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第01話 - 空が旗で重くなる日

援軍は、希望の形をして現れる。


旗は風を受け、

馬は蹄を鳴らし、

祈りは声を取り戻す。


だが戦争は、

希望が増えた分だけ、

その代償も増やしていく。


この話は、

大軍が到着した日の記録である。


勝てると信じた瞬間から、

戦争は姿を変え始める。

港は、静かすぎた。


櫂の音はある。

荷を運ぶ掛け声もある。

だが、人の声が低い。


アイユーブ朝の軍船は、沖合に現れては消える。

決して無理はしない。

矢を放ち、沿岸を焼き、補給路を断ち、また退く。


都市はまだ落ちていない。

だが、削られている。


石畳に積まれた穀物袋は少なくなり、

井戸の周りの列は長くなった。

城壁の上では、見張りが目を赤くしている。


「また出るらしい」


傭兵の一人が言った。

誰も驚かない。


出撃は日課だ。

勝っても何も変わらず、負ければ少し失う。

その繰り返し。


私は革手袋を締め直す。

刃は昨日と同じ。

重さも変わらない。


変わるのは、人の数だ。


出るたびに、戻る人数が違う。


騎士団は消耗していた。

誇り高い旗は掲げられているが、

旗を支える腕は細くなっている。


港の片隅で、異教徒の少女が魚籠を抱えていた。

目が合うと、彼女はそらさない。

逃げもしない。


名前は知らない。

聞かなかった。


戦場では、名前を覚えない方がいい。


それでも、

彼女がそこにいることは、知っている。


沖から角笛が鳴る。


低く、長い。


「来たぞ」


声が重なる。


櫂が動き、船が押し出される。

海面は穏やかだ。

空も、青い。


戦争は、いつも晴れた日に始まる。


沖合に黒い影が並ぶ。

アイユーブ朝の軍船。

数は多くない。

だが、足りる。


ぶつかるのではない。

削るのだ。


最初の矢が飛ぶ。

甲板に刺さる。

叫び声が一つ。


私は動かない。


敵船が距離を詰め、また離れる。

こちらの焦りを測るように。


「諸侯はまだか」


誰かが吐き捨てる。


噂は広がっていた。

西から諸侯が集結している。

援軍が来る。

大軍が来る。

この流れは変わる。


だが、噂は腹を満たさない。


今日も削られる。

明日も削られる。


戦争は、勝敗より先に、

疲労で人を折る。


矢が肩を掠める。

痛みは浅い。


私は動き出す。


最小の歩幅で、

最短の距離を詰める。


海は静かだ。

人間だけが、騒いでいる。


――まだ、本当の戦いは始まっていない。


だが、空気は変わりつつある。


遠く、水平線の向こうに、

別の帆影が見える。


白い。

多い。


諸侯の旗だ。


歓声が上がる。

まだ遠いのに。


私は、剣を握り直す。


大軍が来るということは、

戦争が終わるのではない。


戦争が、大きくなるだけだ。


最初に見えたのは、帆の数だった。


白。

赤十字。

金糸の縁取り。

それが一つではない。


二つ、三つ、五つ、十。


港にざわめきが走る。


「来たぞ……」


誰かが呟き、

次の瞬間には歓声に変わる。


挿絵(By みてみん)


鐘が鳴る。

修道士が祈りを唱える。

市民が城壁へ駆け上がる。


諸侯だ。


西からの大軍。

騎士。

歩兵。

補給船。

荷駄。


港は一気に窮屈になる。

人と旗で、空が狭くなる。


私は岸壁の陰からそれを見る。


歓声の中で、

傭兵は計算を始める。


人数。

鎧の質。

馬の数。

船腹の深さ。


――本気だ。


局地戦ではない。

嫌がらせでも、削り合いでもない。


決めに来ている。


旗が並ぶたびに、

空気が変わる。


昨日まで沈んでいた顔が、上を向く。

酒が開けられ、歌が戻る。

「これで押し返せる」と誰もが言う。


だが、傭兵は知っている。


大軍が来るということは、

戦場が広がるということだ。


削り合いが、潰し合いに変わる。


港の倉庫には槍が積まれ、

矢束が山になる。

鍛冶場の火が止まらない。


命令が増える。

陣形が引き直される。

伝令が走る。


戦争が、整い始める。


整う戦争は、長引かない。

だが、短い戦争ほど、死ぬ数は多い。


私は契約主の帳面を確認する。

報酬は増える。

危険も増える。


「お前らも乗るだろ?」


騎士団の副官が言う。

命令ではない。

確認でもない。


当然だろう、という声だ。


私は頷く。


傭兵に選択肢はない。

あるのは、

どこで死ぬかだけだ。


港の片隅で、あの少女が立っている。

今日は魚籠ではなく、水桶を抱えている。


人が増えると、水が減る。


目が合う。

彼女は、笑わない。


私は、目を逸らす。


大軍が来れば守られる。

そう思っている者は多い。


だが私は知っている。


軍が大きくなるほど、

守る対象は「街」になる。


個人は、その中に埋もれる。


角笛が鳴る。


今度は短く、鋭い。


出撃準備。


港から出る船の数が違う。

昨日とは比べ物にならない。


波が押し合う。


アイユーブ朝の船も、動いている。


向こうも分かっている。

これは嫌がらせではない。


決戦だ。


隣に立つ傭兵が笑う。


「でかいな」


私は答えない。


でかい戦争は、

でかい墓を作る。


空は青い。

海も穏やかだ。


だからこそ、重い。


昨日までの戦いは、

削る戦争だった。


今日からは、

奪う戦争になる。


旗がはためく。


祈りが響く。


歓声が波に溶ける。


私は剣を腰に収め、

最小の動きで船に乗る。


士気は上がっている。


だが私は知っている。


士気が最も高い時こそ、

最も多くの血が流れる。


――戦争が、大きくなった。

士気は上がった。


港は沸き、

旗は増え、

人々は「これで終わる」と口にした。


だが戦争は、

規模が大きくなるほど優しくはならない。


削り合いは、

やがて潰し合いに変わる。


希望は必要だ。

だが希望は、守ってはくれない。


第二話は、

決戦が始まる前の、

最も明るい時間を描いた。


その明るさが、

どれほど重いかを知らないまま。

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