なんか、変な音しねえか?」
《……テケテケ》
「……うん、する。
なんかこう、《テケテケ》って……。あ」
自分で言ったその言葉に、ステラの顔が凍り付いた。
季太朗の表情も一瞬のうちに緊張の色に塗り潰され、つう、と一筋の汗を垂らした。
「……ステラ、後ろを振り向くぞ。いいな」
「わ、わかった」
季太朗達が意を決して後ろを振り向くと、そこには
いた。
下半身がなく、両腕で地面を這う女の姿が。
そいつは季太朗の僅か数メートル後方にまで迫っていた。
そして、その虚無に満ちた目からの視線が、季太朗の視線と交錯する。
都市伝説テケテケ。
その瞬間、無表情と言って差支えなかったソレの顔が、見る見るうちに感情を帯びていった。
口は吊り上がり、醜く裂け、目は大きく見開き、その眼球はドロドロとした何かで染め上げられていた。
そこにあった感情は、狂喜。
獲物を見つけたことに対する、歓喜であった。
そして幾秒と経たないうちに、
「キシャアアアアアアァァァッ!!」
「ッ――!?」
季太朗めがけてそれは跳躍した。
反射的に床を蹴って後ろに一歩飛びずさり、季太朗はその攻撃を躱しす。
「シャアアアァァ!!」
「まだかッ!」
しかし間髪入れず、テケテケは再び季太朗に飛び掛かった。
今度は横に大きく体を捻って回避。
連続攻撃を使用する敵と過去に一戦交えていた事が功を奏して、今の二撃を躱すことは季太朗にとって難しいことではなかった。
そして、やられっぱなしという訳には勿論いかない。
季太朗は神無月の銃口を標的に定めた。
「あたってくれよ……!」
トリガーが引かれ、蒼い光を纏った弾丸が一直線に相手に向かっていく。
「ガぎゃッ!?」
放たれた無数の蒼い軌跡は、次々と相手の体に減り込んでいった。
思わずテケテケは距離を取った。
「よし、いいぞ。このまま
――――あ?」
季太朗は追撃をかけようとして、ぴたりと静止した。
この絶好の追撃の機会で、何故彼はそんな行動をとったのか。
それは、目の前のテケテケが、笑っていたからだ。
しかもそれは先程までの狂喜に満ちた笑みではなかった。
季太朗が散々目にしてきた、愚か者を嘲笑うような、そういった嘲笑い。
だから季太朗は警戒した。
弾は深く減り込み、血は流れ、決して軽くはない手傷を負ったこの状況で、何故こいつはこんな表情を見せられるのか、と。
実は既に季太朗は、答えを知っていた。良く考えればその結論に辿り着くことは容易であった。
だが、不意打ちにも等しい連撃を躱し、初撃が上手く決まったことによって心に芽生えた僅かな安堵が、季太朗の思考に靄をかけ、答えに行きつくのを阻害した。
「きたろうっ! うしろぉッ!!」
「ッあ!?」
そう、もう一匹いたのだ。
ステラの声に季太朗が反応し、後ろを振り向いたときには、既に二体目のテケテケが、その鋭い血で汚れた爪を季太朗に突き刺さんと肉迫していた。
その姿を視界に捉えた瞬間、季太朗は攻撃を躱さんと後ろへと跳んだ。
が、間に合わない。
「ぅぐッ!」
「きたろうっ!」
「チッ! 心配すんな掠り傷だ!」
季太朗に向けて放たれたテケテケのその爪は、彼の顔の皮膚を軽く抉った結果に終わった。
ツー、と季太朗の顔を新鮮な血が伝った。それを季太朗は乱暴に拭い去り、銃を構えて体勢を立て直す。
「キシャアッ!!」
だが時間をかけず、その僅かな停滞を好機とみて、今度は一番最初に遭遇したテケテケが自らの血を撒き散らしながらも季太朗へと襲い掛かった。
息を整える暇など無いに等しい。
その鬱陶しいまでのしつこさが、季太朗の堪忍袋の尾に触れた。
「ちっ! いい加減に、しやがれえッ!!」
発砲音が、校舎の壁を揺らす。パラパラと粉塵が落下する。
季太朗は自分の顔面を狙った爪を首を捻って寸前で回避し、飛び掛かってきたテケテケが宙に浮いている僅かな間に、神無月の銃口を腹に突きつけ、零距離で発砲した。
控えめに考えても無事ではすまないダメージを与えられるえげつない戦法だ。
ここまで素早く、かつ的確な攻撃を季太朗ができるようになったのは鬼口との稽古によるものが大きかった。
「や、やった!?」
「……ああ。どうやら、倒せたみたいだぜ」
結果テケテケは、上半身に綺麗な円状の大穴をぶち開けられ、ピクリとも動かなくなった。
正直、季太朗としてはこの結果は意外であった。今まで戦ってきたどの害霊も、この程度ではまだ死にはしなかったからだ。
今テケテケ一体を倒すのに放った弾丸は、零距離だったとは言えたったの数発。十にも満たない。
耐久力は低いと事前にタカハラから知らされていたとはいえ、季太朗はまさかここまでとは思っていなかった。
そして季太朗は確信した。
拍子抜けはしたが、ここまで脆いのは非常に好都合。
この程度なら何とかなる筈だと。
そして背後にまだいるであろう二体目のテケテケに照準を合わせようと振り向いて――――絶句した。
「っ?! うそ……!」
「オイオイオイオイ、まさか『ここまで』だと……!」
瞳に映った光景は、床を、壁を、天井を埋め尽くすテケテケの大群。
いつの間にか大量のテケテケが、戦闘の音を嗅ぎ付けて密集していた。
びっちりと密着しひしめきあう、上半身だけの女。生理的嫌悪感が否応なしに湧き上がってくる。
しかも、それら全てが例外なしに裂けた笑みでケタケタと笑っているのだ。
その笑みは、目の前の獲物に対する嘲りと蔑みの感情を隠そうともしていなかった。
事実、季太朗とステラは何もできなかった。
どうやって目の前のこの状況を打開すればいいのか、何も咄嗟に思いつかなかったからだ。
共に潜入しているレミーの助けは期待できない。
彼は季太朗とは真逆の方向に探索を進めている。都合よく合流できる筈がない。
まさに八方塞がり。
季太朗は一呼吸おいて、叫んだ。
「ステラ……逃げるぞぉッッ!!」
ズバリ、逃亡である。
●
「ふー、しっかし陰気な所だな全く」
『まあ、夜の学校はしゃーないですよ』
一つの長い溜息と共に、季太朗と別れて探索を続けていた極東支部隊長レミーはそう言葉を漏らした。
周囲に生ける者が誰も居ないこの空間で彼の声を聞き届ける者は、無線機で通じているタカハラのみである。
「季太朗君は大丈夫かね。この分だと、こっちが想定していたより多いんじゃないのか?」
『そうですね……――――!
隊長、季太朗君から連絡が入りました! テケテケの集団と遭遇したとのこと』
「そうか。何体位だ?」
『ざっと見て五十はいたって言ってます』
「ああ、なら――――『少ねえ』な」
そう、レミーが呟いたその瞬間、一匹のテケテケが死角となっていた物影から凄まじい速度で飛び出し、レミーへと肉迫した。勿論のこと、命をいとも簡単に奪い去る爪を光らせて。
常人であれば、碌に反応などできない内に首を刈り取られ、絶命してしまうであろう速さ。
が、そんなことは有り得なかった。
何故ならここにいる男は、名実ともに極東支部最強の名を持つ男なのだから。
「やれやれ、またか」
彼はそう言って、いかにも気を抜いていますといった顔で拳を振るった。
そのやる気のない一撃は迫っていたテケテケの顔面を抉り、否――――消し飛ばした。
「これで何体目だ? タカハラ」
『あー、数えるのめんどくさくなって途中から真面目に数えてませんが……おそらく、九十八体目かと。
良かったですね隊長。もう少しで百いきますよ』
「……ゲームをやってるわけじゃねえんだよ」
さも、なんてことのないような声色でそんな会話を交わす二人。
季太朗が先程遭遇した約二倍に等しい数のテケテケ。
既にこの僅かな時間で、それら全てをレミーは倒しているのだ。しかも、素手で。
故に、彼が通ってきた道は例外なく、テケテケの血と残骸で染まっていた。
『季太朗君についてはどうします? 鬼口さんにもすでに伝えてありますが』
「まだ圧縮弾は撃ててないんだろ?
それに、アイツは対集団戦闘をやったことがない。これから避けて通れない課題だ。今のうちに慣れてもらった方がいい」
『……ねえ隊長。今回の目的、それだけじゃないですよね?』
「!」
タカハラの言葉にレミーの顔が軽く強張る。
「……いつから気付いてた?」
『最初から、です。アンジュさんも知ってますよ』
「ちっ。バレバレかよ」
『あんたに隠し事は似合いませんよ。
でどうでした? 実際に戦ってみて』
そして、レミーは一呼吸おいて、
「ああ……――――間違いなく、凶暴化してるな」
忌々しいといった顔で、そう口にした。
「それだけじゃない。この数も異常だ。
普通の霊や弱い害霊ならまだしも、都市伝説クラスの奴らはここまで群れたりしない。まさかと思ったがここまで早く影響が出るとは……」
『ステラちゃん――――いや、ステラ・アスモデウス・ブリュンヒルデ……生楔の影響ですか』
レミーは無言で静かに頷く。
「生楔は代々聖光王教会の管理下において、その強力な霊力を利用され、全世界の霊の力を抑え込まされる役職の呼称だ。
ステラは――――今代の生楔本人であり、何故かそれが記憶を失い、魂だけになってしまった存在。だから、本人も自分がそれであることに気付いてない。
そして生楔の真の価値は、その莫大な霊力を保有する魂にこそある。
その魂が聖光王教会ではなくここにあるということは……今、全世界の霊のリミッターが外れかかってるということだからな」
「でも貴方のことだ。上に報告は、しないんでしょう?」
その言葉に、レミーの声が一瞬途絶える。
そして、次に彼の口から紡がれた言葉には、計り知れない力強さがあった。
「当たり前だ。――――あんなことを、人間として許してたまるか…………!」
そう言ったレミーの右手は、固く、固く握りしめられていた。
骨の軋む音が聞こえそうな程、強く。
●
「よし、これで向こうに連絡は行ったな」
本部への連絡を完了し、季太朗は耳に付けられた無線機から指を離した。
あの大群から無事逃げ切り、今の彼は、ある教室の教壇の下の僅かな空間に身を縮めて潜んでいる。
この校舎、どうやら机やロッカーなどといった道具類はそのまま放置して廃棄されたらしく、故に、あの大群から一時的に身を隠す場所を見つけることは比較的容易だったのだ。
が、いまだ安心できる状況ではない。
すぐ周辺は、見失った獲物を再び見つけ出そうと、大量のテケテケが徘徊している。
先程も潜伏場所である教壇スレスレの所を、一体のテケテケが通り過ぎていったばかりだ。
「しかしどうする……。ここまで包囲されてるとなると、一体ずつ片付けて突破するのは難しいってどころじゃねえな。……いざって時は鬼口さんが来てくれるのを……」
季太朗は頭の中をよぎったその自堕落な思考を、軽く頭を振って吹き飛ばした。
そうだ、今回は、窮地に陥ろうと一人でやることに意味があるのだ。多少行き詰ったからと自分より優れた他者に頼るなど、言語道断。
季太朗は思考回路を総動員してこの状況を突破する策を捻りだす。
……しかし、何度思考を繰り返しても、出てくる結論は同じ。
『今この状況をひっくり返せる方法は、ない』。
唯一この状況を打開できるものは、あるにはあった。圧縮弾だ。
あの強力無慈悲な威力ならば、一気にテケテケを殲滅することも可能であろう。
だが、季太朗はその策を否定した。
こんな土壇場で、まるで漫画や小説の主人公のように、都合よく切札が使えるようになる筈もない。
二十数年生きてきて、そんな都合のいいことはほいほい起こらないということは、心身ともに嫌というほど理解していた。
だが、そこで諦める季太朗でもない。
人生において、意地汚さがどれほど大切かということも、同時に理解していたからだ。
「……なにも一気に引っ繰り返す必要はないんだよな……!」
いかにも、いいことを思いついたという心情を丸出しにした笑みを、季太朗は見せた。
その時、傍らで軽く引いていた幽霊が一人いたのだが、思考にふけっていた季太朗はまるで気づかなかった。
●
どこだ。どこにいる。
ある一体のテケテケはそう思った。
彼女らの心は、歓喜に満ちていた。
久々の獲物……それも、御馳走だ。絶対に逃がしてなるものか、と。
特に、あの男の後ろにいた奴は――――
そう思った時、テケテケの思考は、途切れた。
●
静寂を、破裂音が切り裂いた。
音の聞こえた方向へと無数のテケテケ達が殺到していく。
そこにあったのは、無残にも頭を粉微塵に吹き飛ばされた同胞の骸だった。
「ギッ?!」
「ゲッ! ギ――――ゲガッ!!?」
「!?」
その同胞であったものに思わず駆け寄ると、今度は一番後ろにいたテケテケの頭が、先程と同じ破裂音と共に木っ端微塵に吹き飛んだ。
何が起こったのか理解できず、集まったテケテケ達は困惑した。
ある者は辺りをくまなく見回し、ある者は同胞を屠った者に憎悪を抱き、ある者は自分も同じようになることへの恐怖からその場から一目散に逃げだした。
――――その背後から追跡してくるものがいるとも知らず。
その中のあるテケテケは、トイレの個室へと逃げ込んだ。
発達した長腕を器用に使って扉を閉め、他者をその空間から締め出して、ほっと一息をついた。
これでしばらくは、自分は同胞を殺した者の目にとまることはないと。
「ガッ――――!? ギ――――ッ」
が、その安堵は凄まじい乱撃に木端微塵に打ち砕かれた。
扉を挟んで、否、扉を貫通して、無数の蒼い光の軌跡がテケテケに降り注いだ。
為す術なく、その光の雨に蹂躙されていく。そして、テケテケの意識は、消え去った。
蝶番をも破壊された扉が、キィ、と軋んだ音を立てて力なく開いた。
そこには――――季太朗が立っていた。
「……よし、これで三体目だな」
満足げな表情を見せながら、彼は銃口から煙を吹き出す神無月を下ろした。
動き出すにあたって、彼はこう考えた。
五十体を一気に相手するのではなく、一体ずつ分断させて各個撃破をしていけばいい、と。そうすれば霊力の消耗も抑えられるし、無理がない。
ただただ繰り返していけば、確実にこちらが勝つ方法。
テケテケの体力が非常に低いということも、季太朗に有利に働いた。
「……うっ」
「! ステラ、大丈夫か?」
ステラが、小さい呻き声をあげた。
無理もなかった。
今回相手しているのは、本質は違えど、見た目は人間に近しいものだ。
それらを、素早く倒す為とはいえ頭を吹き飛ばしたり、目の前のテケテケであったもののように、木端微塵にする勢いで弾を撃ち込んだりしたのだ。
見ていて気持ちの良いものでは当然ないだろう。幼いステラにとってなど、特に。
「……わたしはだいじょうぶ。
きたろうは、きたろうのやりたいようにやって」
「……わかった」
その声が、ちゃんと意志のこもったものであると確信して、季太朗は次の目標へと駆け出していった。
●
季太朗の作戦は、結果として正しかった。
具体的な展開は省略するが……ある時は掃除用具入れの中に隠れ、ある時は天井裏から、ある時は扉の裏から、ある時はボロボロになったカーテンの裏から、と、地形と神無月を巧に使ってテケテケの数を確実に減らしていった。
(いける! このまま倒していけば……!)
内心そう思いながら、季太朗は次の標的を屠るべく薄暗い廊下を駆けていた。
だがその矢先、彼の足がふと止まった。
「わっ!?」
その為、ステラはぼふっ、という鈍い音を立てて季太朗の背にぶつかった。彼女の抗議の視線が季太朗に向かう。
「うぅ~っ。
きたろう、どうしたの? いきなりとまるなんて……」
「…………アレ、見てみろ」
「アレ?」
その言葉に促されて、ステラは季太朗の指差す前方を見る。
すると彼女は、反射的に口元を手で覆った。
「きたろう……これ」
「ああ、挑発のつもりか? やってくれるな……」
彼らの目の前には死体があった。
無残にも、まるで何かを示すようにして、扉に磔にされた死体が。
服装からして、過去、建物の様子を見に来た不動産関係者か何かだろう。
鋼鉄の扉に、下半身を荒く切り取られた上半身だけの亡骸が、腕に杭のようなものを打ちこむ形で固定されていた。頭は力なく垂れ、切断面からは変色した内臓がでろりと垂れ下がっている。
そして、季太朗は本能的に察した。ここから先は命の保証は無いと。
理屈ではない。ただ、この扉の奥から、あの害霊特有の、しかし特段濃い禍々しい気配が溢れだしているのだ。
それが、季太朗の警鐘を激しく鳴らしていた。
「…………」
だが彼は、静かに、扉の取っ手に手をかけた。
己に与えられた任務はテケテケの殲滅。なら、この先にいる奴も倒さなければならない。
ほんの少し開けたところで、扉に磔にされていた死体が、ドサッ、と鈍い音を立てて落下した。
そのはずみで、もう完全に生気など宿っていない白濁した眼が、季太朗たちに力なく向けられる。
同時に、これまた何度か目にした黒い瘴気が、波のように溢れ出してくる。
これで、扉を塞ぐものはなくなった。季太朗達は、一つ深呼吸をし、意を決した。
「いくぞ」
「うん……!」
扉を開け放ち、その奥へ一歩、踏み出した。
●
「……」
そこは今まで見たどの部屋より広大だった。
僅かな月明かりのおかげで、そこがどこ施設であるかは容易に把握できた。
「体育館、か」
例に漏れず、所々くすんでボロボロになってはいたが、紛れもなく体育館だった。
無造作に落ちていたボールや、床に引かれたコートの線がそれを証明していた。
季太朗は目を凝らして周囲を観察した。
何かがいることは間違いない。が、余程巧妙に姿を隠しているのか、すぐに発見することはできなかった。
季太朗はゆっくりと歩を進め、そして彼の足が体育館の丁度中央に差し掛かったその時――――
「なっ!?」
「きたろう――――っ?!」
床が、落ちた。
季太朗は失念していた。この校舎は老朽化が著しく進んでいるということを。
体育館の床というものは本来かなり頑丈な造りなのだが、時間には逆らえなかったようだ。
片足を板の隙間に取られる。体勢が崩れる。
「ッ――――!」
そしてすぐに足を引き抜こうとしたその瞬間、季太朗の背中が粟立った。
同時に三百六十度全方位から降り注ぐ、おぞましい気配。
(やられた……っ!)
気付けば、爛々と光る眼が、月明かりの当たらない影からこちらを見ていた。
二つだけではない。四つ、六つ、八つ、無数。
季太朗の頬を、つう、と一筋の汗が伝う。
不味い。身動きが碌にとれないこの状況で、敵に完全に包囲されている。
早く脱出しなければ、と季太朗は嵌った足をがむしゃらに上へと引き上げようとするが、余計に食い込んでいく。
その様子を見て、テケテケの中の一体が、獰猛な笑みを浮かべていた。
何をするのかは、明白。
「――――キシャアアアッ!!」
そしてその一声を切欠に、一斉にテケテケが季太朗に群がった!
上空から、地面から、床下から、全天から、季太朗に命を刈りとる爪が迫る。
「ちいっ!! クッソ!!」
汚い言葉を吐きながら、季太朗は自らに迫りくるテケテケの大集団に向かって神無月を連射した。
無数の蒼い閃光が肉の群れへと突き刺さる。せめて、自分の所へと密接される前に、可能な限り倒す。
季太朗のその思惑通り、何体かのテケテケは地面に血だまりを作りながら倒れ伏していった。
だが、数が多すぎた。
「うっ! ぐっ! がっ! ああッ!!」
一回、二回、三回、四回と、季太朗の体から血飛沫が跳ねる。
撃ち漏らしたテケテケが、密着し、季太朗の肉を爪で刻み続ける。
季太朗は張り付いたテケテケを素手で乱暴に引き剥がし、更にがむしゃらに蹴り飛ばして数を少しでも減らそうと試みたが、その外側のテケテケが、またその外側のテケテケが、間髪入れずに彼の肉を刻み続ける。
減っては詰め、減っては詰める、圧倒的な物量の斬撃。そこにテケテケ自身の時速百五十キロ並の素早さも合わさって、隙がない。見えない。
『なっ!? 季太朗君?! 大丈夫か!! おい!!』
生体バイタル値の異常から季太朗の危機を把握したタカハラの叫びが虚しく響く。
季太朗に返事をする余裕などない。
歯をくいしばって、意識を奪われぬよう耐えるのに必死だからだ。
勿論、例の強化コートが斬撃の威力自体は弱めていた。しかしテケテケはその、布地の薄い防御の低い部分を正確に狙っていた。
残忍かつ狡猾。
(どうする! どうすればいいッ!)
神無月を撃ち続けつつ並行して季太朗は思考を巡らせた。
鬼口かレミーが駆けつけるまで耐えるか――――否。
今いない者を、いつ来るかわからない者を組み込んだ想定など当てにはならない。
そこで季太朗は半ばやけくそに行動に出た。
不可能だということは分かりきっていたが――――それでも試せることは全て試すべきだと思った。
圧縮弾を。
右手に体のエネルギーをありったけ注ぎ込む。
すると訓練中は一度も成功することがなかったと言うのに神無月が白く輝き出した。その光は紛れもなく、あの時と同じ全てを塗り潰す閃光だ。
火事場の馬鹿力、とでも言うのか。皮肉にもみっともなく罠に嵌ったことで季太朗の当初の目的が達成されようとしていた。
季太朗は内心で歓喜した。もう少し、もう少しでこの状況を打開できる。
だが、
「!? ッあ! ぐあああぁぁぁぁぁぁっ!!」
あともう少しという所で、テケテケの攻撃がより速く、鋭くなった。
本能的に察知したのだ。あの銃の光は、自分たちにとって凄まじく危険であると。
痛覚で集中が滅茶苦茶に掻き乱される。神無月へ溜めた力が、僅かずつ霧散していく。
「もう少し……だってのに……!」
霧散し、宙へ力なく舞い上がっていく白い光の残片を見て、季太朗は歯を喰いしばる。
だがテケテケの大群に飲み込まれる寸前――――季太朗は声を聞いた。
「…………イヤ……やめて……イヤダ……」
「ス、テラ?」
ぶつぶつと、吐き出されていく、否定の言葉。声の主はステラだった。
季太朗はその姿を見て、言葉に詰まった。
両手を体に回して、うずくまるように、自分を守るように、小さな肩を震わせていた。
その表情は、怯え。
前にも一度こんなステラを見たことがある、と季太朗は思い至った。
廃車場で鬼口と共に害霊と戦った、初陣の日――――
「イ、ヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
「なっ、ぐうっ!!」
ステラが、空気を切り裂くような声で叫んだ。その瞬間、季太朗の頭に言葉で表すのもおこがましい程の激痛が走った。
今迄にも似たような事は季太朗の身に起こっていた。だが、今夜は何かが決定的に違った。
(何だ……!? この、光景、は!)
頭の中で、季太朗が全く見たこともない景色が、流れ始めた。
まるで濁流のように流れ込んでくる、映像の数々。
それらは例外なく、ノイズがかかっているようにぼやけ、白黒のモノクロームだったが、季太朗は何故か明確に捉えることができた。
まずその映像の視点はとても低かった。まるで幼子の視界であるかの如く。
そこに写っていたのは、周囲を囲む、同じ服を着、荘厳な装飾の施された槍を構えた男達。
そして、その、視点のすぐ目の前に、手を目一杯広げて立ち塞がる、一人の女性。
男の一人が声を荒げた。いや、音は聞こえないが、表情で声を荒げているのだと容易に分かる。
すると、目の前の女性は、首を横に振った。腰まで垂らした長い髪がそれに合わせて揺れる。
そしてその女性は振り返った。映像を見ているこちらの視点、この光景を見たであろう人物の方へ。
その顔には、深い慈愛の感情と、深い悲しみが、混ざりあっていた。
女性の唇が動作する。
それはとても短い言葉だったので、何を言っているか、季太朗は瞬時に理解できた。
わかってしまった。
――――――「生きて」。
その瞬間、四方の男達がこちらに向かって走りだした。例外なく、手には槍が握られている。
『ッ! ――――ッ!!』
思わずその映像の中で、季太朗は叫んでいた。だが、音が無いこの世界で、自分の声が届いているかすらもわからない。
女性の顔が、一瞬歪んだように見えた。目の端には、涙が溜まっていた。
そしてその次の瞬間――――女性に、無数の槍が、突き立てられた。
●
「…………」
鬼口アイラはそこに佇んでいた。
何かをする訳でもなく、ただそこに佇んでいた。
鬼口の背後から、地面を蹴り上げる音が接近する。
「おい、鬼口!」
息を荒くし小走りで駆け寄ってきたのは、季太朗と共に校舎に潜入していたレミーだった。
タカハラから季太朗の危機を知らされ、加勢する為に来たのである。
鬼口もまた同じだった。
だがその必要はなかった。
もう全て、終わっていたから。
「! こいつは……」
眼前に拡がるその光景を見て、レミーは愕然とした。
蒼い光が、その場を支配していた。
その光景に名を付けるとしたら、蹂躙。
無数の火の玉のような光塊が、縦横無尽に動き回っていた。
そして地面には、大量の赤い肉塊。テケテケの残骸だとすぐにレミーは察した。
そして、現在進行形でテケテケが嬲り殺されていた。縦横無尽に動く光の玉が、テケテケを貫き、消し飛ばし、一切の反撃も許さず。
――――やがて幾分かして、その光は静かに消えていった。
それと同時に、月明かりと暗闇が、再びその場を支配していく。
その光が消失した中心に、一つの影があった。そしてその影は、レミー達の方へ顔を向けて
「あ……。鬼口、さん。レミー、隊長」
そう言って、倒れた。
「っ、季太朗!」
いの一番にレミーが飛び出し、季太朗の傍に駆け寄った。びちゃびちゃと、分厚い靴底が肉を踏みつける音が鳴り響く。
「タカハラ、アンジュはいるか?! 季太朗が倒れた。今から運び込む!」
無線に向かってレミーはそう叫ぶ。
鬼口も、すぐにレミーの背を追い、季太朗に寄り添った。
「隊長……!」
「鬼口、言いたいことがたくさんあるのはわかる!
だが今は忘れてくれ! 後で必ず答えてやる」
「……わかりました」
喉の先の方まで出かかっていた諸々の言葉を、鬼口は飲み込んだ。
だがそれでも、心の中で叫ばずにはいられなかった。
(あれは……彼女は何者なの?!)
彼女の視線は季太朗よりも、その隣に同様に倒れ伏すステラを捉えて離さなかった。
●
季太朗は、一人椅子に腰を落としていた。
いつも傍らにいる少女の幽霊は、今はいない。
あの後、僅かな時間で季太朗は移動中の車内で目を覚ました。
ガンガン頭痛がしていたが、それ以外、体に異常はなかった。
季太朗は既に一連の事を全てレミー達に報告済みだった。
テケテケ達に嵌められて窮地に陥ったこと、突然、見たこともない映像が頭に流れ出したこと……そしてその原因はステラかもしれないということも。
ステラはまだ目を覚ましていない。今、アンジュが解析にあたっているが、未だに原因はわからない。
だが、季太朗は確信にも近いある予感があった。
「……季太朗さん」
ふとかけられた横からの声に、思考の最中だった季太朗は少しだけ驚いた。
「鬼口さん」
「隣、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
断る理由もない。
鬼口は季太朗の隣に腰を落とした。
「また、迷惑を掛けてしまったようですね」
「……いいえ。あの場にいたテケテケは、全て絶命していました。
迷惑だなんてとんでもない。季太朗さんはちゃんと、任務を果たしました」
「そう、ですか」
退魔師として先輩の鬼口にそう言われれば、季太朗とて悪い気はしない。
しかし、彼の表情は固いままだった。
長い沈黙の後、鬼口の唇が開いた。
「……アンジュさんから伝言を頼まれました。
ステラのことですが、こうなった原因は恐らく……」
「ステラの記憶が戻ったから……ですよね」
鬼口は目を丸くしてその言葉を聞いた。
「……ご存知だったんですか」
「まさか。ただ、前に記憶が戻った時もこんな事がありましたから」
過去の事例から考えれば、推測するのは容易だった。
そして鬼口の言葉は、それが正解だと言外に示していた。
だとすれば、あの映像は――――
「!」
突如、横の診察室へと繋がる扉が開け放たれた。汗を流しながら姿を現したのは、アンジュ。
「季太朗くん! ステラちゃんが――――きゃっ!?」
そこまで言って、アンジュは何かに押されたように、前方にバランスを崩した。するとすぐ彼女の背後から、蒼い光が飛び出して、季太朗の胸元に飛び込んできた。
誰かは言うまでもない。
「……ステラ。目、覚めたのか」
「……ん」
そう言って今にも大粒の涙が零れ落ちそうな瞳を隠すかの様に、幽霊の少女は季太朗の胸に顔を沈めた。
「どうした? 泣きたくなったか?」
「……なかない。やくそく、したから。
……でも、かなしいの。なんでだかわからないのに、すごく、かなしく、て……」
泣かないと言っても、声は震えていた。
季太朗は無意識に、ステラの頭に手を置いていた。
「俺はな、あの女性のことは何も知らん」
「!? きたろうも、みたの?」
「ああ。てことはやっぱり、アレはお前の記憶の映像なんだな」
「……そう、みたい」
季太朗の予想は的中していた。
どうしてそうなったのか不明だが、ステラの記憶が戻った時、それが映像として季太朗に共有されたのだ。
だがそんなことよりもまず先に、季太朗はステラに言わなければならないことがあった。
「なあステラ。俺はさ、確かにお前に、辛いことがあっても目を背けるなって言った。
それを、お前はちゃんと守ってる。
だけどな、俺は泣くなとは一言も言ってないぞ?」
「え?」
「悲しいんなら泣け、辛いのなら言え。吐き出せよ。ほら」
「…………っ」
その言葉で、ステラの涙腺は決壊した。
大声を上げて、季太朗の胸元に顔を擦りつけて、泣きじゃくった。
相当、あの記憶に心を揺さぶられたのだろう。だけど、本人はそれがどうしてなのかわからない。
それは、辛いことの筈だ。
ステラは泣きに泣いた。季太朗はただ、その泣き声に耳を傾け、時折背をさすってやった。
そしてそのやり取りを、鋭い目で見つめる人物が。
(あれが生楔、ステラ・A・ブリュンヒルデ……)
鬼口は気付いていない。
自分が拳を、爪が抉りこむほど強く握りしめていることに。
おそらく、これが年内最後の更新です。
全然進んでませんけども……。
とにかく、皆様よいお年をお迎えください。