第26話 安全地帯の蹂躙と散った大豆
今の俺は軽装備どころか、ただの作業着姿だ。
狩りを終え、装備を全て外して身軽になり、ほのままバケツを前にして投げ用の円形盾を洗っている最中だった。リザードマンを仕留めた際の返り血を清掃するためだ。
現場における「即時清掃」は鉄則。……だが、そのルーチンが仇となった。安全地帯が、一転して死のリングと化した。
「シャアアア……!」
死んだはずのリザードマンが、濁った瞳を剥いて起き上がる。魔石の暴走によるリミッター解除か、その一歩一歩が重い。
俺は近くの錆びついた剣をひっ掴み、左手には洗いかけで水と血が混じった「投げ用盾」を構えた。
こいつは、あのボス部屋の遺品を、俺が「投げ」と「腕への固定」の両立を目指して改造したものだ。だが、その中途半端な設計が裏目に出た。
アソビが大きすぎて、握って使うための「持ち手」がないのだ。
ガァンッ!
ゾンビの腕を盾で受けるが、固定されていない盾は腕の中で暴れ、ガタつきによる衝撃がダイレクトに手首を直撃する。
「ぐっ……! 一秒……一秒あれば腕に通せるのにッ!!」
その一秒が作れない。リミッターの切れた奴の猛攻は、修正作業の隙を一切与えてくれない。
ドッ!
横薙ぎの尻尾を盾で受けるが、ガタつくアソビのせいで衝撃を逃がしきれず、俺は大きく体勢を崩した。
ゾンビはその「致命的な隙」を見逃さなかった。
振り抜かれた尻尾の二撃目が、俺の盾を弾き飛ばし、がら空きになった胴体を直撃した。
「ぐおっ!」
身体が吹き飛ばされ、『業務用スチールラック』に叩きつけられた。
ガシャン! ギシィッ!
耐荷重300kgの梁がひしゃげる。だが、俺が絶望したのはラックの損壊ではなかった。
衝撃でフックから外れたリザードマンの死体が床に落ち、その下敷きになったのは、明日への希望として輝いていた「大豆の入ったポリ袋」だった。
バシャアッ!
重い死体が袋を破裂させる。
真っ白でふっくらと戻された、俺の貴重なタンパク源。それが床にぶちまけられ、ゾンビの撒き散らす汚泥と混じり合う。
清潔区域に、最悪の汚染が発生した。
「あああああ! 俺の豆がああああ!!」
絶叫した。
それはただの豆じゃない。俺の努力の結晶だ。それを、こんな不適合品に台無しにされた。
プツン、と。脳内で、何かが切れる音がした。
「てめえ……! よくも……俺が丹精込めて洗った豆を!! 許さんぞ!!」
俺は弾き飛ばされた「投げ用盾」を執念で引き寄せ、立ち上がる。
ゾンビがのそりと距離を詰めてきた、その瞬間。
「シールドバッシュ!!」
ガタつくグリップを腕力でねじ伏せ、スキルを乗せた盾を正面からぶち当てた。
ドゴォッ! と凄まじい衝撃がゾンビを弾き、一瞬の「隙」が生まれる。
俺は左手の盾を、本来の設計意図――『投擲』のために振り抜いた。
「足の腱でも切れてろッ!!」
ブォォンッ!
水で濡れた盾は、皮肉にも摩擦ゼロで指を離れ、一直線に奴に向かって飛翔し、狙い通りに足元を切り裂いた。
バシュッ!
エッジがリザードマンの足の腱を正確に断ち切る。バランスを失ったゾンビが、盛大に仰向けにひっくり返った。
逃がさねぇ。
俺は手にした錆びた剣を投擲し、奴の胴体に突き立てた。動きをさらに鈍らせた隙に、居住エリアに立てかけてあった真の相棒――『大盾』を掴み取った。
起き上がろうともがくリザードマンへ向け、全力で助走をつける。
この数日、シールドボードで鍛え上げた体幹と、蓄えられた全質量を一点に集中させる。
「俺のメタボパワーごと、くらええええええッ!!」
跳躍。
**俺の体重80kgと、鋼鉄の大盾。合わせれば0.1トンに迫る質量を乗せて、**大盾の鋭いエッジをゾンビの首へ叩き込んだ。
ドグシャアァァァッッ!!!
自重という名の暴力。
エッジはリザードマンの頸椎を叩き割り、断ち切り、そのまま床の石畳を粉砕した。
ゴトリ。
醜悪な頭部が、勢いよく吹き飛んで転がった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
俺は震える手でナイフを握り、首のない胴体から魔石を引きずり出した。
……どす黒い。凝固した血のように変色した石。
「魔石を抜かなきゃゾンビになって動くなんて、聞いてねぇぞッ!!」
教えてくれる奴なんて、この世界には誰もいない。だからこそ、この「理不尽な初見殺し」への怒りが爆発した。俺は、その黒い石を汚泥の海に叩きつけた。
ひしゃげたラック。血まみれの床。
そして、二度と食べられなくなった俺が2日間手塩にかけた白い大豆。
安全地帯は蹂躙された。
だが、俺の心は折れていなかった。
失われた大豆への哀悼と、未知の仕様への怒りが、今や生存本能すらも凌駕していた。




