#13 薫
「朱莉くんが追求者に誘拐された。要求は『蓮灘の記録』が自分の研究に参加することだそうだ」
角川祐輔からの連絡を聞いて、薫は盛大なため息をついた。
「あの女――」
怨念か呪詛に近い呻きを漏らす。対象は二人。
一人は追求者の女。まさかこんな卑怯な手を使ってくるとは思わなかった。
一人は情報員の女。帰り道は一緒だった筈のに、まともに追求者の手から守れなかったのか。
裁定員ではなく情報員だから仕方が無いか――薫は自分に言い聞かせ、冷静さを取り戻す。
両親共に仕事で家にはいないから、夜に出かけても気付かれない。……気付かれたところで、なにか不都合があるわけでも無いが。
春とはいえ、夜にもなると肌寒い。薫は上着を一枚羽織って夜の団地へと繰り出した。
目的地は、角川祐輔が居住している県営ヒルズマンションの805号室。電話なんかではなく、実際に会った方が話しやすいというものだ。
エントランスに辿り着くと、すぐに805号室を呼び出す。一も二もなくエレベーターに続く扉が開く。薫はエレベーターに乗って、八階を目指す。
鉄箱の密室で、薫は自分の足元を見下ろした。女のものとは思えない大きな足。だが、こんな身体であろうと、自分の視界の内にいないと、人っ子一人守れやしない。
「くそ――!」
鉄扉に拳を打ち付ける。揺れる箱に気付いて、苛立っている自分に驚いた。
リビングにあがると、祐輔は早々に相手の場所を教えてきた。
「この団地……君が来た方向とは反対側に下りたところに、最近潰れた自動車整備場があってね。そこが相手の指定した場所だ。ちなみに、委員会に告げ口したら、人質については保障しない……だってさ。情報員をやっておきながら、そりゃないだろう」
それに関しては薫も同感だった。こっちが要求を呑むつもりだったとしても、逆鱗に触れた委員会が勝手に動くと、自動的に朱莉はこの世から消えてしまう。
「しかしマズいな。まさか朱莉くんが狙われるとは……裁定委員め。裁定員や腕利きの派遣代理人ではなく、情報員を寄越してくるとは……少しは頭を使えというんだ。戦わずして攻めてくるとは……薫くん、さすがに今回は分が悪い」
珍しく、祐輔は苛立っていた。薫は少しだけ意外に思った。この男は、他人の心配をするような性格はしていないと、思っていたからだ。
「委員会ってのはそういうもんでしょ? 情報員に調べさせてからじゃないと、裁定内容は決定しない」
「珍しいね薫くん。君の方が冷静じゃないか」
まさか本人にまで言われるとは思ってもおらず、自然、口角が上がる。
「あの追求者は君を解創研究の素材とするつもりだ」
どうやら、報せたクセして、祐輔は私の事を引き止めたいらしい――余裕の無い祐輔は滑稽で珍しいので、付き合ってやる事にする。
「十二分に分かってる。今更何が言いたいのよ?」
「『蓮灘の記録』の秘密は身体の秘密だ。そして相手の目的は感覚の共有。もう意味が分かるだろう?」
残念ながら分からない。
「生きたまま解剖でもされんの?」
「それで済めばいいね。クオリアの共有、君を通した世界を見るということは、つまり君の頭の中で起こっている事を観察するために、自分の意識――脳と直に繋げるということだ」
ぞっとする話である。想像すらしたく無い。
「でも、そんなの上手くいくの?」
「確信があるんだろう。小動物で実験したとか」
どうすればいい? 自分の身体を弄ばれる機会をやるくらいなら、いっそ無視してしまえばいい。なのに私は追求者の元へ向かおうとしている――決まっている。やる事は、一つだ。
薫がソファかた立ち上がり、外に出ようとしたところで、ふと、動く人影があった。
眼鏡の少女が、リビングと廊下をつなぐ出口で立ち往生していた。
「なに?」
「……」
どうやら、塞いでいるつもりらしい。片手で襟首を持って持ち上げれば排除できないことも無いが、できればそういうことはしたくない。
「心配してくれているんだよ」
後ろから祐輔の声が掛かる。
「人形なのに?」
「人形だからさ」
まったく答えになっていない。
「眼鏡ちゃん。開けておやり」
ぷい、と顔を背け、少女は道を開けた。どうやら主人の命令は絶対のものらしい。
「鳩間さんを連れ帰ってくる。ご両親にはどう言い訳させるつもり?」
「君の家に遊びに行ってた、とでも言わせればいいさ。後の事の心配はしなくていい。君は今に集中するんだ」
違いない。冬の一件とは違い、こちらは本物の追求者だ。手段として用いる解創の力は以前より荒事向きではないかもしれないが、思想と使い方、そして何より目的が一線を画している。薫を手中に収めるためには、手段を選ばないだろう。
そうはさせやしないさ――鳩間さんも、自分自身も守ってみせる。薫は意気込み、805号室を後にした。
部屋に残った眼鏡の少女は、無表情のまま祐輔を見守る。
「見本の事が心配かい? 大丈夫だよ、眼鏡ちゃん。いつも通り見てくればいい」
眼鏡の少女は頷いた。




