198円の純愛~君が屁をこく前に~
※カメムシが出てきます
午後11時14分。平和な俺の六畳間に、奴は突如として舞い降りた。
「ブゥゥゥン……ペチッ」
軽快な着地音とともに、白い壁紙に茶色い五角形のシルエットが浮かび上がる。
――カメムシである。しかも、やたらとツヤのいい特大サイズだ。
「ひょえぇぇっ!? なぜだ!? 網戸は閉めていたはずだぞ!!」
俺は飲んでいた麦茶を吹き出しそうになりながら、ソファの上で奇妙なブレイクダンスのような動きをして後退した。大パニックである。
落ち着け、落ち着くんだ俺。相手はたかが虫だ。だが、ただの虫ではない。「歩くスカンク」「天然の催涙ガス爆弾」ことカメムシ様だ。もしここで下手に刺激して『屁』をこかれようものなら、この部屋は今後三日間、パクチーを100倍濃縮して腐らせたような地獄の空間と化す。
俺はガタガタ震える手で、日用品ラック(という名の段ボール箱)を引っ掻き回した。武器だ、武器をよこせ!
エントリーナンバー1:実家のような安心感『キンチョール』!
「……ダメだこりゃ!」
俺は即座に缶を放り投げた。あんなマイルドな対ハエ・蚊用のスプレーを掛けたらどうなるか。奴は「うわっ、なんか冷たいの掛かった! びっくりしたぁ〜! ブーッ(放屁)」と、部屋中をホバリングしながら毒ガスを撒き散らすに決まっている。死ぬまでに時間がかかりすぎるのだ。
エントリーナンバー2:絶対殺すマン『カメムシ専用・屋外用殺虫剤』!
「……って、表面にデカデカと『屋内使用厳禁』って書いてあるぅぅぅ!」
こんな狭い部屋でぶっ放したら、カメムシが天に召されるのと同時に、俺の気管支も天国へ旅立ってしまう。さらに床は薬剤でトゥルトゥルのスケートリンク状態だ。却下!
エントリーナンバー3:庭の守護神『ハチ・アブ用バズーカ』!
「飛距離10メートル!? ジェット噴射!? ……って、部屋の中で撃ったら大惨事じゃねーか!!」
あんなもんを至近距離で壁紙に撃ち込んだら、カメムシは粉砕できるだろうが、後ろの壁紙は変色し、横にあるテレビも本棚もオイルまみれのベッタベタになる。親の仇みたいなオーバーキルだ。敷金が吹き飛ぶわ!
「くそっ、帯に短し襷に長し! 俺の武器庫はどうなってるんだ!」
頭を抱えてじたばたしていると、壁のカメムシがモゾッと動いた。
とにかく動きを監視しなければ。俺は目を皿のようにして、至近距離から奴の姿をじっと見つめた。
……ん?
よく見ると、こいつ……めちゃくちゃ綺麗な五角形をしていないか?
黄金比すら感じさせる、完璧なジオメトリック・フォルム(幾何学的形態)。蛍光灯の光を反射して鈍く輝くブロンズ色のボディは、まるで熟練の職人が磨き上げたヴィンテージの革靴のようだ。
その時、カメムシが「キュルン」と首を傾げ、つぶらな黒い瞳で俺を見つめ返した(気がした)。
細い前脚で、ちょいちょい、と控えめに触角をお手入れしている。
――トゥンク……。
「えっ……待って。なんか、健気で可愛くない……?」
俺の胸の奥で、あってはならない警報が鳴り響いた。
深夜の独り身、極限の緊張状態が引き起こした「吊り橋効果」というやつだろうか。
こんな危険な爆弾を抱えながら、たった一人で俺の部屋に迷い込んだ小さな訪問者。そういえば、外はもう肌寒い。こいつもただ、温もりを求めて俺の部屋に来ただけなんじゃないか……?
『……ワタシヲ、オイダスノ……?』
幻聴まで聞こえてきた。ダメだ、完全に目が合っている。
「い、いや……お前がガスさえ出さなければ、うちの観葉植物の葉っぱくらいなら、いくらでも食べていいというか……なんなら今日から『カメ美』って呼んで同居しても――」
俺がうっとりとした表情で、そっと人差し指を差し出そうとした、その瞬間だった。
カメ美が、背中の羽を「パカッ」と開いた。
同時に、その腹部のあたりが、不穏にピクピクと蠢く。――発射準備のモーションだ!!
「ハッ!! 危ねぇぇぇぇっ!! あやうくハニートラップに引っかかるところだったぁぁぁっ!!」
俺は自分の頬を両手で思いっきり引っ叩いた。
目を覚ませ俺! あいつは妖精なんかじゃない、歩く悪臭グレネードだ! 愛でられる前に俺の鼻腔が死ぬ!!
正気を取り戻した俺の血走った目に、工具箱の横で鈍く輝く「銀色の超ロング缶」が飛び込んできた。
ホームセンターで特売198円で買ったまま放置されていたそいつの名は――
『速乾性! ブレーキ&パーツクリーナー(ジャンボサイズ・840ml)』!!
「……こ、これだぁぁぁぁっ!!」
本来は自転車のチェーンとかの油汚れを落とすやつ! でもなんかネットの知恵袋で「虫にかけると油分が奪われて気門が詰まって即死するし、すぐ乾くから部屋が汚れない」って書いてあった気がする!! 知らんけど!!
俺はパーツクリーナーのノズルに赤い極細ストローをブスリと差し込み、腰を落として構えた。ポーズだけは完全にゴルゴ13だが、履いているのはヨレヨレのスウェットである。
距離1.5メートル。火気なし! 換気扇よし! 俺の失恋の覚悟、たぶんよし!
「……すまねぇな、カメ美。俺たち、出会う場所と種族が違ったみたいだ。お前に噴射するガスはねぇ! 俺のガスをくらえぇぇぇっ!!」
プシュウウウウウウウウウウウッ!!
すごい勢いで透明な液体がレーザービームのように飛び出し、カメ美の顔面にクリーンヒットした。
「えっ」というカメ美の声が聞こえた気がした。
次の瞬間、奴は羽を広げることも、別れの屁を放つことも許されず、文字通り「カチン」とフリーズしたかと思うと、重力に従って「コトン……」と綺麗に床へと自由落下した。
「……えっ、弱っ。ウソでしょ?」
あまりのあっけなさに拍子抜けしつつも、俺は光の速さでティッシュを10枚重ねにして奴をキャッチ! そのままビニール袋にダンクシュートし、固結びを3回キメた。
「ハァ、ハァ……に、匂いは……!?」
俺は犬のように部屋中の空気をクンクンと嗅ぎ回った。
……無臭!! 完全に無臭である!! あの忌まわしきパクチー臭がミリもしていない!!
「か、壁紙は……!?」
恐る恐る壁を見ると、あれだけビシャビシャに吹きかけたはずの液体は、『速乾性』の名に恥じぬマッハのスピードで蒸発しており、シミひとつ残っていなかった。むしろちょっと綺麗になったまである。
「す、すげぇ……! 被害ゼロ! 討伐時間3秒! 198円のパーツクリーナー、神かよ……!!」
俺は銀色のジャンボ缶を天に掲げ、誰もいないリビングで勝利の雄叫びを上げた。
……だが、その熱狂は数秒で急速に冷めていった。
ふと視線を落とすと、そこには固結びを3回キメられたビニール袋が、ポツンと床に転がっている。
あの中に、ほんの数十秒前まで俺と見つめ合っていたカメ美が眠っているのだ。
「……本当に、何一つ残さず逝っちまったんだな、カメ美」
俺は白い壁紙にそっと手のひらを当てた。
パーツクリーナーの気化熱で、そこだけがまだ、ほんの少しだけひんやりと冷たい。まるでカメ美が最後に流した涙の温度のようだ(ただの有機溶剤である)。
匂いも、シミも、何の爪痕も残さなかった彼女。
もし彼女が最後に強烈なっ屁をこいてくれていたなら、俺は「くっせぇなチクショウ!」と悪態をつきながら、未練など微塵も残さずに彼女を忘れることができただろう。
なのに、198円の速乾性クリーナーがあまりにも優秀すぎたせいで、彼女は最期まで「無臭で清楚な美少女(五角形)」のまま、俺の記憶の中で永遠に美化されてしまったのだ。
「来世では……せめてテントウムシくらいに生まれ変わってこいよな……」
俺は目頭を拭うふりをして、飲みかけの麦茶をハードボイルドに一気に煽った。
こうして俺の部屋の平和と敷金は完全に守られた。
……ただ、俺の胸にぽっかりと空いた五角形の穴(と、パーツクリーナーを吸いすぎたことによる軽いめまい)だけは、しばらく治まりそうにないのだった。(※換気はしっかりしましょう)
カメムシマジで困る...




