第2話 空腹とホームセンター
「……はぁ、はぁ。……クソッ」
ガシャン! ドサッ!
俺は背負っていた大盾と、両手の盾を地面に放り出した。半日ぶりに解放された肩と腕が、悲鳴のような痺れを訴えてくる。
結局、戻ってきてしまった。
半日歩き回った末、見覚えのある巨大なアーチ状の入り口が見えてきた時は自分の目を疑った。何となく円形の場所を歩いているような気はしていたが、どうやらぐるっと一周したようだ。
確認すべく、恐る恐るその奥を覗き込むと、広大な空間の中央に、あの白い巨塔――ドラゴンの骨が鎮座しているのが見えた。
間違いない。スタート地点だ。
このダンジョンは、巨大な蛇の巣のようにループしているのか、あるいは俺がただの方向音痴なのか。
いずれにせよ、無駄足だった。
重いだけの鉄塊をガチャガチャ言わせながら歩き回り、得たものはゼロ。いや、マイナスだ。体力と水分をごっそりと持っていかれた。
ぐぅぅぅ、と腹の虫が情けない音を立てる。
だが、空腹はまだマシだ。
このたるんだ中年太りの腹には、有り余るほどの「備蓄」がある。強制的なダイエットだと思えば、少しはスリムになれて悪くないかもしれない。
……そんな冗談を考えられるうちは、まだ精神的に余裕がある証拠か。
深刻なのは、渇きだ。
唇はひび割れ、喉はカラカラに乾ききっている。唾を飲み込むことさえ億劫だ。
人間、食わなくても数週間は生きられると言うが、水がなければ三日も持たない。すでに半日以上飲んでいない上に、この重装備での運動だ。
もって、あと一日。
それを過ぎれば、俺は動くことさえできなくなるだろう。緩やかな死刑宣告が迫っていた。
「……何か、ないのかよ」
壁に背中を預け、ずるずると座り込む。
このゲームのような理不尽な状況を打開する、都合のいい何かが。
俺は、テレビゲームに育てられた世代だ。リアルドラクエ世代のおっさんをなめるなよ。
すぅ、と息を吸い込む。かつて、友人の前でやるには少し勇気が必要だった、あの言葉。
藁にもすがる思いで、虚空に呟く。
「ステータス、オープン」
………。
しん、と静まり返る空間。
「だよな。そんなわけ……」
言いかけた俺の目の前に、ふわり、と半透明の青い板が浮かび上がった。
「うおっ!?」
思わず仰け反り、ヘルメットが壁に当たる。
そこには、見慣れた業務管理ソフトの画面のように、無機質なゴシック体の文字が並んでいた。
名前: 佐東 柾
年齢: 50
レベル: 1
筋力: 100
賢さ: 80
敏捷: 40
体力: 80
魔力: 15
スキル: なし
ギフト: 異世界ショッピング
「……マジかよ」
自分の名前と、不惑をとうに過ぎた年齢。間違いない、俺のステータスだ。
レベル1。やはり俺は、ただの一般人らしい。
パラメータは比較対照がいないので、今は意味をなさない。
とりあえずレシートの裏にメモを取る。
だが、一番下にある項目。これが俺の目を釘付けにした。
「ギフト……異世界ショッピング?」
これだ! この状況を打開できる唯一の希望!
俺は震える指でその項目に触れようとして、ウィンドウがただの映像であることに気づく。念じればいいのか?
「ショッピング、開け!」
目の前の表示が切り替わり、現れたのは……見慣れたロゴと、商品棚の写真。
巨大ホームセンター苦天市場のオンラインストアだった。
「おおぉ……!」
助かった。これで水も食料も……。
俺は食い入るように画面を見つめる。「工具・金物」「資材・建材」「農業・園芸」「塗料・補修材」……。
ずらりと並んだカテゴリに、俺は愕然とする。
想像していた「ポーション」や「冒険者セット」とは似ても似つかない。
検索窓に「水」「パン」と打ち込むが、返ってくるのは『該当する商品はありません』という無慈悲な文字列。
代わりにヒットするのは「工業用精製水(バッテリー補充液)」や「浄水器フィルター」、「パン焼き窯の作り方(耐火レンガ)」など。
どうやら、直接口にできる「完成された食料品」は一切売っていないらしい。あくまで「ホームセンター」の品揃えだ。
絶望が、どっと押し寄せる。
だが、長年染みついた品証部のしぶとさが、俺を繋ぎとめた。
買えないなら、どうする?
作るか、現地調達して加工するかだ。
俺は「農業・園芸」のカテゴリを開いた。そこには「ジャガイモの種芋」があった。
最悪、これを齧れば……いや、種芋は防腐剤処理がされている可能性がある。危険すぎる。
それに、何をするにも今の俺には足りないものがあった。
『ポイントが不足しているため、購入できません』
カートに入れようとするたびに表示される、赤い警告文。
だよな。タダで買えるわけがない。
レベルがあるということは、経験値がある。敵を倒せば、おそらくこの「ポイント」とやらが手に入る。
結論は出た。
「敵を探し、倒してポイントを稼ぐ。そして資材を買って生き延びる」
腹は減っている。体力も消耗している。だが、ここで座して死を待つくらいなら、活路を求めて動くべきだ。
そう決意した、その時だった。
ふと、背中を預けている壁のあたりから、冷気が流れてきていることに気づいた。
「……風?」
ごく微かだが、確かに空気が動いている。
空調設備もない地下空間で、一定方向からの風。
俺は半信半疑のまま、ズボンのポケットから財布を取り出し、一円玉を一枚つまみ出した。
このダンジョンには、石ころ一つ落ちていない。だから、手持ちの小銭を使うしかない。
風上と思われる一点を狙い、軽く放り投げる。
カツン、と跳ね返る音を予想して。
ヒュッ……。
一円玉は、壁にぶつかることなく、まるで水面に落ちるかのように音もなく吸い込まれて消えた。
「……ビンゴだ」
乾いた笑いが漏れる。
認識阻害の魔法か、幻影か。仕組みは分からないが、現場検証の結果はクロだ。物理的な遮蔽物はない。
俺はゆっくりと立ち上がり、震える手で壁に触れてみる。
指先が、何の抵抗もなく壁の向こう側へとすり抜けた。
行くべきか。
このままここにいても、敵はおらず、ポイントも稼げず、待っているのは渇えによる死だ。
ならば、リスクを取ってでも「変化」を選ぶ。それが、トラブルシュートの鉄則だ。
「ええい、ままよ!」
俺は腹を括り、装備し直した盾を構え、幻の壁に全身を滑り込ませた。
視界がぐにゃりと歪み、一瞬の浮遊感。
次の瞬間、俺が立っていたのは、これまでとは明らかに違う、広大な空間だった。
「……広いな」
所々に天然の柱のような岩や、間仕切りの壁があって全体は見渡せないが、とてつもなく広い。天井は見えないほど高く、奥行きも知れない。
野球場はおろか、東京ドームだってすっぽり入るんじゃないか?
だが、感心している場合じゃない。
俺はすぐに振り返った。
今、抜けてきた壁。こちら側から見ると、ただの岩肌にしか見えない。
最優先事項は「退路の確保」だ。一方通行なら、進んだ時点で詰む。
「戻れるか……?」
俺は恐る恐る、壁に向かって手を伸ばした。
ヌルリ。
指先が吸い込まれる。抵抗はない。
そのまま一歩踏み入れると、何の違和感もなくすり抜けた。
そして振り向くと、やはり壁にしか見えない。
再び壁を抜けたが、違和感は最初だけだった。
「よし……」
安堵の息が漏れる。戻れる。何かあれば、ここに逃げ込めばいい。
退路の確認、ヨシ。
改めて正面に向き直る。
先ほどまでの淀んだ空気とは違う。
奥から吹き付けてくる風は強く、そして、はっきりと湿り気を帯びていた。
「水……!」
希望が、乾ききった心に突き刺さる。
この湿度。この先に、水源がある可能性は極めて高い。
俺は逸る気持ちを抑え、ヘルメットの顎紐をカチリと締め直した。
水があるということは、そこは動物――いや、魔物にとっても絶好の給水ポイントだということだ。
『敵を倒して、レベルを上げて、ポイントで食料を買う』
その計画を実行に移す時が来たようだ。
俺の腰には、ホームセンターで買ったばかりの新品の「電工ナイフ」がある。リーチは短いが、切れ味は保証付きだ。
スライムか、ゴブリンか。
今の俺でも勝てる、手頃な「獲物」がいてくれよ。
そいつが、俺の最初のジャガイモ代になるんだ。
俺は歩く要塞として、ガチャガチャと音を立てながら、湿った風の吹く広大な空間へと足を踏み入れた。
その先に待つのが、初心者など到底太刀打ちできない「絶望」だとも知らずに。




