第20話 炭水化物革命と三ツ星のスープ
翌朝。
といっても、このダンジョンに朝日は昇らない。
セーフエリアは常に薄暗い。例えるなら、満月の夜くらいの明るさだろうか。目が慣れればそれなりに周囲は見渡せるが、光の強弱がないため、時間感覚が麻痺してしまう。
頼れるのは、腕に巻いた時計の針だけだ。それが今、地上と同じ朝の訪れを告げていた。
快適なマイホーム(テント)のおかげで、目覚めは最高だった。
背中が痛くなければ寒くもない。そして何より、守られている安心感がある。
油断は大敵だが、これまでにないほどリラックスし、熟睡できた。や
たった一人でのサバイバルだ。睡眠不足は判断力を鈍らせ、死に直結する。
ここが「セーフエリア」だと信じるしか、まともに眠ることさえできないのが現実だ。もしその前提が崩れたら……いよいよあのミノタウロスの時のように、怯えて隠れ続けるしかなくなる。
その最悪の可能性については、今は考えないようにしている。それが現実になるのは、本格的に脱出するため、ダンジョンの入り口へ逆進行する時だけであることを、今は祈るしかない。
別に、ここでのんびりスローライフを満喫したいわけじゃない。
脱出するためには、十分な食料備蓄と体力が不可欠だ。今後、保存食の作成も視野に入れているが、まずは「今」食べるものの確保だ。
俺は大きく伸びをして、テントのファスナーを開けた。
ひんやりとしたダンジョンの空気が流れ込んでくる。
俺は昨日買った『EVAサンダル』を突っかけとして履くとテントの外へ出た。
軽い。まるで裸足のような開放感だ。テント周りの作業には、この気軽さがありがたい。
だが同時に、「防御力ゼロ」の心もとなさも感じる。
普段履いている「安全靴」は、つま先に鋼鉄の先芯が入っている。
だからこそ、スケルトンの骨を蹴り砕いても平気だったし、岩場でつまづいても爪が剥がれたりしない。
「作業靴」のカテゴリには、見た目がスニーカーと変わらない軽量タイプも売っているが、今の俺にはこの重厚な革と鉄の靴が必要だ。
このダンジョンにおいて「安全靴」は、立派な「足の鎧」なのだと再認識する。
だが、今は拠点の中だ。束の間の休息として、この軽やかさを楽しもう。
俺はサンダルをぺたぺたと鳴らし、カマドの脇へと急いだ。
そこに置いておいた、水切りのザル。
一晩、純水にさらして薬剤とアルコールを抜いた、種芋と乾燥大豆がそこにある。
見た目はふっくらとして、薬品臭さも消えている。水を含んで膨らんだ豆と、切り口が白く洗われた芋。
「……よし。バリデーション(最終確認)、開始だ」
まずはスープだ。
新設したブロックカマドに炭を熾し、昨日買ったばかりの『ステンレスクッカーセット』の鍋を乗せる。
中に戻した大豆を入れ、純水をひたひたに注ぎ、粗塩をひとつまみ。
そして、ホーンラビットの骨がついたままの肉片を、いくつか放り込んだ。出汁代わりだ。
やがて、コトコトと豆が煮える音と共に、優しい香りが立ち上ってきた。
塩と、わずかな肉の旨味が溶け出した、ただの豆スープ。
俺はそれを、昨日買った『シェラカップ』に注ぎ、ふーふーと冷ましながら、一口すすった。
「…………うまいっ!」
温かい。
そして、優しい塩味が、空っぽの胃にじんわりと染み渡っていく。
豆はまだ少し硬いが、それがまた食べ応えになっている。肉片から出たわずかな脂が、スープにコクを与えていた。
今の俺にとって、これは三ツ星レストランのポタージュにも勝る、極上の一皿だった。
スープで胃を温めた後、いよいよ主食――芋に取り掛かる。
鍋を下ろし、今度はクッカーセットのフライパンを火にかける。
ステンレス製なので、油断すると焦げ付く。
だが、俺には「兎のラード」がある。
取っておいた脂身を熱したフライパンに滑らせ、十分に油を馴染ませる。
そこに、厚めに切り分けた種芋を並べていく。
上から粗塩をパラリと振りかけ、水をほんの少しだけ注ぐ。
蒸し焼きにするため、セットに付属していたステンレスの蓋を被せた。
カタカタと軽い音がする。密閉性は低いが、盾を乗せるよりはずっとマシだ。
数分後、芋の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
蓋を取ると、見事な焼き色がついた、ホクホクの芋が顔を出す。
完璧だ。
だが、ここで問題が発生した。
「……入れる皿がない」
スープはシェラカップで飲んだが、芋を盛る皿がない。またフライパンから直接食うのも味気ないし、シェラカップは汁で濡れている。
昨日買ったキャンプセットには皿はついていなかった。
俺は「アウトドア」カテゴリの「食器」コーナーを開くが、どれもお洒落な値段設定だ。皿一枚に数百ポイントも出したくない。かといって安価なペラペラのプラスチック皿には、妙な意地で手を出したくなかった。
俺なりのこだわりだ。
「……待てよ」
俺は思考を切り替えた。
何も「食器」として売られているものを買う必要はない。
要は、熱に強くて、洗えて、食品を乗せられればいいんだ。
俺は「塗料・塗装用品」カテゴリを開いた。
狙いは、塗料を小分けにしたり、刷毛を洗ったりするためのトレイだ。
『ステンレス製 角型トレイ(万能バット)』:100 PT
これだ。
本来はネジやパーツを入れたり、塗料を混ぜたりするための金属の皿。
だが、素材はステンレス。衛生的だし、頑丈だし、何より安い。
学校給食の食器や、インドカレーの銀皿だと思えば、何の問題もない。
「ポチっとな」
光と共に現れた、無機質な長方形のトレイ。
俺はそこに、出来立ての芋を盛り付けた。
見た目は完全に「作業現場の配給食」だが、今の俺にはお似合いだ。
愛用のチタン箸で一つ摘み、口に運ぶ。
……!
薬臭さも、苦味も、えぐ味も、何もない。
ただ、ホクホクとした芋の甘みと、それを引き立てる塩の味。そして、ラードが与えた、かすかな獣の風味。
「……芋だ。炭水化物だ……」
普通だ。普通に、美味い。
肉だけでは得られない、脳のエネルギー源が満たされていく感覚。
毒抜き実験は成功だ。これで、食糧事情は劇的に改善する。
最後に、俺は一つの実験を試みた。
アルコール漬けにしておいた、あのブルータルボアの肉。これも同じように、塩を振って焼いてみた。
だが、結果は同じだった。
「…やっぱり、不味いな」
硬く、獣臭さが抜けきっていない。食えなくはないが、美味いとは到底言えない。
血抜きをしたのが死後硬直の後だったからか、それとも魔物のランクによるものか。
まあいい。これは非常食としてキープだ。
俺はノートに検証結果を書き込み、満たされた腹をさすった。
食料問題は、ひとまず解決の目処が立った。住環境もテントで改善した。
ならば、次は「守り」の強化だ。
俺は、昨日寝る前に書き記したノートのページを開いた。
【鎧(胸当て)の製作】
材料案:鉄板、ゴムシート、革ベルト…
腹は満ちた。思考もクリアだ。
今日は建築に続き、鍛冶仕事の日にしよう。




