第04話 - 刃は名とその重さを知る、
夜の戦いは、音が少ない。
怒号よりも、砂の擦れる音の方が残ることがある。
奇襲は、始まりが突然で、終わりも突然だ。
だが、その間に交わされる言葉は、案外静かだ。
守る者と、止める者。
どちらも自分の正しさを疑わない。
この夜は、その確認に近い。
夜は乾いていた。
トリポリ西方、岩壁と干上がった川床に挟まれた狭所。
月は低い。
メリサンドは地面に触れる。
蹄の痕は浅い。
軽騎兵。
三十弱。
「奇襲部隊だ」
背後でゲルハルトが言う。
「本隊ではない」
「本隊は動かない」
メリサンドは立ち上がる。
「動けば遅い」
丘の陰に伏せる兵は三十五。
黒十字は布で覆われ、音を殺している。
メリサンドの傭兵は前に出ない。
横にいる。
「散らすな」
彼女は低く言う。
「中央を裂く」
敵は狭所に入る。
松明は使っていない。
夜目に慣れている。
若い。
先頭の騎兵が足を止めた瞬間、矢が三本飛ぶ。
一人落ちる。
馬が転ぶ。
隊列が乱れる。
「今だ」
メリサンドは走る。
真正面ではない。
中央やや後方へ。
短槍が一人の喉を裂く。
次の一撃は馬の脚。
転倒。
混乱。
敵が叫ぶ。
「退け!隊形を保て!」
声は若い。
馬上。
軽鎧。
指示は速い。
メリサンドはその声を追う。
ゲルハルトの部隊が前から圧をかける。
盾の壁。
押さない。
詰まらせる。
狭所で隊形は崩れる。
若い指揮官が弓を引く。
矢が放たれる。
メリサンドは一歩ずらす。
風を裂く音。
止まらない。
投げる。
短槍。
若者の肩を貫く。
馬が暴れる。
隊列が崩壊する。
「撤退!」
明確な命令。
だが遅い。
出口は塞がれている。
倒れた馬と兵が道を狭める。
数分。
それで終わる。
十五が倒れ、十二が逃げる。
三が捕らえられる。
静寂が戻る。
若い指揮官は地面に座らされる。
肩に布を巻かれる。
血は止まる。
殺さない。
ゲルハルトが問う。
「名は」
若者は睨む。
答えない。
メリサンドが屈む。
「逃げた者は十二」
彼女は言う。
「戻れば報告する」
若者の目が揺れる。
「お前たちは、どうやって知った」
「噂だ」
若者は息を荒げる。
沈黙。
やがて、言う。
「……本隊は来る」
「誰が率いる」
若者は歯を食いしばる。
だが言う。
「アミール・サイフ」
名が夜に落ちる。
ゲルハルトの目が細まる。
「サイフか」
その名は知られている。
軽騎の運用に長けた男。
無駄に突っ込まない。
「お前は」
メリサンドが問う。
「副官だ」
若者は答える。
「命令で動く」
誇りは残っている。
「サイフは来る」
若者は続ける。
「奇襲が折られたと知れば、直接来る」
「数は」
「四十前後」
沈黙。
メリサンドは立ち上がる。
「縄を解け」
ゲルハルトは何も言わない。
若者の目が驚きで開く。
「……殺さないのか」
「殺せば、次が早い」
メリサンドは答える。
「帰れ」
若者は立ち上がる。
肩は震えている。
「なぜ」
「恐れを運べ」
若者は理解する。
逃げた十二と合流するだろう。
報告するだろう。
奇襲は折られた、と。
「サイフは慎重だ」
若者は最後に言う。
「甘く見るな」
「甘く見ない」
メリサンドは即答する。
若者は馬に乗り、夜へ消える。
丘に残るのは死体と血。
ゲルハルトが言う。
「名を知った」
「ああ」
「次は本隊だ」
「本隊を折る」
風が吹く。
戦争は形を変える。
奇襲は終わった。
だが決着はまだだ。
メリサンドは剣を拭う。
「サイフ」
彼女は小さく呟く。
名を知った刃は、鈍らない。
「二日以内に来る」
ゲルハルトが言う。
「なら迎える」
夜は静かだ。
だが次は、静かでは終わらない。
◆◆◆
谷は風だけが通る。
岩壁が両側から迫り、砂と石が足元に沈む。
空は低い。
見張りが告げる。
「四十。騎兵二十五、歩兵十五」
「黒い旗。銀の縁」
ゲルハルトが短く言う。
「サイフだ」
メリサンドはうなずかない。
敵は慎重に進む。
前衛は広がらない。
左右を常に見る。
若い副官の報告は届いている。
「罠を警戒している」
「なら、罠を見せる」
岩陰から弓兵が姿を現す。
あえて。
敵が止まる。
アミール・サイフが前に出る。
馬上。
黒い鎧。
銀の縁取り。
年は四十を越えている。
目は乾いていない。
「奇襲を折ったのは貴様か」
距離を保ったまま問う。
メリサンドは歩く。
一歩。
砂が鳴る。
「副官は生きている」
「帰した」
「なぜ」
「恐れは広がる」
サイフはわずかに笑う。
「恐れは鍛えれば消える」
そして言う。
「私は三度、この谷を守った。
フランク人からも、アイユーブからも、砂嵐からもだ」
風が抜ける。
「十字は約束を守らぬ。
交易と言いながら砦を築き、
守ると言いながら奪う」
静かな声だ。
「この下流には村がある。
井戸も畑も、私が守ってきた」
兵は動揺しない。
これは彼の戦だ。
メリサンドは答えない。
ただ言う。
「なら試せ」
沈黙。
サイフが曲刀を抜く。
軽い。
「退け」
双方が距離を取る。
砂が擦れる。
初撃。
低い。
速い。
メリサンドは受けずにずらす。
二撃目。
逆手。
足を狙う。
半歩引く。
三連。
四連。
速い。
五撃目。
砂が舞う。
視界が白む。
刃が肩を掠める。
浅い。
血が滲む。
ゲルハルトが動きかける。
メリサンドは左手を上げる。
止める。
呼吸が整う。
サイフの目が細まる。
「重いな」
「削るためだ」
踏み込む。
一撃。
重い。
サイフは受ける。
火花。
腕が震える。
距離を取ろうとする。
だが谷は狭い。
円が描けない。
サイフが低く回り込む。
斬り上げ。
メリサンドは沈む。
刃が髪を掠める。
踏み込む。
体ごと。
重心を押す。
サイフは受ける。
下がれない。
背後は岩。
骨が鳴る。
その一瞬。
サイフの目に理解が浮かぶ。
速さでは足りない。
守るだけでは足りない。
メリサンドは斬る。
横から。
首。
断つ。
動きは最小。
確実。
サイフの体が崩れる。
静寂。
敵兵が揺れる。
ゲルハルトの盾列が前に出る。
「降伏するなら生きる」
迷いは短い。
数分で終わる。
旗が倒れる。
風が抜ける。
メリサンドは剣を拭う。
肩から血が落ちる。
深くはない。
ゲルハルトが言う。
「名のある男だった」
「ああ」
「惜しいか」
「惜しくない」
間。
「……村があると言っていた」
ゲルハルトは何も言わない。
メリサンドは剣を見る。
重い。
それでいい。
「戻る」
兵が動く。
黒十字が谷を出る。
風だけが残る。
谷は静かだ。
守る者はいない。
守られる者も、見えない。
戦いは終わった。
戦争は続く。
メリサンドは歩く。
肩の血は乾き始めている。
振り返らない。
戦いは終わった。
谷は静かで、風だけが通る。
名を知れば、刃は迷わない。
だが、名を断てば、何も残らないわけでもない。
守ると言った男は倒れ、
止めると言った女は立っている。
それだけのことだ。
戦争は続く。
そして、削る側である限り、
彼女は振り返らない。




