1 黄金の左団扇 地紙
目を開けるとそこは新江戸の町じゃなかった。
窓から見える一面の海。潮の香り。……誰もいない家の中。
おかしい。確か私は物部さんと出会って、不動さんが働いているお店へ行って、園山さんと合流して、お酒を飲んだ。それから家に戻って……布団にもぐりこんだはずだった。そして目覚めたらここにいる。寝ている間のことが綺麗に抜けてしまっていた。
異世界トリップなんてした記憶はない。
なのに、どうして私は違う世界にいるのか。こんな風に、不意打ちのように新しい世界にきてしまうなんて、今までなかったことだ。
もう一度良く思いだそう。
私が別の世界に行く時は荷物を整えて、銀色の風呂敷を広げ、その上に立って強くどこに行きたいか念じていたものだ……と、そこまで考えてはっとしたように辺りを見回す。
――ない!
不動さんからもらった風呂敷がない。
床を探るが、布が落ちている形跡はない。
そもそもここがどこだかも分からないのだが、辺りを見回す余裕よりも帰れなくなるかもしれないという不安のほうが大きく、白木を使ったフローリングに木のテーブルと椅子、小さな引き出しがたくさんついたタンスに木のベット、台所の引き出しまで開けて風呂敷を探した。
けれど見つからない。どこにもないのだ。
これでは私、もとの世界に戻れない……。
もともと、何故あの風呂敷で異世界トリップができるのか、分からないのだ。その原理も原因もわからず無茶を重ねた結果がここにあるのかもしれない。けれどそれは結果論に過ぎず、現実だと思っても、受け入れられない。あたりに人の気配はなく、途方に暮れてしまう。
ぺたりと床に座り込むと、もう、どうして良いのか分からなくて、みるみるうちに涙が溢れてきた。
床にポタリと涙が零れ落ちる。それを合図にしたかのように、溢れる涙を止めることができなくて、そのまま盛大に泣いてしまった。
泣いて、泣いて、泣き疲れるまで……。
波が打ち寄せる音が聞こえた。腫れぼったい目をこすって窓の外を眺めると、広い海が見える。どこか遠くで人の声がした。
また波の音。私が泣こうが喚こうが、世界は変わらずそこにある。
火事の日、私は世界から放り出され、命を失った……らしい。
らしいというのは、その辺の記憶が定かではないからだ。何故だか分からないが、私は半分だけ魂がある状態で生き返った。私の姿は不安定なのか、人によって見えたり見えなかったりする。鏡には映らない。不思議な存在だった。
不思議なことはもう一つあった。不動さんからもらった風呂敷を使うと異世界へ行けたことだ。半分幽霊だったからできたのかもしれない。そして、異世界では私の姿は安定しているらしく、困ることは少なかったが……。
ん? そういえば、風呂敷がない私は今、どういう状態なのだろうか。
ひとしきり泣いてしまったら、頭がすっきりしてくる。
状況把握は一刻も早いほうが良いと、改めて建物の中を見回した。新築のようではないのに、ずっと空き家だった形跡も見当たらない不思議な家だった。最低限生活に困らないようそろえられた調度品がある。窓に顔を近づけると、不安げな表情の私の顔が映った。どうやら、姿のことは心配しなくて良いらしい。
家から外に出る。外観は白い壁と赤銅色のレンガ屋根、表札はない。空き家だろうか。
見覚えのない建物に立ち尽くしていると、先ほど遠くで聞こえた声がこちらに近づいてきた。
ここがどういう世界なのか分からない。けれど、少なくとも争いの空気の匂いはないことに安心し、勇気を振り絞ってこの世界に住む人に声をかけた。
まずはここはどこなのか知らなければならない。
そして、生きていくために働こう。
大丈夫、道は照らされてるはずだ。
だめだなぁ、私。不動さんの風呂敷がなくなったくらいで、不安になって泣いちゃったりして。
この身があればやり直せる。そう、教わったはずなのに。
大丈夫、もう一度、最初からやり直すだけだ。何も怖くない……そう言い聞かせる。
今まで新しい世界でやってきたじゃない。
今度は、帰る場所を失ったけれど、けれどまだ私の前に道は照らされている。大丈夫。信じていい。やっていけるはず。
――もしかしたら、眠っているうちに銀色の風呂敷の上に落ちたのかもしれない。
なぜこの世界に来たのか分からないけれど、気持ちのよい風に吹かれ、緑いっぱいの木々の音を聞き、キラキラ光る川面を見つめるうち、この世界に私は何かを求めていたのではないかと思うようになっていた。
もし理由があるのならば、私はその理由を知らなければならないのだろう。
私の声を聞いてやってきたこの世界の人は、優しい人たちだった。
私の泣き腫らした顔を見て、人攫いにでも連れてこられたと思ったらしい。港の近くで果物屋をやっているというおばさんは、何度も「大変だったね、怖かったね」と労わるように頭を撫でてくれた。うちわ職人だというおじさんは、この町の管理者に届け出てくれると言ってくれた。
良かったと、安心したらまた涙が出た。
良かった。
まだ、生きていけそうだ。




