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ハニーポット  作者: 指猿キササゲ
$1$ 本質乖離
9/113

#9 薫

    #9 薫


 学校での一日の生活が終わってから、薫は下校した。だが、それは家に帰って休息することを意味してはいない。

 家に着くなり、薫はタブレットで祐輔にメールを送信して、せわしなく家を出る。


 夕闇の世界では、アスファルトと校舎の境界は存在しなかった。

 ただ黒いシルエットが視界を塗りつぶしている。シルエットは上の方で直線的に切り取られ、橙色というより桃色に染まった空を覗かせている。

 そんなノスタルジーな空間で、かれこれ三十分も動かない奇妙な人影があった。人影は、制服の上から黒いパーカーを着て、フードを被っていた。百八十センチはあろうかという長身は、木陰に佇む卒塔婆を思わせる。

 陽が完全に落ちるのを待って、長身の女――蓮灘薫は動き出す。早め早めにと準備したら、到着するのが早すぎてしまった故の、非効率的な時間の使い方――潰し方だった。

 記憶していた二階の窓を見る。そこは放課後、事前に開けておいた窓だった。人目につきにくい特別棟の二階の端となれば、教員も油断する。

 薫は件の窓の真下にある一階の窓を観察する。長らく掃除されていないらしく、窓のサッシやレールの部分には、黒い土のような汚れがこびりついていた。

 革靴ではなく、運動靴に履き替えておいて正解だった。薫は少し下がって助走をつけると、一階の窓へと突進を敢行した。

 ぶつかる直前、薫は右足で軽く跳躍する。続いて利き足である左足が、一階の窓のサッシを踏みつける。

 体操選手も顔負けの軽業でもって、薫は擬似的な二段ジャンプを行った。しかし壁にぶつからないようにジャンプしたため、空中で逆海老固めのような体勢になってしまってる。だが薫は腕の長さを生かして、二階の窓の下の出っ張った部分を掴み取る。

 校舎の表側の出っ張りは椅子が置けるほどの広さを有しているのに対して、校舎裏の出っ張りは、身体を横向きにすれば、どうにか人が立てるだろかというほど狭い。今回はそれが功を期して、頭頂部を強打せずに済んだ。

 もっとも、表側であれば教室と教室の間にある二本の柱のように出っ張った部分を使い、三角跳びをしただろう。それをしなかったのは、教室の窓の鍵はチェックが厳しく、かつ万が一にも侵入しているところを他人に見られないためだ。もし夜の校舎でアクロバティックをしている姿を見られたら、それこそ学校の会談になりかねない。

 懸垂の要領で身体を持ち上げ、肋骨を出っ張りに引っ掛けるようにして身体を支えると、長い脚を上げて、幅二十センチもない出っ張り部分によじ登る。

 軽く息を吐きながら、鍵の掛かっていない窓を開ける。外側から窓を開けるにはサッシに指を引っ掛けるしかなく、掃除されていない窓の汚れが付き放題だ。両手で払って辺りを見渡す。……真っ暗だ。一応ペンライトは持ってきているが使わない。目を慣らせておく必要があるし、外から見られでもしたら、幽霊の次は人魂騒ぎになりかねない。使うのは、本当に緊急の時だけだ。

 薫はパーカーのポケットに手を入れながら何気なく――本当に何気なく、窓の外を見た。

 そこから見える夜景は、丘の下に広がる街の夜の姿だった。なんて幻想的なのだろう。星の光は、延々と広く暗い(そら)も相まって、冷たく孤独な印象を受ける。けれどこれは違う。人の気配を示すようにギラギラと輝いていて――薫には、そんな暖かさが眩しかった。

 思わず浮かんだ微笑みを消して、薫は校舎に向き直る。

 夜の外気のような清らかさは無い。昼間の内に人から出された脂を吸い、日が暮れて冷却されて、ぬるりとした質感になった空気が、歩くと自然に頬に塗りたくられていく。

「不愉快だ」

 薫は自覚せず、淡々と冷たく呟いた。

 廊下から教室に入る。並べられた机は、夜空から降り注ぐ微かな光を、水面のように反射していた。

 しかし美しさは無かった。代わりにそれは人の顔を、表情を思わせる。偽りの潤滑油が、不衛生な艶となって机に塗られ、見るものを詐騙する。

 昼間に溜まった人の心が、夜になってもまだ漂っているのだ。それは人が触れた道具や、居た空間に染み込んでいる。そして人が消えたこの時間になって、ようやく染み出してきた。


 上手く、告白できますように。


 声がして、薫は思わず教室を見る。だが、誰もいない。けれど、確実に聞いた。


 県大、順調に勝ち進めますように。

県大で優勝できますように!

 あいつを殺してください。


 また聞こえた。何かある。薫は教室に足を踏み入れる。

 ぞわり、と背中を撫でられるような感触がした。それは危険に飛び込む危機感よりも、禁忌を犯す背徳感に近かった。

 ――アタリか。

 祐輔の話――まじないとの関連性は不明だが、ここまできて関係なし、というわけはないだろう。

『あなたは、なにを望むの?』

 不意に、耳元で囁かれる。

「――!」

 薫は前方へと跳躍しながら、身体を反転させる。

「なんだ……アンタ」

 薫の目に映っていたのは、月明かりに照らされた、一人の女だった。

 髪の長い、薫と同じ制服を着た女。顔は前髪が隠している。それだけならホラーだが、女を照らす月明かりはスポットライトさながらに優しく包み込んでおり、超俗的な雰囲気を醸し出していた。

 ――?

 薫は、女を見て何かを感じ取る。違和感というか、既視感というか。

『あなたは、なにを望むの?』

 声がした。

 けれど口の動きは、少しだけ遅れているように思える。

 光りで象られた像だけが空間に浮いているみたいな、希薄な存在感だ――薫は女を見て、そんな感想を抱いた。

 女の手から放れた何かが、薫の足元に投げ出される。一枚の、真っ白な紙だった。

 薫は眉をひそめる。やはりまじないではなく御札ではないか。話が違う。

「……要領を得ない話は、嫌いなんだけど」

 薫は無視して紙をまたいで女へと歩を進める。

 すると、女は苦い表情をした……口元だけ見るなら、そう見える。

『あなたは、なにも望まないの?』

 三度の問いかけ――これでは話が進みそうにない。薫は折れた。

「望むもなにも、特にそういう願い事はないよ。強いて言うならさっさと帰って寝たいね。けどそれをするには、アンタを裁定委員会や角川に引き渡してからだ」

 薫がもう一歩を踏みしめて、長い腕をそっと伸ばす――だが、触れられない。女の体は、薫の腕を透かしてしまう。

 くすくす。笑い声は、風に吹かれる枯れ草のように乾いている。

『そう。みんなはすぐに願うのに、あなたは何もないのね』

 女が口ずさむ。まるで歌を歌うように楽しげだった。

 逆に薫の視線は鋭さを増す。実体でないのだとしたら……これは、なんだ?

 よく見れば、確かにコレは不自然だ。いや、それどころの話ではない。実体はない、けれど像だけがある……そして、後ろの景色を透かしている。

「さっきの声といい、アンタ、何がしたい?」

 問いかけに、女は困った顔をする。

『私は、願われたから叶えただけ。だからあなたの願いも叶えてあげようと思ったの。だってこんなところに来るんだもの、そう考えるのが自然じゃない? 何を願うのか分りにくいだろうから、叶えられた願いを聞かせてあげたの……ちょっと失敗したものもあるけどね』

「こんなこと、止めろといったらどうする?」

『イヤよ。そんなの』

 きっぱりと、女は断言した。

『願い事が決まったら、それに願えば叶えてあげるわ。またね』

 声とともに、女の姿が掠れていく。

 あとに残ったのは、白い御札が一枚だけだった。


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