第05話 - 乾いた海の縁と崩れる壁
城壁は、外敵から守るために築かれる。
だが戦場では、壁そのものが戦いの一部になる。
守る側は、崩れる石の音を聞きながら戦い、
攻める側は、崩れる音を待ちながら進む。
アスカロンは堅城だった。
それでも、太鼓は鳴る。
砂は震える。
これは、防ぐ戦いではない。
持ちこたえる戦いだ。
どこまで持つか。
誰が崩れるか。
その境目の物語である。
海は青い。
だが空気は重い。
アスカロン城の白壁が、陽を返して眩しい。
その南、砂丘の向こうに黒い帯が伸びている。
アイユーブ朝の軍勢。
旗は緑と黒。
太鼓が低く鳴る。
城壁の上でゲルハルトが言う。
「来たな」
メリサンドは答えない。
視線は平野。
砂塵の下に、秩序がある。
歩兵の塊。
弓兵の列。
騎兵の影。
中央が厚い。
「正面突破ではない」
メリサンドが言う。
「削る」
諸侯連合の陣は、城門から弓が届かぬ距離まで前に出ている。
十字が風に翻る。
だが列は揃っていない。
北の伯は前に出過ぎる。
南の騎士団は統一が弱い。
指揮は一つではない。
「合図が遅れる」
ゲルハルト。
「なら先に動く」
城門が開く。
黒十字―—チュートン騎士団が出る。
重歩兵三百。
騎兵百。
メリサンドは中央に立つ。
敵軍が広がる。
太鼓が止む。
角笛。
矢が上がる。
空が黒くなる。
「盾!」
ゲルハルトの声。
矢が降る。
木が裂ける。
鉄が鳴る。
一人倒れる。
二人。
隊列は崩れない。
「進め」
重歩兵が歩く。
足並みが揃う。
砂が沈む。
敵弓兵が退く。
その瞬間。
左翼が動く。
軽騎兵。
速い。
側面を狙う。
「来る」
ゲルハルト。
「止めろ」
メリサンドは動かない。
「引き込め」
左翼がわずかに退く。
敵騎兵が踏み込む。
砂丘の陰。
そこに伏せていた槍兵が立つ。
馬が突っ込む。
刺さる。
叫び。
倒れる。
だが止まらない。
二波目が来る。
「厚い」
ゲルハルトが歯を食いしばる。
メリサンドは前を見る。
中央が揺れている。
アイユーブ軍の歩兵が前進。
盾を重ね、槍を前に出す。
整然。
速くはない。
だが重い。
「来るぞ」
衝突。
盾がぶつかり合い、衝撃が腕から肩へと抜ける。
槍が押し込まれ、足元の砂が崩れ、列がわずかに揺れる。
誰も退かない。
槍が突き出される。
悲鳴。
押し合い。
誰も下がらない。
ゲルハルトが叫ぶ。
「押すな! 固めろ!」
メリサンドは動く。
中央やや右。
敵の列のわずかな綻び。
若い将が前に出ている。
命令を飛ばしている。
声が強い。
勇敢だ。
——長くは持たない顔だ。
メリサンドは騎兵を十騎、横に振る。
一直線。
敵弓が狙う。
一本が騎兵の喉に刺さる。
落ちる。
止まらない。
突入。
若い将の護衛が振り向く。
遅い。
剣が交わる。
血が散る。
メリサンドの刃が肩を裂く。
将は倒れない。
踏みとどまる。
「退け!」
アラビア語の叫び。
周囲が固まる。
包囲。
槍が向く。
ゲルハルトの重歩兵が間に割り込む。
盾が壁を作る。
刃が弾かれる。
「戻れ!」
メリサンドは後退。
一騎が倒れる。
二騎目も落ちる。
砂に血が吸われる。
中央は均衡。
だが左が押され始めている。
諸侯連合の北の伯が突撃を命じた。
早い。
独断。
騎兵が突出する。
敵が開く。
引き込む。
「罠だ」
メリサンドが言う。
遅い。
北の騎兵が包まれる。
弓が降る。
槍が囲む。
叫びが上がる。
連合軍の列が揺れる。
「穴が開く」
ゲルハルト。
中央が崩れれば終わる。
メリサンドは振り向く。
「右を押せ」
ゲルハルトがうなずく。
重歩兵が斜めに動く。
敵中央の側面を押す。
衝突。
刃。
盾。
汗。
血。
砂。
太鼓が再び鳴る。
アイユーブ軍の後列が動く。
予備兵。
まだいる。
「厚いな」
ゲルハルトが言う。
メリサンドは前を見る。
敵の本陣。
緑の旗の下に立つ男。
まだ動いていない。
本隊。
これは前哨ではない。
本気だ。
空が震える。
右翼が崩れ始める。
叫びが近い。
メリサンドは息を吸う。
短い。
「持たせろ」
それだけ言う。
まだ折れない。
だが。
波は来る。
太鼓が速くなる。
アイユーブ騎兵が中央後方から動き出す。
重い。
砂煙が上がる。
真正面。
「来る」
ゲルハルト。
メリサンドは剣を構える。
退かない。
削る。
削り続ける。
だが今回は――
削るだけでは足りない。
黒い波が迫る。
地鳴り。
砂が震える。
アスカロンの平野が、戦場に変わる。
衝突まで、あと数十歩。
衝突。
重騎兵が中央に叩きつけられる。
盾が割れ、槍が折れる。
砂が跳ね上がる。
アイユーブ騎兵の第二波。
重い。
止まらない。
「踏みとどまれ!」
ゲルハルトの声が響く。
だが右翼が崩れる。
北の伯が再び突撃を命じる。
「今こそ栄光を! 神は我らと共にある!」
叫びは高い。
騎兵が飛び出す。
秩序なく。
中央の厚みにぶつかる。
敵は開く。
道を作る。
そして閉じる。
包囲。
弓が降る。
槍が突き出される。
悲鳴。
諸侯の旗が揺れ、倒れる。
「愚かだ」
メリサンドは低く言う。
だが間に合わない。
各個撃破。
十字軍の隊列が裂かれていく。
中央が薄くなる。
「穴が広がる」
ゲルハルト。
「塞ぐ」
メリサンドは騎兵を振る。
突入。
敵歩兵の側面へ。
一撃。
二撃。
押し返す。
だが背後で叫びが上がる。
城壁。
アスカロンの南門。
衝角が打ち付けられている。
鈍い音。
石が軋む。
塔の上から火壺が落ちる。
爆ぜる。
だが攻城塔が迫る。
「壁が持たん」
ゲルハルトが吐く。
「三番隊、下がれ! ……ハインツ、まだ立てるか!」
轟音。
白壁が裂ける。
石が崩れ、砂煙が天を覆う。
それは、城が折れた音だった。
砂煙。
敵兵がなだれ込む。
「城内へ!」
叫びが走る。
だが城内は混乱。
諸侯の兵が退路を塞ぐ。
誰も統一しない。
敵は中央を裂き、城内へ雪崩れ込む。
メリサンドは前に出る。
馬が二騎並べぬほどの石畳の路地。
敵歩兵と激突。
刃が交わる。
血が飛ぶ。
背後で諸侯が再び突撃。
無謀。
狭所に騎兵を入れる。
転倒。
踏み潰される。
叫び。
「退け!」
メリサンドが叫ぶ。
だが聞かない。
若い諸侯が槍を掲げ、敵中へ。
次の瞬間。
矢が喉に刺さる。
倒れる。
踏み越えられる。
隊が溶ける。
アイユーブ軍は冷静だ。
狭所を押さえ、左右から締める。
分断。
切断。
各個撃破。
メリサンドは中央に取り残される。
敵に囲まれる。
槍が向く。
一歩踏み込む。
斬る。
次が来る。
受ける。
火花。
背後に刃の気配。
その瞬間。
盾が割り込む。
ゲルハルト。
衝撃。
槍が弾かれる。
「下がれ!」
低い声。
重歩兵が輪を作る。
盾壁。
押し出す。
一歩。
二歩。
砂が血を吸う。
「持たん」
ゲルハルトが言う。
城内は崩壊。
南門は破られた。
西塔も炎上。
連合軍は統制を失った。
「撤退する」
ゲルハルト。
メリサンドは刃を払う。
敵がまた押す。
重い。
止まらない。
「撤退路は?」
「北門。まだ持っている」
一瞬。
メリサンドは城壁を見る。
崩れ、煙が上がる。
諸侯の旗が燃える。
叫びが混ざる。
「……修道騎士の割に賢いんだな」
メリサンドが言う。
ゲルハルトは息を荒げたまま答える。
「生きていれば、次がある」
短い。
だが正しい。
盾列が後退を始める。
秩序を保ったまま。
敵が追う。
だが深追いしない。
中央の占拠を優先する。
北門を抜ける。
門が落ちる。
轟音。
城内が炎に包まれる。
煙が空を覆う。
アスカロンは燃えている。
丘の上。
黒十字が並ぶ。
兵は減った。
黙っている。
城は赤い。
火が壁を舐める。
緑の旗が城上に上がる。
ゲルハルトが言う。
「落ちたな」
「ああ」
メリサンドは炎を見る。
焦げた石。
崩れた塔。
逃げ遅れた影。
守れなかった。
だが終わりではない。
風が煙を運ぶ。
灰が舞う。
この日、アスカロンは失われた。
そして連合は、もはや一つではなかった。
城は燃えた。
壁は崩れ、旗は落ち、
名のある諸侯は砂に沈んだ。
だが全滅ではない。
退くという判断は、敗北と同義ではない。
守ることと、残ることは違う。
ゲルハルトは残す方を選んだ。
メリサンドは、止められるところまで止めた。
アスカロンは落ちた。
それでも戦争は終わらない。
炎は消える。
灰は残る。
次に削られるのは、どこか。
それはまだ、決まっていない。




