ドラゴンがコンビニでバイトしてるんだが
深夜二時のコンビニは、思っているよりも静かじゃない。
冷蔵ケースはひそひそ話をするようにブーンと鳴き、コーヒーマシンはときどき自分の存在を主張するみたいにプシューッと息を吐く。床に反射する蛍光灯の白さは眠気を誘い、外の信号は赤→青→黄色を淡々と繰り返している。
――そんな世界の端っこみたいな時間に、俺の同僚は尻尾を出す。
「直人。おでん、湯が甘い。火を――いや、温を上げたい」
「“温を上げる”って言い方やめろ。あと尻尾、出てる出てる!」
黒髪で背が高く、制服の袖から覗く手首はどこか金属みたいに硬質だ。同僚――リンドブルムは、苦い顔で慌てて尻尾を引っ込めた。彼はドラゴンだ。正真正銘、空を翔ける大いなる竜。いまは訳あって人間の姿で、うちのコンビニ「マートK・水無町店」で夜勤アルバイトをしている。
「お客さまに尻尾を見せるなって何度言えば……」
「緊張すると、つい末端から魔力が……。ほら、湯気でごまかせないか?」
「おでんの湯気と尻尾の鱗を並列にするな。あと“魔力”とか言うな」
俺は急いで消臭スプレーをシュッと振る。硫黄っぽい、ほんのかすかな匂いが空気に溶けていった。
名札には〈古賀直人〉。大学二年、授業とサークルの合間にシフトを埋める、ごく普通のバイトである――ドラゴンの同僚がいなければ、たぶん。
「いらっしゃいませー!」
自動ドアが開いて、夜中テンションの大学生三人組が入ってくる。深夜の客はだいたいテンションがおかしいし、買うものもおかしい。ホットスナックと紙パックのコーヒー牛乳、それにスパイシーなスナック菓子、それからなぜかしらたきだけを単品で。
うちの一番人気はホットケースのから揚げだけど、彼らは毎回、炎で炙ってほしいと頼んでくる。
「兄ちゃん、今日も“竜炎あぶり”いける?」
「法律に触れるから“電子レンジ仕上げ”でお願いします!」
俺が先んじて釘を刺すと、レジ横の相棒が不満顔で鼻を鳴らした。
鼻息でホットスナックの紙袋がふわふわ浮いたので、俺はさりげなく手で押さえる。
「直人、文化が違うのだ。ドラゴンの里では火で炙るのが礼儀正――」
「ここは水無町。人間界。礼儀は“年齢確認ボタン”から学び直せ」
「年齢確認ボタン……押すたびに心が痛む」
「なぜ」
「『はい』を押すだけで“責任を負った気”になってしまうからだ」
「哲学すんな」
大学生たちは笑いながら代金を置いていった。レジの小銭受け皿に、きらっと違う銀が混じる。一瞬、俺の視界に“別の模様”が浮かぶ。
魔界の通貨だ――と、俺は思う。普通の人には見えないはずのもの。俺には見える。彼のおかげで、少しだけ。
「兄ちゃん、お釣りいらないよ。いつも炎で盛り上げてくれるから」
「炎は提供してません。ありがとうございました」
大学生たちが自動ドアに吸い込まれていった。夜風がひゅうっと店内に細い線を引く。風に混じって、微かに、微かに。鱗が擦れるみたいな音がした。
「また、向こうの気配が濃くなってる」
リンドブルムの声が低くなる。
向こう――魔界。境が薄く、重なってしまう場所がある。古い交差点、川沿い、そして――なぜかコンビニ。光と出入りが一定のリズムで続く場所は、扉になりやすいのだと彼は言った。
「俺がここにいるのは、見張りのためでもある」
「知ってる。けど、もう少し“普通のバイト”っぽくしてくれ」
「普通のバイト……たとえば?」
「無駄に声は大きくしない、火を吹かない、尻尾を出さない、異世界語で『いらっしゃいませ』と言わない」
「わかった。では、精進しよう」
そう言って彼は胸に手を当てた。胸板に甲冑みたいな硬さが一瞬だけ浮かび、すぐに制服の上で消えた。
◇
リンドブルムがこの店に来たのは、三か月前だ。
最初の出会いはもっと混沌に満ちている。俺が裏で段ボールをまとめていたら、天井の蛍光灯がパチパチと瞬いて、真昼間なのに店内の空気が夜みたいにしっとり濃くなった。自動ドアの向こうに黒い影。見知らぬ男が入ってきて、何も買わずにレジの前に立ち、そして――
「おまえは、鍵だな」
と言った。俺の胸の中に冷たい指が入ってくるみたいだった。
そこへ、リンドブルムが現れて、彼は男の耳元で短く「帰れ」と囁いた。
男はまるで糸が切れた操り人形みたいに崩れ、ドアの外へ吸い込まれていった。次の瞬間には陽光が戻り、コーヒーマシンがいつも通りのプシューを言った。
「俺はリンドブルム。ここに働きにきた」
「いま救われたのは俺だよな? 面接は? 履歴書は?」
「火で炙った」
「炙るな」
そんな感じで、彼は店に居ついた。店長は「異様に頼りになる若者だな」くらいの認識で、正体には気づいていない――たぶん。
◇
午前三時、雑誌コーナーに挙動不審の客。
黒いサングラスにマスク、今どき珍しい変装フルセット。
俺が「いらっしゃいませ」と声をかけると、男は肩を震わせ、棚からコミック雑誌を一冊抜き取り、そのままポケットに突っ込んだ。
「お客さま、こちらレジにお持ちくださいね」
穏やかに声をかけながら近づくと、男はポケットから黒い札束を出した。
見える。紙幣に描かれているのは、知らない王の横顔。額の角。遠い砂漠の花。――魔界の貨幣だ。
「こちらではお使いになれません」
背後からリンドブルムの声。低く、乾いていて、火山の底みたいな響きが混じる。
男は顔を上げた。眼鏡の向こうの瞳孔が縦に割れた。
次の瞬間、男は落ちた紙幣を踏んで滑り、そのままドアの外へゴロゴロ転がっていく。ドアに貼ってある〈悪質な客は出入り禁止!〉のシールが、意外な説得力を持って見えた。
「助かった」
「直人、魔の匂いが強い。今夜は気をつけろ」
「もう十分気をつけてるつもりなんだが……」
俺は“異界通貨没収袋”――とマジックで書かれた普通のチャック袋を取り出し、黒い札束を収めた。控えの紙に日付と時間を書き、〈供物箱〉と書かれたダンボールの奥にしまう。供物箱は雇用契約書の裏にこっそり置いてある。店長は「ゴミ袋の予備入れ」と思っている。実際、半分はそうだ。
◇
四時を回ると、酔っ払いのラッシュが小波みたいに終わり、おでんの匂いが店の空間を支配する。
俺はフライヤーの油をチェックし、ポテトの残りを新しいバットに移し、ホットスナックのトングを拭いた。リンドブルムは真剣な顔でおでん鍋の温度計を覗き込んでいる。
「七十八度。肉厚の大根に、熱が芯まで通る完璧な温だ」
「おお、今日は“温”の使い方が正しい」
「成長している」
褒めてほしそうに胸を張るので、俺は親指を上げた。
そのとき、ドアベルが軽く鳴った。短い足取りの常連さん――春江さんだ。
「おはようねぇ、若いの。タバコの七番と、あとは……から揚げ五個。炎で」
「レンジで」
「レンジで」
俺と春江さんのハモりを受けて、リンドブルムが肩を落とす。
が、すぐにトングを持つ手がぐぐっと気合いを取り戻す。
「春江殿。から揚げは出来立てが最上。揚げてから二分以内が黄金の……」
「若いの。あんた、たまに“中の人”が出るねぇ」
「中の人はいません」
春江さんはクスリと笑った。リンドブルムはから揚げを丁寧に紙袋へ。トングを持つ手、器用だけど、爪は隠しきれていない。白い爪の先に、微かな虹色の光が揺れた。
春江さんは見て見ぬふりをして、お釣りを財布にしまう。そして俺の顔をちらりと見てから、ぽつりと言った。
「若いの、危ない夜は早めにシャッター下ろしな」
「え?」
「空気が、ちょっとね。ざらついてる」
春江さんはそう言って出て行った。
リンドブルムと目が合う。彼の瞳孔が、ほんの一瞬だけ縦に細くなる。
「感じる人は、いる」
「やっぱり、増えてるのか、向こうの……」
「境が薄い。原因はまだ掴めない」
彼はおでん鍋を見たまま、小さく舌打ちした。
◇
五時。新聞配達が来て、冷たい朝の匂いが入り込む。
トラックが信号で止まる音。ラジオ体操のテーマ。空が白んでいく。
俺は雑誌の差し替えをし、新聞の帯を切り、レジの点検をする。すると――
ピン……と空気が張った。
ビニール袋をこすったみたいな、静電気の直前の匂い。
「直人、下がれ」
リンドブルムが低く言った。次の瞬間、天井の蛍光灯が同時に一度だけ明滅し、外の音がすべて薄い膜の向こうに遠のいた。
自動ドアのガラスがゆっくりと波打つ。ガラスの“向こう”に、別の景色が映った――黒い空、逆さの街路樹、そして、灯りのない並木道。
「結界だ」
リンドブルムが言った。
店の外の世界が、少しだけズレた。俺の心臓がドラムみたいに鳴る。
「対象指定:マートK・水無町店。局所隔離」
声がした。
レジ前に、先ほどの“黒い男”とは別の影が立っている。煙みたいなマント。肩のところに、逆さの月の紋章。目は空洞で、その内側で火が逆向きに燃えていた。
「人間の集積点は良い“門”になる。ここで一晩、露店でも開くとしよう」
「露店……?」
「夜市だ。闇市とも言う」
そいつは薄い笑いを浮かべ、雑誌ラックに手を伸ばした。透明な指が紙を通り抜け、何冊かが黒い袋のようなものに飲み込まれる。
俺は無意識に一歩踏み出していた。レジの引き出しを閉め、言う。
「ここは――店だ。勝手に持っていくな」
声が震える。手のひらが汗でぬるつく。
そのとき、隣で、コンビニの制服が裂ける音がした。
「店は、俺の縄張りだ」
リンドブルムの背中に、縦長の影が立ち上がった。制服の背面が裂け、その内側から黒曜石みたいに滑らかな鱗が覗く。人の髪に隠れていた角が、低く鋭い音を立てて伸びた。
彼はまだ“人の姿”を保っているが、その輪郭はドラゴンのものに重なり始めている。
「帰れ。ここはおまえたちの夜市じゃない」
黒い影は首を傾げると、にやりと笑った。
「面白い。竜か。門番にしては質がいい。ならば――少し、踊ろう」
床が下から持ち上がったみたいに波打ち、商品棚がかすかに浮いた。天井の蛍光灯が逆さにぶら下がる。
――店が、ひっくり返っていく。
「直人、レジ裏!」
リンドブルムの叫びと同時に、俺はカウンターを飛び越え、レジ裏に転がり込んだ。すぐそばの棚から落ちた消臭スプレーが頭に当たる。
店内がゆっくり回転した。なのに、俺の足はしっかり床を踏んでいる。不思議な“重力の再配分”。異界の結界は、物理のルールを勝手に書き換えるらしい。
「直人。あれを」
リンドブルムが顎で示したのは――おでん鍋。
「は?」
「出汁。祓いに効く」
「出汁が?」
「昆布と鰹、それに甘い醤油は、人の生活の積層だ。日常の味は強い」
「理屈はわかるようなわからないような!」
俺は鍋の横のレードルを掴み、ぐるりとかき混ぜた。湯気が上がる。確かに、匂いが強くなるほど、さっきまでの静電気みたいな空気が薄まった気がする。
黒い影が笑う。
「人間界の汁物で祓えると思うな」
「思ってる。ここのおでんはうまい。常連が毎日、少しずつ“日常”を落としていく。塩も、だしも、あいさつも、全部溶けてる」
自分でも何を言っているのかわからないが、言葉は勝手に口から出た。たぶん、リンドブルムが口にした理屈の受け売りだ。
俺はレードルですくった出汁を、床にさっと撒いた。
じゅっと音を立てて、黒いシミが後ずさる。
「効いてる!」
「もっと!」
俺はレジ袋をいくつか広げ、即席の“出汁爆弾”を作り始めた。レードルで出汁を注ぎ、口を固く結ぶ。床に散らした時の“効き”から、量の配分もつかめてくる。
影が手を振る。風が逆向きに吹いて、出汁袋が宙に浮く。
リンドブルムが一歩進み、爪先でそれを弾いた。袋が破れて出汁が霧になって広がり、空気のざらつきがさらに剥がれる。
「直人、レンジも使え」
「レンジ?」
「出汁を温めれば香りが強くなる。匂いは境界を上書きする」
「“香りの上書き”ってパワーワード」
俺は耐熱容器に出汁を注ぎ、電子レンジの前に立つ。
500Wか600Wか、一瞬迷って――ここは“コンビニ標準”の500W。スタートボタンを押すと、軽快な回転音が始まる。レンジの小窓に、ほの黄色い光。
背中で空気が裂ける音がした。リンドブルムが影と渡り合っている。爪と薄刃の音。火花ではなく、黒い霜のようなものが飛び散る。
「直人、三十秒経ったら開けるな。香りを“溜めろ”。そして一気に!」
「了解!」
ピッ、ピッ、ピッ――
扉を開けた瞬間、湯気と一緒に、醤油と昆布の香りが爆発した。
俺はその“香りの塊”を、レジ前に渦を巻いている黒の中心へ向けて、うちわで扇いだ。コンビニの備品のうちわは夏祭りの広告が印刷されている。“町内会夏祭り”。
香りと“日常”。影はひるんだ。ほんの一瞬、ひるんだ。
「今だ!」
リンドブルムが制服の前を引き裂き、胸から黒い光を放った。人の姿の覆いが剥がれ、巨大な輪郭が店内の空間いっぱいに広がる。
視界が黒曜石の翼で埋まり、喉の奥に赤い星がまたたいた。
ドラゴンの咆哮――ではない。彼が吐いたのは、音のない火。
火は影を焼かず、影の“縫い目”を炙った。黒いマントの内側に隠れていた糸が切れ、結界の端がほつれていく。
「くっ――!」
影が後退する。
が、すぐに周囲の棚が一斉に浮き、商品が宙に舞い上がった。ポテトチップス、栄養ドリンク、レトルトカレー、雑誌、ガム、傘。
それらが黒い帯に絡め取られて、刃に変わる。
「商品に手を出すな!」
俺は思わず叫び、モップを掴んだ。
モップの柄は長い。モップはすべる。床は――おでんの出汁でしっとり。
俺は柄で黒い帯をはたき、滑って転びそうになりながら、出汁袋を次々に投げた。袋が空中で弾け、霧になって漂う。
影が苛立ったように大きく手を振った。空気が逆巻き、結界の重力がまた変わる。床が天井になり、天井が床になる――その瞬間、背中をどん、と押された。
「直人!」
巨大な掌。鱗の感触。
俺はレジの内側に押し戻され、リンドブルムの黒い翼が俺の前に壁を作る。
翼は熱くない。むしろ、夏の夜のアスファルトみたいに、少し冷えていて、落ち着く温度をしていた。
「俺の後ろに」
「おまえの背中、汚れない?」
「汚れたっていい」
短い会話。
次の瞬間、リンドブルムが翼をたたんで踏み込み、低く、短く、唸った。その声は、床の下に眠る地層を震わせるみたいに深い。
黒い影が一歩退く。
――その隙に、店の外で何かが鳴った。金属の軽い音。自転車のブレーキの音。
結界が完全じゃない。外の世界が近い。
ピロリン。
レジが鳴った。
え? と思った瞬間、レジの画面に“年齢確認”のポップアップが表示された。――違う、違う。ポップアップじゃない。画面の奥から、光が一筋、にじむ。
春江さんだ。
自動ドアの向こうで、自転車を支えながら、片手でスマホを掲げている。画面にはうちの店の“レビュー画面”。〈ここの店員さん、親切!〉〈夜も安心!〉〈おでんがうまい!〉――誰かが書いた文字が、光の粒になって結界の表面に刺さっていく。
「若いの。店はね、町の誇りなんだよ」
春江さんの声。
他にも人影が見えた。新聞配達の兄ちゃんがヘルメットを両手で持ちながら見上げている。清掃の人。朝ランの若者。通学前の女子高生たち。
彼らの視線と声が、薄い膜の外から、こちらへ。
「炎で炙らないけど、ここ、いい店だよ!」
「から揚げ、うまい!」
「店長のポスター、もっと明るいのに変えたほうがいいと思うけど!」
「それ俺も思ってた!」
どういうことだ。
外の声が、内側の空気を振動させる。結界の“外圧”。
皆の“日常”が、こっちに手を伸ばしてくる。
「直人」
リンドブルムが言った。
彼の目は赤い星の余韻を残しながら、俺をまっすぐ見ている。
「店は、一人のもんじゃない」
「知ってる」
「俺は、門番だ。けど――この町が店を守るなら、俺たちは勝てる」
「じゃあ、やることは一つ」
俺はレジの〈お客様ボタン〉を押した。ピロリン。鳴る。
鳴るたびに、外の声が少しだけ近づく。
俺はカウンターの上に、から揚げの新しいバットを置いた。
油は適温。衣はひび割れ、肉汁の匂いが世界のひずみに入り込む。
「いらっしゃいませ!」
叫ぶ。
リンドブルムが翼を一閃させ、黒い帯を断つ。俺は出汁袋を投げ、レンジを回し、出汁の香りを渦にして扇ぐ。春江さんが外から「がんばれー」と言い、女子高生の一人がスマホでライブ配信を始め(やめろ)、新聞配達の兄ちゃんが「この店の朝刊、今日も完璧!」と叫ぶ(何の応援だ)。
「くだらない」
影が吐き捨てる。
だが、その声は少し震えている。
結界の縫い目がどんどん緩んでいく。外の朝の匂いがじわりと内側へ入り込み、逆さの街路樹がまっすぐに戻ろうとしている。
「退け」
リンドブルムが低く言い、前へ出る。
彼の喉の奥で、赤い星がもう一度、今度は大きく膨らむ。
影が腕を広げた。黒い袋がいくつも風に舞い、商品がまた巻き込まれ――いや、違う。巻き込まれそうになった瞬間、商品たちは“落ちた”。
落ちた先は、レジカウンターの上。俺が伸ばした手のひら、そして――
「リンド、これ!」
俺は“から揚げ五個入り”を投げた。
紙袋は空中でくるりと回転し、リンドブルムの翼の付け根にすっと収まる。
彼は袋を顎で軽く挟み、ぐぐ、と嚙んで――飲み込んだ。
「美味。力になる」
「なるのかよ」
「油と塩、日常の最適比」
「栄養補給が雑!」
笑ってしまう。
笑うと、怖さの一部が溶ける。
リンドブルムが翼を広げ、その陰が店内を覆う。翼の裏側に、うっすらと古い文字が浮かんだ。ドラゴンの言葉だ。火と空と時間の列。
彼が吠える。音のない火が、黒い影の縫い目を断つ。
「帰れ」
短い一言。
影は薄く笑い、肩をすくめ、ふっと溶けた。
次の瞬間、天井の蛍光灯がカチ、と音を立てて戻り、外の車の音、鳥の声、パン屋の開店準備の香りが一気に流れ込む。
結界が、解けた。
◇
静けさが戻ると、逆に耳がキーンとなる。
俺はどっと汗が出て、レジカウンターにへたり込んだ。
リンドブルムは翼を畳み、角を引っ込め、人の輪郭に戻る。破れた制服がみすぼらしい。俺は慌てて裏の予備制服を持ってきた。
「サイズ、合うか?」
「合う。人間変身モジュール、適応範囲が広い」
「モジュールって言うな」
着替え終わった彼は、いつもの“少しどこかが違うイケメン”に戻っていた。
外から春江さんが入ってくる。自転車を店の前に停め、カウンターに肘をついて、にやりと笑う。
「若いの。炎で炙らないから安全ね」
「そういう問題では……ありがとうございます」
「お礼は、から揚げ一個でいいよ」
「権利の主張がさすがです」
女子高生の二人組も顔を出す。「朝から配信、伸びたー!」とか言っている。新聞配達の兄ちゃんは「結界とかよくわかんないけど、今日も間に合った!」と親指を立てた。
店長がやってきて、店の様子を見回し、首をひねる。
「なんか……朝から繁盛してるな。いいことだ」
店長。あなた、さっきまで店が結界に閉じ込められてたんですよ。
言いかけて、飲み込む。
店は、日常に戻っていた。
◇
午前八時。交代の時間。
俺とリンドブルムは店の前で深呼吸した。朝の空気は冷たくて、鼻の奥がつんとする。通学の列が伸び、横断歩道で信号を待つ人たちの背中が少し丸い。
「直人」
「ん」
「ありがとう」
「何を」
「一人では、押し返せなかった」
「俺は出汁を撒いてただけ」
「その出汁が要だ。日常は、俺では作れない」
彼は少しだけ笑った。その笑顔は、ドラゴンの威圧感とは別の、どこか不器用な温度を持っている。
俺は肩をすくめた。
「まあ、俺も怖かったけどな」
「怖いのは、いい」
「いいの?」
「怖いものがあることを知っている門番は、強い」
哲学っぽいことを言う。けど、少しわかる。
朝日が建物の縁をぬるく塗り、街路樹の影が伸びる。
そこに、女子高生の一人――昨日も見た顔だ――が近づいてきた。リュックのチャームがドラゴンのミニぬいぐるみで、制服の袖口からはインク染みが見える。絵を描く子だ。
「リンドくん、今日も炎でホットスナック焼いてくれる?」
「焼かない」
「焼かない」
俺とリンドブルムの声が重なった。女子高生はふふんと笑って、スマホを構えた。
「じゃあ、焼かない記念に写真撮ろうよ。『焼かないドラゴン店員』でタグ作ったから」
「タグ……?」
「うちのクラス、みんな知ってるよ。『あのコンビニの夜、守ってる人がいる』って」
俺は呼吸が一瞬止まった。
彼女は悪戯っぽい目で俺たちを見る。
「みんな知ってる。見えてる人は少ないけど、“そういう気配”って、案外わかるもんだよ」
春江さんが自転車のベルをチリンと鳴らした。「若いの、写真は顔上げな」と言う。新聞配達の兄ちゃんも「俺も入っていい?」と輪に寄ってくる。
店長は「SNSはほどほどにな」などと言いながら、ちゃっかり真ん中に入った。
ぱしゃ。
朝の白い光のなかで、俺たちは笑った。
リンドブルムは少しだけ戸惑って、それでも口元に薄い弧を描いていた。
◇
その日の夕方。
大学の講義のあと、俺はふらりと店に寄った。日勤の先輩がレジに立っていて、俺を見ると手を振る。
「古賀くん、夜の売上、良かったよ。レビューも増えてる。『夜も安心』『店員さんが頼もしい』って」
「“店員さん”って……」
「複数形だね。たぶん、君と――」
彼はレジ横のポスターを顎で示した。そこには、いつ撮られたのか、リンドブルムがホットスナックを補充している横顔が映っていた。
店長の字で〈夜の見守り隊〉と書いてある。やめてくれ。ダサい。けど、ちょっと嬉しい。
「そういえば、あの子、また来てたよ」
「あの子?」
「ほら、絵を描く女子高生の子。バイト募集の紙、じっと見てた」
「……まさか、応募する気か?」
「どうだろうね。『炎はないんですよね?』って確認してたけど」
俺は笑ってしまった。
炎はない。けど、熱はある。
熱は、から揚げの油の温度、コーヒーの湯気、夕方の夕焼け、そして――ドラゴンの背中。
うちの町は、ドラゴンが守っている。
それはもしかしたら秘密じゃなくて、みんなが知っていて、でも声に出さないだけのことなのかもしれない。
◇
夜。
また俺たちの番が来る。
レジの引き出しを整え、ホットスナックの在庫を数え、おでんの出汁をひと混ぜ。
リンドブルムがコーヒーマシンの清掃をする。大きな手で小さな部品を扱うのは意外に難しいらしく、彼は慎重に、ひとつひとつを順番に外し、洗い、戻す。
「直人」
「ん」
「この町にいると、時間が早い」
「それは忙しいからだよ」
「いい意味だ」
「うん」
「俺は長く生きている。だから、早い時間は、うれしい」
彼の横顔は、人間の輪郭のまま、どこか遠い景色を見ているように見えた。
俺はコーヒーマシンの洗浄ボタンを押す。プシューッと湯気が立ち、店内にコーヒー豆の香りが広がる。
「リンド。今日の賄い、何がいい?」
「から揚げ五個」
「栄養補給が雑!」
「では、から揚げ四個と、おでんの大根」
「結局それ!」
笑い合う。
ドアベルが鳴る。夜が来る。
境は薄くなることもあるし、厚くなることもある。けれど、そのどちらでも、店は店だ。
いらっしゃいませ、ありがとう、夜勤おつかれさま――その繰り返しが、ここを“町の真ん中”にしている。
俺はレジの前に立ち、まっすぐに入口を見た。
向こうから、誰かが入ってくる。知らない人かもしれないし、知っている人かもしれない。
どちらだっていい。いらっしゃいませ、と言うだけだ。
「いらっしゃいませー! 本日、炎を使わない安全営業でーす!」
「直人。アピールの方向が独特だ」
「大事なんだよ。安心感」
「では俺も。――いらっしゃいませ。焼かないが、温い」
「“温い”はギリ伝わらない!」
夜のコンビニは、相変わらずブーンと歌い、プシューッと息をし、床は蛍光灯をすべすべと反射した。
俺たちの店は今日も、ちょっとだけにぎやかで、ちょっとだけ頼もしい。
そして――ドラゴンがバイトしている。