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序章 - 破城槌の子守歌

戦争は、ある日突然始まるものではない。

それは音になり、匂いになり、いつの間にか日常の一部になる。


この話は、英雄の物語ではない。

勝利を讃えるためのものでもない。


ただ一人の人間が、

どうやって「戦場で生きる形」になってしまったのか――

その過程を、記録する。

夜の海は、音が少ない。

だからこそ、わずかな気配が際立つ。


ガレー船の舷側で、私は膝を折っていた。

櫂が水を噛むたび、船体が低く軋む。

甲板では騎士たちが祈りを終え、兜を被り直している。

誰も私を見ない。

ここでは私の様な女の傭兵は珍しくない。

それでいい。

戦場で視線は、無駄だ。


並走するアイユーブ朝の軍船が、闇の中に浮かんでいた。

帆は落とされ、櫂の動きは規則正しい。

距離は近い。

近すぎる。


私は立ち上がる。

音を立てないために、足裏から体重を移す。

大きな動きはしない。

それだけで、死ぬ理由が増える。


船縁に手を掛け、跳ぶ。

剣は抜かない。

抜く音も、構える時間も、ここでは贅沢だ。


着地。

濡れた甲板。

滑る。

だから、踏み込まない。


最初の男は、振り向かなかった。

顎の下に短剣を入れる。

深くは刺さない。

声帯が潰れれば、それで十分だ。


次。

二人。

刃を振らない。

肘、喉、脇。

倒すためではない。

動けなくするためだ。


剣がぶつかる音は立てない。

立てるのは、骨が鳴る音だけ。


私は走らない。

跳ねない。

必要な距離だけ、歩く。


一歩。

止める。

一歩。

崩す。


背後から掴まれた手首を、体ごと返して折る。

相手の刃が甲板に落ちる前に、膝を入れる。

倒れる方向まで見て、次の動線を空ける。


戦いではない。

作業だ。


ふと、匂いが変わった。

潮と血の向こうに、乾いた鉄の匂い。


甲板の中央に、男が立っていた。

背が高く、構えが静かだ。

刃を持つ手に、余分な力がない。


――手練れ。


周囲の兵が、自然に距離を取る。

誰も命じていない。

それだけで、分かる。


男は何も言わず、一歩踏み出した。

私は剣を正眼に置く。


最初の打ち合いで理解する。

速い。

正確だ。

だが、大きい。


挿絵(By みてみん)


刃が触れるたび、火花が散る。

彼は振る。

私は、ずらす。


肩を掠められる。

浅い。

問題ない。


次は足。

読みがいい。

だから、私は踏み込みを半拍遅らせた。


空振り。

その瞬間、距離が詰まる。


剣を捨てる判断は、彼のほうが早かった。

組み合いになる。

力が違う。

体重も。


それでも、私は知っている。

人は、ここが弱い。


肋骨の隙間に短剣を滑らせる。

深くは刺さない。

呼吸が乱れる深さで止める。


男は膝をついた。

それでも刃を離さない。


私は彼の額に頭突きを入れ、手首を踏み折った。

骨の音が、はっきり聞こえた。


静かになった。


残った兵は、来ない。

視線が甲板の奥へ集まる。


指揮官だ。

鎧が違う。

目が、よく動く。


私は血を拭わないまま歩く。

剣先を下げ、喉元で止める。


「動くな」


声は短く、低い。

彼は従った。


縄が投げられ、兵が慌てて受け取る。

手が震えている。

結び目だけが、固い。


仕事は終わった。


自分の船へ戻ると、遅れて歓声が上がった。

誰かが肩を叩き、誰かが名を呼ぶ。


私は答えない。

波の音を聞いている。


戦場で、私は異常だと言われる。

動きが小さすぎる。

躊躇がなさすぎる。


だが、それは性格ではない。


大きく動いた人間が、先に死んだ。

迷った人間が、刃を受けた。

正しさを考えた背中が、路地で倒れた。


そういうものを、子供の頃から見てきただけだ。


躊躇は感情ではない。

時間だ。

相手に与えてはいけない時間。


最小の動きは、美学ではない。

癖だ。

生き延びるために、削り落とされ続けた結果だ。


――そういう人間は、後から作られるのではない。

もっと前から、静かに作られている。


◆◆◆


私はアッコンで育った。

生まれた時から、戦争の中にいた。


港の鎖が引かれる音と、城門を叩く破城槌の衝撃が、子守歌だった。

乾いた木が軋み、鉄が鳴り、城壁の向こうで誰かが叫ぶ。

夜はそれで始まり、朝もそれで終わった。

眠りに落ちる前に聞くのも、目を覚ました瞬間に聞くのも、同じ音だった。


匂いは、いつも重かった。

血。

腐肉。

焼けた油。

濡れた革と、糞尿と、焦げた毛。

そこに潮の生臭さが混じる。

風向きが悪い日は、港の匂いと城外の死が、城内まで流れ込んできた。

それが日常だった。


子供らしい育ち方?

知らない。

そんな言葉があることを、ずっと後になってから知った。


私たちは遊ばなかった。

走るのは逃げるためで、隠れるのは生き延びるためだった。

笑い声はすぐに止んだ。

音を立てると、誰かが振り向く。

振り向く理由は、だいたい良くない。


母がいたかどうか、はっきり覚えていない。

女の背中の記憶はある。

髪はいつも潮と埃で絡まり、指は硬く、爪の間が黒かった。

抱かれた記憶より、引きずられた記憶のほうが多い。

安全な場所へ、ではない。

「邪魔になるな」という意味で。


剣を初めて握ったのは、七つか八つの頃だ。

重かった。

だが、重さはすぐに慣れた。

慣れないと死ぬ。


剣は教わらなかった。

見て、盗んで、真似た。

港や路地で倒れた死体の握り方、刃の角度、踏み込み。

大人たちは忙しかったし、子供に構っている余裕はなかった。


十二歳の時、初めて人を殺した。


城門の内側、倉庫裏だった。

薄暗く、瓦礫と血と潮で足場が悪かった。

相手の顔はよく覚えていない。

若かったと思う。

私よりは、ずっと。


短剣を持っていた。

向こうも、持っていた。

私が先に動かなければ、私が倒れていた。


刃を突き立てた感触は、今も覚えている。

柔らかいところに入った時の、妙な抵抗。

抜くときの、少しの引っかかり。


血は思ったより温かくなかった。

匂いも、いつも嗅いでいるものと変わらなかった。


何も感じなかった。

怖くも、嬉しくも、悲しくも。


ただ一つ、思ったことがある。

――これで、今日は生きられる。


それだけだった。


死体のそばに立って、息を整えながら、私は考えた。

これが戦争なのだ、と。

この街では、港の外で決められたことが、城壁の内側に降ってくる。

誰かが決め、誰かが命じ、そして私たちが死ぬ。


怒りはなかった。

憎しみもなかった。

それらは、余裕のある人間の感情だ。


やらなければ、やられた。

それ以上でも、それ以下でもない。


アッコンでは、それがすべてだった。


――そして私は、戦争の外を知らないまま、剣を持つ人間になった。

彼女の戦い方は、冷酷に見えるかもしれない。

最小の動き、躊躇のない刃。

だがそれは選び取った美学ではなく、

削られ続けた結果だ。


戦争は、人を壊す。

そして時に、壊れた形のまま「機能する」人間を生み出す。


この物語は、

その完成を描くためのものではない。

その始まりを、忘れないためのものだ。

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