#15 朱莉
#15 朱莉
靴越しだというのに、足の裏にペダルが食い込んで痛かった。
中学校に入学する時に父親に買ってもらった赤いママチャリは、せいぜいコンビニや学校に行く程度の距離でしか使った事がなかった。
だが今日は違う。渡った橋の数は三つ、無視した信号の数は覚えてない。最近ダイエットを意識して取り付けたメーターは、学校を出発した時には八百メートルくらいだったのに、今はもう三千メートルを振り切っていた。こんな数字見たことないと思いながらも、そこに達成感はまるでなかった。
鳩間朱莉は、ある人物を訪ねに行くために、こうして過酷な運動をしていた。
ペダルを漕ぐたび上下に揺れる視界に、大きなデパートが映った。確かこのデパートは目的地――あの人物の自宅のすぐ近くにあった筈だ。
鳩間朱莉は一度自転車を降りると、ポケットから、汗で蒸れた一枚の紙片と、スマートフォンを取り出した。
目的地の住所はメモにあるが、それだけでは辿りつけられるほどの土地勘は持ち合わせていない。こういうときにインターネットは便利だ。スマートフォンで目的地と現在地を確認する。
――こっちがデパートだとすると、目的地はこっち……。
場所が分かって良かった……そう思いながら、朱莉は目的地の方向を見る。
「ウッソ……」
思わず物怖じしてしまう。そこには急勾配な坂があった。
しかし番地はこのあたりのはずだ。だがそこに到達するには、やはり目の前の心臓破りな坂を突破する必要があるらしい。学校からここまで、全力で自転車を漕いで疲労が溜まった朱莉にとっては、悪魔のような試練だ。航空写真しか見ていなかったから、ここがこんなに急勾配になっているなんて知らなかった。
「ああ、もうっ!」
疲弊した身体に活を入れ、朱莉は自転車を降りる。朱莉は自転車を押しながら、半ば気合だけで急な斜面を駆け足で登り始める。
だがそんな無茶をして彼女の身体がついていけるわけもなく、ふくらはぎや大腿には大量の乳酸が溜まり、膝は悲鳴を上げ、心臓は自らを小さく圧縮し、苦痛となって朱莉を襲う。
喉が渇いて痛みすら感じる――それでも朱莉は自分の体に走り続けるように命令し続け、身体はついていけずに喘ぐような呼吸を強要される。
背中で、内臓で、こめかみで……体中で血管が脈打つのが分る。日常生活とはかけ離れた激しい運動によって生じる熱を発散させるために、滝のような汗が全身の毛穴という毛穴から噴き出している。強く瞼を閉じれば、涙のように目の周りをダラダラと汗が伝う。唇を舐めれば、しょっぱくて少し苦い味がした。
このまま身体を動かし続けたら、体が壊れてしまうんじゃないか――脳内麻薬すら精製されない中、そんな心配が脳裏を過ぎったが、ついにマンションのある頂上にたどり着いたことで、それも杞憂に終わった。
「やっと……着いた……」
心中で細波のように広がる達成感を味わいながらも、身体は動くをのやめなかった。朱莉は近くに自転車を止めて鍵を掛ける。
マンションのエントランスに入る。簡易なソファとテーブルがあった。まるでホテルだな、と思いまがら周囲を観察する。
エレベーターに続く道にガラス製の自動ドアがあることに気付く。そしてそのすぐ近くには、住人が中に入るために自動ドアを開けたり、来訪者が訪問先の住人を呼び出すのに使う機械が設置してあった。朱莉はその前に立つと、固定電話と同じような配置のボタンから、訪ねている人間の部屋番号である三つの数字を押す。
するとまもなく、スピーカーから成人の男の声で返答があった。
『どちらさまでしょうか?』
「角川さんですよね、助けて下さい! 友達が学校で大変な事になってるんです! お金なら持ってますから! 誰の話でも聞いてくれるんでしょ!」
朱莉が捲くし立てている間も、スピーカーからは「ちょっと落ち着いて」などと困ったような声が聞こえていたが、誰の話でも聞いてくれるんでしょ、という一言を聞くと、参ったといわんばかりにエレベーターとエントランスの間にある自動ドアを開けてくれた。
エレベーターに入って、八階のボタンを押す。未だに汗がダラダラと流れている。暑くて仕方がない。胸元が少しはだけるのも気にせず、ボタンを三つほど外して制服をパタパタとあおぐ。
エレベーターが八階にたどり着く。朱莉は早歩きで目的の部屋の前に立つと、すぐにチャイムを押した。
「どうぞ、入って」
それが扉を開けた男の第一声だった。
クラスメイトの蓮灘薫を超える高身長だが、筋肉質な印象は無く、ひょろりとしている。目は垂れ目で、頬がこけているのが残念。それがこの男の容姿。
男の名前は、角川祐輔という。




