#4 薫
すでに廃れた商店街は、空気が死んで重々しい。
アーチを描くルーフの下には、永遠に上がらない数多の鉄扉が並んでいる。
夜中の一時。鉄扉を照らすのは、青い月の光だけ。錆びた鉄扉は、それだけで不気味な雰囲気を醸し出す。天井の透明なルーフは、掠れ、傷つき、年季が入っている。ルーフを支える柱は、ところどころ凹だりしていて、床は色褪せていた。
商店街を通路に見立てたとき、両脇の『壁』あたる部分は、こうして正面から見ると分からないが、結構奥行きがあるもので、子供の頃、母親と一緒に、この商店街にあった貴金属店や靴屋、CDショップに入った時には、意外と面積が広くて驚いた記憶がある。
閉鎖された通路の空間に、ガジェットじみた小部屋がたくさんあって、まるで蟻の巣みたいだと思った。
けれど今の淀んだ空気を前にすると、そんな感想は浮かんでこない。軒先にあったワゴンは消え、ガラス張りのショーウィンドウの数々は、今では薄汚れたシャッターに変わっている。シャッターが下りて、数多くの店が全てが無個性になってしまっている様子は、まるで独房の回廊だ。
確かに、間違ってはない。大型商店が出来る前まで、栄光を飾っていたのは個人商店の群れだった。しかし廃れた今、新しいモノに飾られた社会にとって、ここは空間を占拠するだけの古く卑しい原罪であり、鉄扉という牢獄によって、錆びた意味は封じ込められている。臭い物に蓋、というヤツだ。
おそらく、もう数年もすれば意味が消え、名前を剥奪されたこの牢獄は、まるで場所を不法占拠する異邦人のように、街そのものによって駆逐されるだろう。記憶の彼方に消し飛んで、この地は駐車場やショッピングモールになる。大きな怪物が矮小な小人を相手に、美味い汁を搾り出させる為の、餌付けの場所だ。
昔はネオンの光を放っていたであろう看板も、今や宙に浮かぶ墓標のようだ。赤や白に塗装されていた看板は、乾ききった接着剤のように、パリパリと塗装が剥げており、鉄本来の剥き出しになった表面は、雨水と酸化によって、茶色い染みのように錆びていて、見る者に、鉄の臭いを想起させる。
酷い場所だ。同時に、静かな場所だ。ここは場所としては広いのに、人の活気がなく、誰の色もない。個性は持ち出され、消し去られて、ここはただ、『有る』か『無い』で言えば、一応前者というだけだ。
「鈴切、桐高」
ふと、ある男の名が、口から漏れる。
あれから――もう半年以上も経つのか。薫は、月日の流れに驚いた。あの男と、この商店街で対峙した時の記憶は、まだこんなに、鮮明に残っているというのに……。
あの一件で破壊されて、まだ修復されていない場所はいくつもあった。そういう場所は、だいたい建設会社の名前がプリントされたビニールシートに覆い隠され、周りはコーンと白黒の棒によって囲まれていた。そして『ご迷惑をおかけしております』とヘルメットをつけた男性が、深々と頭を下げている姿がイラストされた看板が立ててある。
被害の痕跡は残っていた。それだけが、以前、彼がここにいた証拠だった。
薫は、感傷的な気分に浸る気は無かったので、商店街を出た。
行く宛ては無かったが、とりあえず歩いてみた。薫の悪癖だった。とりあえず、目的も無く歩く。どこかの店に入るわけでもなければ、コンビニに寄る事も無い。ただただ歩いた。こういう気分の時は、疲れるまで歩かないと、安眠できない。
いつしか薫は坂道を登り、住宅地に来ていた。似たような民家がいくつも並ぶ。
居住する当事者たちにとっては見慣れた風景でも、部外者からしてみると、それは同じような建物が続く、碁盤の形をした迷宮に他ならない。あまり深くに入りすぎると、何処から自分が来たか分からなくなり、方向感覚が狂ってくる。
薫は、住宅街の入り口の方に行く。こういう住宅地には、だいたい入り口付近に地図があるものだ。
木製の看板。ペンキで描かれた、三色問題のような図式。赤や青に彩られた、四角形や台形の中に、白い文字で『石田』や『桑城』、『山本』や『本田』といった姓が並ぶ。
姓で区切られた図形。薫は知っている。日本中、コレと同じ物を探しても『蓮灘』という姓が記載されている場所は無い。とあるボロいアパートの隅っこに、一つだけの表札があるに過ぎない。なぜなら蓮灘とは一意な架空の姓だからだ。
けれど、ここには姓が並ぶ。コレと同じ物を比較すれば、たぶん同じ名前が幾つも見つかる。だが、それらは同一を意味しない。なぜなら、コレの『石田』と別物にある『石田』は、字面は完全に一致しようと、その中身は全くの別物なのだから。
そう、これは名前の空間だ。呼称によって区切られた空間。国という、県という、市という、町という……大きい空間から、だんだんと区域を絞ることによって、固有な個体を特定する。名前という自己同一性。だが、これほどまでに淡白な独自性が、この世にあるだろうか?
強靭な力、積み上げられた知識、一線を画す感性……それらには、違いによって生じる意味がある。けれど名前は、ただ自分の居場所を特定する手段に過ぎない。
事務的な機械でも、この住所という名前だけで地理的な空間を特定できてしまう。それほどまでに、コレは無機的だ。分かりやすい意味に、手にする事に苦労の無い……過程の無い意味は、そのどれの価値も同一だ。
それは価値でも、意味でも無い。ただの所在文字列だ。そこに私がいようと、別の誰かがいようと、名は、まるで違和感が無い。
だから薫は思うのだ。名前なんて要らないと。
欲しい物は、力を伴う意味だった。違いが有るのは当たり前。だがそこに意味が欲しかった。
蓮灘薫。この文字列に、なんの意味があるのだろう?
蓮灘に『蓮灘の記録』の意味が伴う――そう知っているのは、追求者など、解創について知己している、ごく少数の人間だけだ。
この姓は、彼らの中でだけ意味を持つ姓だ。そんなものは不要だ。もっと汎用的で、実用的なものの方がいい。
「そこの女」
呼び止める声があった。夜道で突然声を掛けられたことに、驚かない自分をどうかと思いながら、薫は振り返る。
「なんだ……アンタ……?」
十メートルほど先に、人が居た。
フードを深く被った、ウインドブレーカーの人影。肩幅は広く、がっしりとした身体つきは薫と遜色ない。
人影が、顔を上げる。フードから覗く顔は無骨で、男だと分かる。無精ひげを生やし、フードの隙間から見る限り、髪は短く刈り上げられているようだ。顔には、ところどころ古傷があり、百戦錬磨の武者を想起させた。
「蓮灘……痛ましい名だと思わぬか?」
唐突に、男は低い声を夜風にのせる。
「……なに? 突然?」
薫の呟きを、男は無視する。――薫は気付けない。薫の姓を知っている時点で、この男は異様だと。
「やはり記録としての自覚はあっても、国に尽くしたことは知らぬか。しかし当然か、七十年もの歳月は、多くの同胞達の忠義を風化させるに十分だった」
男の声には、哀しげな韻が含まれていた。
「気付け『蓮灘の記録』よ。この国は、大東亜戦争で敗北を喫したゆえに、平和主義などという世迷言に復讐の牙を奪われ、かの大国に飼い殺されているのだ」
『蓮灘の記録』という単語が出てきたことで、薫は警戒する。こいつは――追求者か、解創者か。少なくとも解創を知る人間だ。
「我々は、この国の隠された牙となるべく、恥を忍び、姓を変えて生き延びた。来るべきその時、陛下は勅命を出す為に、我々を探さねばならぬ。本来存在しない架空の姓は、見つけやすくするための記号だった。ゆれに我々は、本来の姓を、作り手としての意味を、今の姓に移し変えるしかなかった」
男は、なおも続ける。
「だが陛下は既に、わが国が大国に隷属するのを、半ば許してしまっておられる。目が曇られておられる。これでは我々を呼ぶどころか、存在そのものを忘れてしまう。これではならぬ。日の丸を背負いし我々は、この国の目を覚まさせる神風とならん」
男が、ゆっくりと薫に歩み寄る。
「貴様が必要だ。日本の目を覚まさせるのだ。それが我々、架空の姓の追求者の使命なのだ」
差し伸ばされるのは、薫にも、ひけをとらない屈強な右腕。それは、薫が腕を伸ばせば届く距離にある。
薫は払いはしなかったが、視線は外した。
「興味ないよ」
「……そうか」
一瞬、男の身体が停止する。
それは、突然の事だった。――薫の身体が、弾けるようにして吹き飛んだのだ。
衝撃――アスファルトの上を転がる。硬い地面は土と違い、落ちた人間を非情に打ち付ける。
「が……はっ……」
唐突のことで、何が起こったのか理解できない。まるで猛牛の突進を食らったのかと思った。
男は何事もなかったかのように、変わらずそこに佇んでいる。
「ならば、その首を捥いで、他の架空の姓の者に渡すまで。貴様の身体、時間を掛けて調べつくせば、その記録も複製が可能だろう? 違うか?」
確認してくるくせに、その声音は断言だった。薫は、獣じみた笑いを浮かべる。
「さぁね。あいにくと、私は知らないのよ、この身体がどんなものかって」
「なんだと?」
男の眉が、微かに不快に歪む。
「私と同じ身体で生まれた人、知らないのよ。親は普通の人だから。だからこの身体について知ってるのは、爺より上なんじゃない? 私が生まれた時には、もうとっくに死んでたけど」
男が、目を伏せる。
「……なるほど、貴様の一族は、毎代『記録』が『記録』として明示されて誕生することを危惧したのか。驚異的な膂力を持つ人間は特異な存在だ。目立つのを避け、大国から隠すためには、確かに利口ではある。だが……それが決定的だったな。貴様は記録から遺産と化した。とんだ忘れ形見だ」
遺産……なるほど、戦争に加担した追求者の負の遺産。その響きなら、確かに記録よりは適合している。
「その忘れ形見に、興味津々のオッサンは誰よ?」
薫の安い挑発に、男は沈黙のままの一撃で応じた。
雄牛の如き重圧が迫ってくるのを、音でなく、肌で感じ取る。聞くより早く、薫は動いた。
直立したまま、身体を半身に――吹き抜ける、砲弾のような、見えない力の風。
次の瞬間、薫の脚は躍動した。跳ねるように軽やかに――薫は、たったの三歩で、開いた両者の間隔、十メートルを無に帰した。
アスファルトに踏み込まれる右脚から、発破の如し轟音が発される。それと同時に掌底が、空気を引き裂きながら、男の懐に放たれる。
――誰だか知らないけど……。
やってきたからには、やり返す。
薫は加減したが、遠慮はしなかった。薫の力を持ってすれば、鉄の塊すら拉げられる。だから人に当てる時は、本気では放たない。しかし、この体格の男だ。多少強く打とうとも、耐えられるに違いない。
殺意のない薫の掌底――男は、それを見切っていた。
思い切りサンドバッグを打撃したような破裂音が、一帯に響き渡った。
手の平に、なにか感覚があった。粘性の空気とでも言うべきか。そこに感触がある。
薫は事態を理解して、一度間合いを取るべく、飛び退いた。――この男は、見えない力で、薫の打撃を相殺したのだ。
見えない――力?
はっ、とした。あまりの『凄み』の違いに、忘れてしまっていた。
「アンタ……まさか……」
見えない力……姿のない身体。これは、まさか……。
薫の中で、あの日の記憶が蘇る――去年、自分のクラスから現れた、似非追求者の女子高生――野崎洋子の力を。
もちろん、威力は段違いだ。アレは自分の身体で加えられる力を、遠隔で与えるだけの代物だ。女子高生と、目の前にいるこの男では、明らかに体格が違う。だから気付くのに遅れたのだ。
「……一つ、訊いていい?」
「なんだ?」
互いに間合いを見計らい、警戒したまま会話する。
「野崎洋子っていう女……聞いたことない?」
男の口が、微かに揺れる。そして――男の目の前に、雷光が煌いた。
閃光に遅れた雷鳴は、周囲を薙ぎ払わんばかりに轟き、薫の鼓膜に耳鳴りを上げさせる。
立ち上る煙――その攻撃の正体に、薫は感づく。
振り向くと、薫を超える高身長の、ひょろりとした一人の男がいた。
「角川……」
いつもの笑みを浮かべて、角川祐輔が立っていた。
「やぁ薫くん。一体全体どうしたんだい?」
アスファルトが割れ、周囲に焦げ臭い臭いが漂っている。しかし男には命中しなかったらしい。男の服に塵芥の汚れはあるが、損傷を食らった形跡は見当たらない。
「下手糞」
自分が作った道具も使いこなせないのか。薫は祐介を罵った。
「悪かったね、あんまり使う道具じゃないんだ。昔、有名どころの神話に嵌ってた時に作った代物でね。雨乞い然り『天候を支配したい』という願望の象徴さ。それを落雷……というか、電撃に特化させたものでね。発生に重点を置いてて、命中の精度は微妙だ」
役立たず――だが、薫は少しだけ安心していた。ここは住宅地だ。鈴切桐高の時と違い、巻き込まれる人間が出る可能姓が高い。他人にそれほど興味の無い薫でも、流石にそれは後味が悪い。仕留められなかったとはいえ、祐輔の介入は、薫にとって都合がいい。
「退いてくださいよ。とりあえず今日だけでも」
男はしばらく、祐輔を睨み付けていたが、やがて背を向けた。祐輔は掴みどころの無い微笑に何かを感じ、引いたのかもしれない。
さて、と祐輔が声を出す。周囲を見渡すようにしながら、ゆっくりと引き下がる。
「悪いが、人払いは出来てない。ああいうのは準備が前提でね。今回は、さっさと退散しようか」
祐輔が駆け出すのと、周囲の家の灯りが点き始めたのは同時だった。
人払いは出来てないらしいが、よくもまぁ、あれだけの騒音に、これだけ保ったものだ――薫は、アスファルト損壊の冤罪を被るのはゴメンだったので、祐輔に続いて、そこから立ち去った。




