『肉』
クリームシチューにじゃがいもは欠かせないと思う。
今日は特別だから、市販のルゥではなく小麦粉からホワイトソースを作ることにした。生クリームよりも牛乳の方が柔らかく仕上がる気がしている。
ソースを煮詰める間に、丁寧に切り揃えた野菜たちを炒める。味を馴染ませる為にバターを落とし、玉葱、人参、じゃがいもの順番に投下していく。
充分に火が回った頃合で鍋に移して、空いたフライパンに塩とタイムで下味を付けた「切り身」を慎重に乗せ、表面を焼き固めるようにさっと炙っておく。
このタイミングで、パン生地を並べておいたオーブンに火を入れる。その一呼吸の時間差でコンソメスープと「切り身」を投入し、ローリエを被せたら蓋を閉める。弱火で20分、ブロッコリーを足してまた少し煮込んだら、丁度パンが焼き上がる。
――ああ。いよいよだ。
カウンター越しにリビングの時計を確認した。もうすぐ夫が帰宅する。部屋着に着替えてもらっている間に、食卓の準備は整うだろう。
私は弾む胸を宥めるように、食器を洗い始めた。
噂を初めて聞いたのはもう一昔も前のことだ。
この海沿いの街に越してきて、漸く人にも風土にも馴染んだかな、という時分だった。
正直、益体もない話だと笑うしかなかった。荒唐無稽な、凡そ時勢にそぐわぬ飛語だ。誰もがそう考えたのだろう、暫くすると耳にすることもなくなり、すっかり忘れ去られていった。
その廃れた筈の噂が再燃したのは、数ヶ月前、相馬のお屋敷に長女が出戻ってからだった。
良家の子女のくせに妙に気さくな性質だったその長女とは、友人の少なかった転入当時、歳が近かったこともあり親しくしていた。彼女が遠方に嫁ぐことになったときは夜通し飲み明かし、離れて後も時折連絡を取り合う仲だった。しかしそれも次第に間遠になり、いつしか途絶えてしまっていた。
それだから、彼女が独り身に戻った理由を知ったのは、その噂と共に人伝てだった。
忸怩たる寂寥感を覚えたと同時に、到底信じられない経緯に、それを糾すべく彼女を訪ねたのだ。
「お久し振り」
十数年振りの彼女を一目見て、けれど用事はそれで済んでしまった。
「本当だったの――」
声にならない呟きに、彼女は微かに笑った。
「あの人は耐えられなかったみたい」
そうして、知りたいか、と訊いた。
あの頃と、本当に何一つ変わっていない彼女から視線を外せないまま、魅入られたように、
頷いた。
オーブンが音を立て、我に返った。開け放しだった蛇口を捻り、鍋の火を止めて時計に目をやる。
夫の帰りは遅れているようだ。
外したエプロンをスツールに掛けてから、ソファに移動した。連絡は入っていない。急な残業ということでもなさそうだ。道が混んでいるのだろうか。
こんな日に、という思いに、やや焦れる。
私は堪え切れず、鍋の様子を見に戻る。まだ温かい。食欲を刺激する匂いが立ち昇った。
時間が欲しいのだ、と彼女に伝えた。
「治療が長引いているの」
このままでは、効を奏する頃には別の要因が邪魔をするかもしれない。そう不安を吐露した。
「じゃあ、二人分なのね」
二人分は難しいかもしれない、と彼女は続けた。
それでは意味がないと食い下がると、僅かな沈黙の後、半年待つよう言われた。
「それでも、それが最初で最後よ」
「どういうこと」
「授かる子供の分までは用意できないということ」
その言葉の意味を咀嚼しようと試みたが、実感は湧いてこなかった。
構わないと応え、彼女もそれ以上は何も言わなかった。
待ち望んだその「切り身」が届いたのが、今日だ。
夫はまだ帰ってこない。
先に食べてしまおうか――。
その誘惑は抗い難く、逡巡した後、一口だけ味見をした。ごくごく当たり前の食感だった。これならきっと夫の不審も買うまい。
懸案事項が解決したことに満足して、蓋を閉じた。
時計を振り仰ぐ。それにしても遅い。
「生ではなく火を通すなら、調理をしてから少なくとも一日以内に食べてね」
彼女の注意を思い出す。それ以降は、効果がなくなるのだということだった。
猶予は充分にある。
逸る気持ちを抑えて、再びソファに体を沈める。我ながら落ち着きがない。
テレビは臨時ニュースを流していた。玉突き事故だ。
近いな、とぼんやり考える。
夫はまだ、帰ってこない。