古物商アリスの奇妙な骨董談
―― その鏡は、人を喰うという。
小雨が降りしきる雑木林。ひとりの妙齢の女性が、その先に佇む洋館へと歩を進めていた。
彼女の珍しい白銀の長髪は結い上げられ、黒いドレスは可憐ながらも気品がある。
そんななか手にしている革製の大きなトランクはどこか場違いな印象を与えていた。
女は黒いフリルの傘の隙間から空を見上げると、耳たぶの真珠のピアスを指で撫でてぽつりとつぶやく。
「……雨、これから酷くなりそうですわね」
もちろん、返答する相手はいない。それでも、まるで誰かに話しかけるように彼女は独り言を続けた。
「久しぶりの古物のお仕事ですもの。天気ごときで訪問を取りやめるわけにはいきませんわ」
鬱蒼と茂る林の小道は、こんな天気もあって人影はなく、彼女の声は雨音にかき消されてしまいそうだった。
やがて目的の館にたどり着くと、雨宿りするように庇の下へ入り、コンコン……と扉をノックする。
田舎ゆえに訪問客が少ないのか、ベルのようなものは見当たらない。
彼女はしばし考えるような素振りを見せたあと、木製の古びたドアハンドルを回した。
「あら」
鍵はかかっていなかった。扉を少し押し開けると、中は暗い。
ピシャーン!
背後で雷鳴が轟き、雨脚がさらに強くなる。
彼女はハンカチでトランクやスカートについた雨粒を拭い、カツカツとヒールを鳴らしながら館へと足を踏み入れた。
「先日、手紙を頂戴した古物商です。奥様はいらっしゃいますか?」
館の中は静まりかえり、生き物の気配は感じられない。
しかし、広い天井のエントランスに飾られたいくつもの額縁の絵や、ウォールシェルフに並ぶ食器たちは、まるでざわざわと蠢いているかのようで、不気味な気配を漂わせていた。
女はそれに意味ありげな笑みを浮かべると、そのままアンティークの品々のそばを歩き、奥へと進んでいく。
エントランスには、2階へと続く広い階段と、同じフロアの先へ伸びる廊下があった。
階段には、仲睦まじい夫婦と娘の肖像画が飾られ、廊下には対になった扉が幾つも並んでいる。
女は迷うことなくそのうちの一枚を選び、ギギギ……と軋む音を立てながら開けた。
浴室のようだ。灯りはついていない。
広々とした室内の中央にはバスタブらしき影があり、仕切られたカーテンの向こうでは、シャワーの水が静かに水面を叩いている。
よく見ると、人影のようなものが浮かび上がっている。しかしそれは微動だにしない。
さらに目を凝らすと、カーテンのすぐ下には、何本もの酒瓶が転がっていた。どれも開け放たれ、空のようだ。
「ごきげんよう。以前、手紙をいただいた古物商です。
玄関で応答がなかったので、勝手ながらここまで入らせていただきました」
女は、先ほどと変わらぬ朗々とした声でカーテンの向こうに呼びかけた。
しかし、返答はない。
「……生きていらっしゃいますか?」
数秒の沈黙の後、古物商は困ったような顔をしながら、コツ……とバスタブのそばに足を踏み出した。
そのとき、カーテンがわずかに揺れ、やつれた男の顔がそこから覗いた。
「……ああ、生きてるよ。残念ながらね」
女は、すぐさまにこりと人当たりの良い笑みを浮かべた。
だがその笑みには、どこか胡散臭さの拭えない影がある。
「それはよかった……!アリス骨董堂の古川アリスです。
件の古物を、拝見させていただけますか?」
◇◆◇
二人は客間に移動し、テーブルを挟んで向き合っていた。
女の手には精巧なカップに入った紅茶、痩せこけた男の手には温かなスープ。これは、女がそうするように勧めたものだった。
部屋の灯りは、たまにチリチリと音を立てる暖炉の火のみ。嵐で冷え切った空気を、ゆらめく炎がわずかに温めている。これもまた、女が自らともしたものだった。
「スープ、お口に合いましたか? 久しぶりの食事のようでしたので、あるもので優しいお味に仕上げました」
女は紅茶を一口含みながら、男に微笑みかける。
しかし、男は意気消沈した様子で「あぁ、ええ。ありがとうございます……」と、歯切れの悪い返答をする。どうやら食欲がないらしい。
背筋を伸ばし、余裕を漂わせる女と、腰を丸め、スープを両手で抱える男――二人の対比はあまりに鮮烈だった。異様な雰囲気を纏うこの客間に、静かな緊張感が漂う。
「いつから、あの場所に?」
「……もう、二日前だ」
「まぁ! それでは、二日間も何も召し上がっていなかったのですね!」
「酒を……飲んでいた」
「浴室でお酒なんて……まるで、自ら死を望んでいるようではありませんか」
たどたどしく語る男の言葉に、女は変わらぬ朗々とした調子で応じる。
『自死を……』その言葉を耳にした途端、男はスープをすする手を止め、わずかな沈黙の後、つぶやくように言った。
「そうなんですよ……私は……死にたいんです……いや、違う。死にたくない。消えたくない! 私は! 私は!!!」
ガシャン――!
手からこぼれ落ちた器が床に叩きつけられ、派手な音を立てて割れた。中身が飛び散り、スープの香りが微かに漂う。
男は頭をかきむしり、今にも割れた破片を手に取って、自らの首を掻き切りそうだった。
女はそっと手を伸ばし、男の頬に触れる。
ひんやりとした冷たい指先――およそ人間とは思えぬ温度に、男はびくりと身を震わせた。
「落ち着いてくださいな。大丈夫です。あなたは死にませんよ。少なくとも、私がこの館にいるうちは」
人当たりの良い、けれどどこか造られたような笑顔。
まるで、冷たい刃で心を突かれたかのように、男の激しい動揺は一瞬で収まっていく。
「あ、あぁ……取り乱してしまいました。すみません……」
「いいのですよ。ですが、随分と動揺しておられましたね……。この件には、それほどの理由があるのでしょう?」
女は慣れた手つきで懐からピンセットと皮袋を取り出し、割れた食器の欠片をひとつずつ拾い集めていく。
「聞かせていただけませんか? その、摩訶不思議な事情とやらを」
静かに問う女の声に、男は数秒したのち、ポツリ、ポツリと語り始めた――。
◇◆◇
『一ヶ月前、女房が年代物の姿見を持ち帰ったんです。
彼女は骨董を集めるのが好きでね。館にある家具や小物は、すべて彼女が集めたものなんですよ』
アリスはエントランスで目にした骨董品の数々を思い返す。
なるほど、確かに"趣味の合いそうな品"が多かった。
「とても素敵なご趣味をお持ちの奥様ですね」
『はい。普段は物欲のない人でしたので、その唯一の趣味だけは尊重し、できる限り黙認していました。
ですが――あの姿見だけは……どうにも不気味で。私は、目に触れない場所に片付けてほしいと頼んだんです』
「"不気味"……ですか?」
『なんと形容すればいいのか……。
その姿見は、もともと彼女が私の書斎に置いたものでした。ですが、夜が更けると、微かに息遣いのような音が聞こえ、まるで……自分以外の"何か"が、部屋の中にいるような気がしてならなかったのです。
まるでその姿見が――生きているような……』
「なるほど」
『それで結局、あの鏡は娘の部屋へ移されました。娘は、なぜかそれをひどく気に入っていたので』
「そして、以前いただいたお手紙に書かれていたように……」
『……はい。二週間前、娘が忽然と姿を消しました。
館中どこを探しても、外にどれだけ人を遣わしても、痕跡すらない。まるで部屋の中で、彼女の存在そのものが掻き消えてしまったかのように――』
「それで、ご夫婦は『鏡に吸い込まれた』のではないかと?」
『"障り"……というのですか?
女房が趣味の仲間から、そんな眉唾ものの話を聞いたことがあったそうです。それで、その伝手を辿ってあなたに手紙を送ったのです』
「まぁ……!奥様、よくその言葉をご存じでしたね」
アリスは|感嘆したように息を吐き、言葉について続けた。
「えぇ。"障り"とは、形あるものに宿る気配のことです。
物の在り方を|変容させ、ときにそれ自体を"生きている"かのように振る舞わせることもあります。 時に、人を襲うことも……。
私の専門として扱うものですわ」
『それで……娘は! 女房は……! 戻ってくるのでしょうか!!』
「……その口ぶり、手紙にはありませんでしたが、奥様もいなくなられたのですね」
『……女房は、二日前に消えました。娘の部屋でです』
女は目を細め、ちらりと館の奥を見やる。
「それに、この館には使用人の方々も見当たりませんが……まさか、彼らも?」
『いえ、使用人たちは女房が消えた機に、気味を悪がって逃げるように館を去ってしまったのです。
当然でしょう。女房は、彼らの目の前で、姿を消したのですから』
「――消えた瞬間を、目撃した……ということですか?」
『私も直接見たわけではありませんが、侍女たちから聞いた話では……』
男は顔を伏せ、苦しげに語り始めた。
『その日、女房と侍女がたまたま娘の部屋の前を通りかかったそうです。
ずっと立ち入ろうとしなかったはずのその扉を、女房は顔色を変えて開け放ち、"アリシア、アリシア"と娘の名前を叫びながら、駆け込んだと――』
「側にいた侍女の方は止められなかったのですね」
『止める暇などなかった、と……。
突如、強烈な旋風が巻き起こり、子供部屋の扉が閉ざされたそうです。おかしいでしょう? 窓など、どこにも開いていなかったのに』
「それは……使用人の方々が恐怖で逃げ出してしまうのも無理はありませんね」
古物商はため息をついて、手の上のカップを傾ける。
男はさらに頭を抱えた。
『今度は……私の番かもしれない。
私は、たったひとりになってしまった。だけど――死にたくなんてないんだ。
女房がいなくなった夜、私は耐えきれず、あの浴室に逃げ込みました。
耳元で響く空虚な音を掻き消すように、シャワーを流し続けました。
でも……それでもダメだった。
どんどん頭がおかしくなっていくのがわかって、恐怖を忘れるために、私は浴室で酒をあおったんです。
それから……私は、だんだん、だんだん、だんだんだんだんだんだんだんだん――おかしくなっていって……』
男の独白は次第に早まり、乱れ、最終的には叫びのように変わる。
『私は死にたいのか? いや違う!! 死にたいわけじゃない!!
私は死んではいけない!! 死にたくない! 死にたくない!! 死にたくなくて……!!!』
パチンッ――
天井の高い、薄暗い広間に、女の手拍子が一つ響いた。
男はハッと我に返る。
気がつけば、頭を掻きむしった爪の先に、自ら抉った皮膚と滲んだ血がこびりついていた。
「あ……あぁ、私は……また……。ごめんなさい、古物商さん。また、取り乱してしまいました……」
暖炉の炎に仄かに照らされ、女は微笑む。
「生きて、またお二人に会いたいのですよね?」
艶やかな唇には、ほんのりと赤い紅がのっている。
それは、あまりに美しく――まるで一枚の絵画のように幻想的だった。
男はまるで地獄の底で、美しき女神を見つけたかのように、ポロリ、ポロリと大粒の涙をこぼした。
「……そう、そうなんです。また……あの元気な声で『お父さん』と呼んでほしい……。
愛する彼女と笑い合い、名前を呼び合いたい。ただ……それだけなんだ」
男の嗚咽が客間に静かに響く――。
"異変が起きたとき、鏡を叩き壊してしまえばよかったのか?"
"それとも、せめて女房だけでも連れて館を去るべきだったのか?"
"娘がいつか帰ってくると信じ、ここで待ち続けたのは、誤りだったのか?"
後悔ばかりが先に立ち、もはやどうしようもない。
男は情けなく嗚咽しながら、こらえきれない涙に身を任せた。
ガタッ。
正面で女が動いた気配がし、男ははたと耳を澄ませる。
しかし、彼女は男にハンカチを差し出すでも、慰めの言葉をかけるでもなく、その横を素通りし、扉の方へと向かっていった。
男が顔を上げると、ちょうど同じタイミングで古物商も振り返る。
「――貴方の願い、叶えられるのならば叶えて差し上げましょう。
ですが、叶えられない場合も、もちろんございます。
……ともかく、話は件の古物を見てからです」
彼女の声は凛としていて、どこか冷たかった。
先ほどまで、男の悲痛な叫びに寄り添うようだった聖女のような姿――あれは幻想だったのだろうか。
今、目の前にいるのは、氷のように冷えた空気をまとい、まるで人形のように整えられた笑みを浮かべる女。
「――娘さんの部屋へ案内していただけますか?
それと、奥様がいなくなられたのは何時何分頃か。できるだけ詳細に教えてください」
まるで商談でも持ちかけるかのような、静かで確信に満ちた声。
男の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
◇◆◇
レースのベールがかかった可愛らしい子供用のベッド。
白を基調とした燦桃色のクローゼットやミニテーブル。
羊毛のカーペットの上には、くるみ割り人形やロココ人形が無造作に転がっている。
一見、微笑ましく愛らしいただの子供部屋に見える――。
だが、その空間に、明らかに"異質な存在"が堂々と鎮座していた。
それは、ゴシック調の、古い木材をあしらった精巧な姿見。
大人二人が余裕をもって映るほどの巨大な鏡は、子供部屋に置かれるにはあまりに不釣り合いだった。
アリスは、じっとその鏡を見つめる。
そして、迷いなくトランクを開くと、中からいくつかの道具を取り出し、細かく調べ始めた。
男は、そこから数メートル下がり、物陰に隠れながらおずおずとその様子を見守る。
「あ、あの……やっぱり、その、障り……とやらに汚されているのでしょうか?」
「"障り"はもともと、汚れているものではありませんの。
ですが……そうですね。"ヒトに害を成している"という点では、穢れていると言えるのかもしれませんね」
アリスは男の問いに答えながらも、作業の手を止めることはない。
男は、彼女から被るように言われた黒いローブを再び深くかぶり直し、ぶるりと身震いした。
「それにしても……寒いですね。
女房と娘がいなくなった夜も、こんな凍えるような寒さでした。ああ、恐ろしい……」
「ふむ……」
古物商は懐から懐中時計を取り出し、時間を確かめる。
短針と長針が、ちょうど真上を指そうとしていた。
「奥様がいなくなられた時間も、ちょうど日付が変わる頃でしたわよね」
彼女は男に問いかけるが……。
しかし――それに対する男の返答はなかった。
代わりに、彼の口から驚愕の一言がこぼれた。
「……アリシア……?」
「……!」
アリスがふりかえると、男は信じられないものを見るかのように鏡の中へ釘付けになっていた。
そして意味のわからない言葉をぶつぶつと呟き始める。
「それに、お前も……! ああ……!! もう二度と会えないかと……!!
二人とも無事だったんだな!!!
そこにいるのは、セレスティーナか?!
ああ!! 君だけは私たちを裏切らないとわかっていたんだ!!!」
しかし――アリスの目に映る鏡面は、ただの"虚空"だった。
玄関で見た仲睦まじい親子の姿など、どこにもいない。
男は幻覚を見ている。
……否。
そこには"虚空"が映っていた。
――鏡であるにもかかわらず。
懐中時計を見ると、時刻は0時ちょうど。
吐く息は白く、吸い込む空気は凍てつくほど冷たい。
幸か不幸か、"条件"が揃ってしまったのだ。
「……あぁ!!! どうか、その体を抱きしめさせておくれ!!
もうずいぶん二人の声を聞いていない!!!
私の胸に飛び込んで、私の名前を呼んでおくれ!!!」
男はローブのフードを振り払い、転がるように鏡へと駆け出した――。
瞬間、
アリスは咄嗟に男の腕を掴み、強引に扉の方へと突き飛ばす。
「ローブを被って! 目と耳を塞いでください!!
それは"古物"の生み出した幻想ですわ!!!」
叫びながら、鏡の中を睨みつける。
……ぬるり。
――そこから、『手』が伸びてきた。
黒く、影のように細長い"触手"。
人間の手とは似ても似つかず、かつて博物館で見た"胎内の子供の未発達な手"のように見える。
それが何本も伸び、アリスの腕に巻き付いてきた。
《ア゛…………ソ゛ホ゛?????》
――少女の声。
だが、それはひしゃげた機械音のようでヒトのものとはほど遠い。
アリスは瞬時にトランクへと手を伸ばし、工具用の鉄鎚を振りかざす。
そして――
ブチッッッ!!!
鈍い音が響く。
ちぎれた触手の断面から、黒い液体が血飛沫のように噴き出した。
アリスは大袈裟に身を翻し、その液体を黒装束で受け止める。
皮膚への接触を避けたようだ。
《イ゛タ゛イ゛……イ゛た゛イ゛ヨ゛ぉ゛……!!!
サ゛ム゛イ゛!! コ゛ワ゛イ゛!! ア゛ソ゛ホ゛! ア゛ソ゛ホ゛!!!
ア゛ソ゛ホ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛?!!!!!!》
鏡一面から黒い触手が一斉に襲いかかってくる――。
アリスは手にした黒いレースの雨傘を開き、数十本の触手を足止めする。
だが、避けている余裕はない。
アリスは傘から手を離すと低く前傾姿勢をとり、その下から鏡へと潜り込む。
――バキバキバキバキィッ!!!
もといた場所で、傘の骨組みの握りつぶされる音がする。
アリスの片手にはすでに純銀製の小型ナイフが握られていた。
傘に巻きついた触手を下から切断し、前へ踏み込む。
――ちょうど、鏡の中央への道が開けた。
鏡の中には、助けを乞うように絶望した小さな少女の顔が映っていた。
だが――彼女の手は、決して止まらない。
彼女はそのまま鉄鎚を振りかぶり――
――バリンッッッ!!!
美しかった鏡面は一瞬にしてひび割れ、断末魔のような金切り声が館中に響き渡った。
《キ゛ャ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛?!!!!!!!!!》
その数コンマ後――。
鏡は完全に砕け散り、破片が部屋中に散らばった。
鏡台は叩かれた勢いに耐えられず、轟音を立てて後ろへ倒れ込む。
――ゴォォォォォン!!
……終わったのだ。
アリスは浅く息をつき、冷え切った空気の中で静かに呼吸を整えた。
「お……お前たち……!!!」
背後で男の慌てて立ち上がる気配を感じ、アリスはそれを手で静止する。
目線の先には、肖像画で見た娘とその母親らしき女性。
気を失い黒い粘液に毒されているが、慎重に確認するとかろうじて息はあるようだ。
適切な処置をすれば数日で元に戻るだろう――。
男はついに静止も聞かず、愛する二人を掻き抱きおいおいと泣いていた。
母親の方は、それで目を覚ましたらしい。
アリスは深く溜息をつく。
部屋の方へと目線を移した。砕け散った銀片が、月明かりに照らされ、静かに輝いている。
「……お片づけ、しませんと」
ここからは古物商の仕事になりそうだ。
◇◆◇
それから二日後、娘も目を覚ました。
彼女は母と同じく赤毛の癖毛で、瞳は鮮やかなエメラルドグリーン。
まるで絵画のように可憐な少女だった。
しかし様子がおかしい。
目を覚ますなり「あの子はどこ?」と、両親に聞いたそうだ。
――いつも遊び相手になってくれていた『あの子』を。
母親と古物商は、すぐに心当たりを察した。
だが、彼らにできるのは、「そんな子はいなかったのだ」と、優しく言い聞かせることだけだった。
◇◆◇
それは、少女の目覚める前日のこと。
アリスは娘を看病している男をよそに、妻の方へ話を聞きに行っていた。
「奥様、この館にはきっと他にももう一つ、奇妙な古物がございますよね?」
妻の女はハッとしたように顔を上げた。
「……たとえば"人骨や珍獣の骨のような"」
アリスにそう言い当てられた赤毛の女はみるみるうちに青ざめ、言葉を詰まらせる。
だが、やがて観念したようにアリスをある部屋へと案内した。
そこはまさに言葉どおりの"隠し部屋"だった。
◇
女の部屋にあった書物棚が扉のように横へとスライドする。
「まぁ!」
アリスは思わず声を上げた。
「ここは、もともと私の祖父の代からの屋敷なんです。 あの人が婿養子に来てくれて……」
なるほど。
アリスは納得した。
どうりで建物には歴史を感じさせる趣があり、表の雑木林も長い年月を経た立派なものだったわけだ。
隠し扉を抜けると地下へ続く階段が現れた。
その先には圧巻の光景が広がっていた。
"骨"――。
様々な動物の骨が、所狭しと飾られている。
剥製、ホルマリン漬けの標本らしきものも見受けられる。
壁には立派な角をもつ鹿の頭が飾られ、虎の毛皮はタペストリーのように吊るされていた。
だが最も目を引いたのは、動物の骨格標本たちだった。
ネコ科、イヌ科、ウシ、ウマ、トリ、ヘビ……。
さらには絶滅したとされる牙獣の象牙まで。
それはまさに"骨の宝庫"だった。
アリスは思わず目を輝かせる。
「ごめんなさい……。こんなの、気持ち悪いですよね」
妻は恥じ入るように俯いた。
「……祖父の影響で、私じつはこういったものが好きなんです」
それを聞くと、アリスは妻の手を両手で包み込み、食い入るように言葉を被せる。
「気持ち悪いなんてとんでもございませんわ!!
そうですか……! お祖父様から……。とっても素敵なご趣味だと思いますわ!!」
「え……えぇ?!」
予想だにしなかった反応に、女はひどく動揺する。
今まで、誰にも理解されることのなかった趣味なのだ。無理もない。
アリスはそんな女性の様子をよそに、言葉を続ける。
「わたくし、奥様のお気持ち、わかりますよ。
"生きて"いるのですよね……。これらの古物たちは」
アリスの言葉に、女性の目が大きく見開かれる。
自分の古物に対する考え方と、およそ、同じ見解を彼女が語り始めたからだ。
「ここにいる動物たちは、どんな生涯を送ったのでしょう。
草花を踏みしめ、湧水から水を飲み、仲間と群れをなし、ときに争い合う……。
その生命にどんな物語があり、どんな日常があったのか」
凛として朗々とした言葉には、まるで命が宿っているようだった。
女性は、周囲の標本たちが、動き出すのを錯覚した。
石造の床には緑が生い茂り、名もなき小花が花開く。
柔らかなそよ風が運んできたのは"生きている動物たちの匂い"―― 。
肉体をなくしたはずのヤマネコには肉がつき、毛が生え、山中で目の前のネズミをとって食う。それを子猫によこし、種としての生命が紡がれていく。
その横で小鳥が空高く舞い上がる。小さいながら、力強く翼を羽ばたかせ、青空の、仲間の元へ風を切っていく。
あたり一面の雪原世界では、まさにその時、一匹の巨獣が吹雪に晒されながら命を負えんとしていた。だが、その身体の下で、小動物がかすかに残った温もりとその肉で、命を繋いでいく。
すべて、彼らには物語があった。
繋がりがあった。
その繋がりがあるから、今もそれらは生きているのだ。
女性は思わず感涙に震えた。
「それは、アンティークでも同じことですわね。
今までの"生きてきた"軌跡を辿ることで、わたくしたちは、未知の過去の空想に耽ることができる……。
――これほど甘美で、趣深く、病みつきになる世界はございませんわ……!」
アリスの凛とした声に、女性は『そう、そうなんです……』と呟きながら大きく頷いた。
誰にも理解されることのなかった自分の"宝物"が、今、目の前で惜しみない賞賛を受けている。
祖父が亡くなって以来、彼女はずっと"ひとり"だった。
夫や両親はアンティークに興味を示さず、骨董品仲間も、気にかけるのは歴史的価値やブランドだけ。
誰も、自分の"本当の好き"を理解してくれなかった。
だからこそ、目の前の自身の理解者の存在に、彼女は大きく心を揺さぶられたのだ。
『……彼女になら、話してもいいかもしれない』 女性はそう決意し、一言声をかけると、奥から"もう一つの古物"を引き出した。
それは――黒を基調とした、重厚な棺桶だった。
サイズは、子供ひとりがなんとか入れるほど。
西洋の宗教的な意匠が施されたその堅牢な作りは、異様な存在感を放っていた。
「この中には、人骨が?」
「……人骨、のように見えます。ですが、私が譲り受けた際、商人はこれを"吸血鬼ブラド・ツェペシュの娘の遺骨"だと言っていました」
「ふむ……"ドラキュラ公の娘"ですか」
棺の蓋が、ゆっくりと開かれる。
その中に横たわっていたのは――それはそれは、美しい少女の遺骨だった。
華奢な骨格。
まるで生前の姿を今にも映し出しそうな、繊細な形状。
ヒビひとつない白い骨は、まさしく"箱入り"として、大切に育てられたことを物語っていた。
だが、それ以上に――。
「……耳の軟骨が、残っている?」
アリスの興味深げな声が、静かな地下室に響く。
通常、遺骨となれば、鼻や耳の軟骨は数年で分解されるもの。
水分や特定のイオンを多分に含むためだ。
しかし――この骨は違った。
アリスは、女性に一言断りを入れると、薄手の手袋をつけ直し、そっと指先で触れてみる。
――硬い。
軟骨であるはずの部分は、他の骨となんら変わらぬ硬度を保っていた。
さらに――その形状。
まるでエルフのように、鋭角に尖っている。
"これは、明らかに人間のものではない"
アリスはそう確信し、目の前の珍品に静かに震えていた。
「……このご遺骨が、件の異変を引き起こしたものだとおっしゃるのなら、手放すつもりです」
妻が、ぽつりと呟く。
「もともと、人目のない山中にでも埋めてあげようかと思っていました」
「"もともと"――ですか?」
アリスは目を細める。
「眉唾だとしても、『吸血鬼の娘の骨』なんて、商人に高くふっかけられたでしょうに……」
「……はい」
妻は、少し恥ずかしげに微笑む。
「でも、たとえ彼女が本当に吸血鬼の少女だったとしても……。
自身の亡骸が、この先も愛好家たちの間を転々とするだなんて、耐えられないでしょう?
だから私で最後にしてあげたいと思ったんです。
……こんな気持ちになれたのも、きっと同い年くらいの娘がいたからでしょうね」
女性は赤毛のくせ毛をくるくると指でいじって、つぶやく。
「なるほど……。素敵なお考えですわ」
アリスにそう言われると、妻はどうにも落ち着かない様子で、視線を彷徨わせ弁解を始めた。
「でも……少なからず、好奇心もあったんです」
「ほう……」
「商人から"吸血鬼の娘の骨"と聞いたとき、実を言うと、心がざわめきました。
生前は、どんなに美しい娘だったのか。
住まいは、やはり童話に出てくるようなロココ調の城だったのか。
家族構成は?
まだ少女だけれど、恋をしたことはあったのかしら――」
彼女は、遠くを見るような目をする。
「"自分とは違う生物"、"吸血鬼としての生活"。
そんな"もしもの物語"に――私は一瞬でも、心を奪われてしまったのです」
妻は、すうっと息を吸い、少しだけ瞳を伏せた。
「だから、きっと……人喰いの鏡に、娘と私が飲み込まれたのも天罰なのかもしれませんね」
まるで懺悔のように紡がれる言葉を、アリスはじっと聞いていた。
親身な素振りで、遮ることなく、最後まで。
やがて――そっと唇を開く。
「仕方がありませんわ、奥様」
「……?」
「それは"骨董品好きの本能"というものです。
物理学者がリンゴを見て胸をざわめかせるのと、何も変わりませんわ。
誰も咎めはいたしません」
「そう……ですよね……」
妻は、そっと胸を撫で下ろす。
アリスはその様子をじっ……と観察しながら、ゆっくりと手袋を外した。
「それにね、奥様の先ほどのお気持ち――わたくし、本当に感銘を受けましたの……!」
"先ほど"というのは遺骨を山中に埋めるということについてだ。
「そうですわね……この少女の亡骸は、これ以上市場に出回るべき代物ではございません」
「えぇ……アリスさんも、そう思ってくださるのね」
妻が安堵の表情を浮かべるのを見届けると、アリスは紅い唇を綻ばせた。
「ここまでは、"愛好家同志"としてのお話。
ですが――ここからは"専門家"としてのお話をさせていただきます」
彼女は遺骨に視線を落とし、朗々とした声で言葉を紡ぎはじめた。
「この少女の遺骨を、そのままどこかに埋めるのは、控えた方がよろしいかと」
「それでは……」
首を傾げる女性に、アリスは懐から名刺を優雅に差し出した。
「もしよろしければ、こちらの少女を――アリス骨董堂で買い取らせてはいただけませんか?
もちろん、非売品・非展示品として。決して市場にでることはないとお約束しましょう」
「アリスさんのところに、彼女を……」
「ええ、順を追って説明いたします」
鈴のように透き通った声は、朗々《ろうろう》と語り続ける。
「まず――この少女、生前は『ヒトではなかった』と決定づけてよいでしょう」
「それでは、やはり……!」
「ですが『吸血鬼』というのは少々語弊がありますわね。
我々は彼らを――『旅人』と呼んでいます」
「たびびと……」
言葉を反芻し、呆然とする妻に、アリスはにこりと微笑んだ。
美人の笑顔に、女は思わず頬を紅潮させる。
「吸血鬼と同じく、旅人もまた、ある一定の成長を経るとそれ以降は身体的発育を見せず、不老不死とされています。
そして、耳の形が特徴的であることも、一致していますわね」
「たしかに……この少女の耳は、とても変わっていますね」
「ええ。ただし、吸血鬼と決定的に異なる点がございます。
彼らはその名の通り『ひとつの場所にとどまれない気質』を持っているのです」
「それは、どうして……」
アリスは、目の前の女性の耳飾りを指先で軽くなぞった。
「奥様は、『障り』をご存知ですね?」
「は、はい……! 知人から聞いたことがあります。
『骨董品宿るとされる物の気で、それらがまるで生きているかのように振舞わせるもの』……でしたよね?」
「ふふ……概ね、その認識で間違いありませんわ。
ただ、訂正するのなら――『障り』はアンティークだけに宿るものではないということ。
積み重ねてきた年代ゆえに、古物の方が宿りやすいというだけ。
きっかけさえあれば――例えば、奥様のこの耳飾りにだって、"生命"を宿すことができるのです」
冷たい指先が、翡翠の宝石に触れる。
妻は、カァァと頬を染め、反射的に身を引いた。
嫌というわけではなく、ただ乙女のように気恥ずかしがっているだけのようだ。
その動揺を誤魔化すように、女性は声を裏返しながら話を戻す。
「でっ! でも……! それが『旅人』とどう関係が?」
「彼らはその気質ゆえに、普段使っているものや長く身につけている物に"障り"を宿しやすいのです。
不老不死の生命力のせいか、それとも何らかの呪いの類か……。
なにせ頭数があまりに少ないですから。詳細なことはほとんど明かされていませんの」
赤毛の女性は顎に手を当て、考え込むようにうなった。
「では……館の鏡は、"旅人"である彼女の障りを受けて、生命を宿したと?」
「――ええ。大方、そのようなところでしょう」
アリスは自身の真珠の耳飾りを指先で触れ、静かに答える。
続けて、妻がもう一つの疑問を投げかけた。
「ですが……ここで一つ、矛盾が生じませんか?」
「ええ」
「旅人は、不老不死なのですよね?
ならば――なぜ、彼女は遺骨となってここにあるのでしょう?」
アリスは目を細め、少し間を置いてから口を開いた。
「奥様の疑問は、至極真っ当なものですわ。
ですが実は、わたくしはこれまでにも何度か――"旅人の遺体"を拝見したことがございますの」
妻の眉が、ピクリと動く。
「つまり……」
「不死者と呼ばれている旅人も、"完全なる不死"というわけではないようですね」
――不老不死の"死"。
妻は、その事象についてじっくりと咀嚼するように考え込む。
「とはいえ――」
アリスは、くすりと笑いながら肩をすくめた。
「やはり気になる点は"何が彼らを死に至らしめるのか"ということですわね。残念ながら、その答えは、わたくしにも皆目見当がつきませんの……!」
あっけらかんとしたその態度に女は我に帰り、思わず苦笑した。
「アリスさんにわからないことなら、私にわかるはずがありませんね」
そして冗談まじりにこう続けた。
「……この話は、バタースコッチを食べながら、紅茶と一緒に考えるのが一番よろしいですわ」
「ええ、それはもう」
アリスは、にこりと微笑んで、自身の頬に手を添えた。
◇
男に隠れて地下室へ来ていたため、長居はできなかった。
階段を上がる途中、妻はどこか恥ずかしげにアリスへと頼み込んだ。
「あの……どうか、私のこの"とっておきの趣味"のことだけは、夫に黙っていてもらえませんか?
やはり、まだ打ち明けるのに抵抗があって……」
「ええ、それはもちろん。お約束いたします」
アリスは微笑みながら応じる。
「ですが、奥様もわたくしの"お願い"を聞いてくださるかしら?」
「え?」
「"旅人"の話――これは、どうか内密に。広まってもよろしい話ではないでしょう?」
「……はい! もちろん、こちらも!」
女はすでに古物商のことを信頼し切っており、彼女の"お願い"に即座に頷いた。
◇
廊下に差しかかったところで、アリスは何気なさげに口を開く。
「ところで――」
「はい?」
「二つ、お尋ねしたいことがございますの」
改まった口調に、妻は少し緊張した面持ちで返事をする。
「いえ、何も堅苦しいことではありませんの。ただの雑談ですわ」
アリスは、ひとつ目の質問を投げかけた。
「"小さな旅人さんの木箱“。あれは、いつごろ購入されたものなのですか?」
「"あの箱"のことですか? ええと……一ヶ月ほど前でしょうか」
「もしかして、今回の件の姿見と一緒に?」
「はい、そうなんです……!
ゴシック調の古美術市を、知り合いの伝手で紹介してもらって。そこで手に入れました」
「なるほど」
アリスは頷くと、声を高くして話題を広げる。
「とても立派で、保存状態のよい品でしたので、単純に興味が湧きまして……!」
「本当ですか!
ぜひまた開催する時期にいらしてください。アリスさんでしたら、わたくしのほうから喜んでご紹介させていただきます……!」
「ええ。またの機会に。とても楽しみですわ」
「それと――もうひとつ」
アリスは微笑んだまま、さらりと次の話題へと移った。
「"セレスティーナ"という名前の使用人について、お聞かせ願えますか?」
その言葉を聞くと、女性の深緑の瞳は、ふっ、と収縮した。そして、少し陰りをみせるも、空元気のように話をし始めた。
「旦那から聞いたのですね……。
はい。その名前の女性が、この館で働いていました。
若いですけれど、娘の幼い頃の乳母で、娘が乳離れした後も侍女としてこの家に残ってくれていたんです」
「それで、今はどちらに?」
「それが――わからないんです」
「旦那から聞きました。私が件の鏡に喰われて以降、使用人たちは皆、怯えてここを去ってしまった、と。
多くの使用人は雇う際に出身や出自を聞いていたので、近いうちに文を出すつもりです。
戻ってきてくれるかはわかりませんが……。
ただ――セレスティーナだけは、あまり自身の過去を語らなかったので、文を出す当てもわからないのです」
「なるほど……」
妻は遠くを見つめて、静かに昔の話を続けた。
「数日前から、嵐が来ていたそうですね。表の木々が露を多分に載せていました。
彼女がこの館の戸を叩いたのも、そんな雨の強い日でした」
「子供も連れず、荷物も持たず、ずぶ濡れのまま、館の前に立ち尽くしていたんです。
そしてこう言いました。
"娘の世話でも、館の手入れでも、なんでもします。だから、どうか……ここに置いてください"――と」
「……彼女には、なにか、故郷を捨てる理由があったのですね」
「ええ。彼女は決して語りませんでしたが。
私は、それが不憫でならなくて……」
女性はぎゅっと両手を握る。
「その頃、ちょうどアリシアの夜泣きがひどく、私も困り果てていました。
それもあって、彼女を雇うことにしたんです」
「では、やはり彼女が館を出た後、どこへ行ったのかは……」
「まったく、見当がつきません……」
「……」
アリスは、静かに沈黙を保つ。
「……あぁ、そういえば」
だが、妻の方が、ふと思い出したようにつぶやいた。
「私が姿見飲み込まれたとき、隣にいたのもセレスティーナでした」
「まぁ……!」
「娘の声が聞こえたことに、私は我を忘れた形相でしたから……。あの子には、怖い思いをさせてしまいました。
逃げ出してしまうのも、無理はありませんね」
妻は、ふっと小さく息をついた。
「……」
窓の外を見ると、いつの間にか雨は止み、夕暮れに差し掛かっていた。
アリスは、その風景を見て、名残惜しげに呟いた。
「わたくしも……明日の夜にはここを発ちますわ」
「えぇ?!
もっとゆっくりなさってくだされば良いのに……!」
「明日でなければなりませんの。列車が来ますから。
これを逃すと、いつになるか」
「列車……。
そうでした。アリスさんは古物商として、各地を巡っていらっしゃるのでしたね」
「ええ」
アリスは、にこりと人当たりのいい笑みを浮かべる。
「わたくしも、ある意味"旅人"ですから」
◇◆◇
その翌日の夜――。
古物商は惜しまれながらも、館を後にした。
荷台には、雑多に積まれた骨董品。
割れた鏡を包んだ風呂敷。
そして、黒い布で覆われた中型の箱には――例の少女が収められている。
時刻は、0時を少し過ぎた頃。
もう、鏡から不思議な声が聞こえてくることはなかった。
満天の星空の下。
アリスは夜道を歩きながら、ぽつりと独り言をこぼす。
「今回、服をひとつダメにしてしまいましたわ。それに、雨傘も……」
新しくまとったのは、黒いレースのドレス。
星明かりに照らされ、白銀の髪がゆるりと揺れた。
当然ながら、女の独り言に返事をする者などいない――はずだった。
だが、彼女には確かに『彼』の声が聞こえていた。
『カッ! 相変わらずけちクセェなぁ、服一着でブツブツ言いやがって!』
アリスの耳元で、真珠の耳飾りがしゃらりと揺れる。
『てゆーか、今回はそれ以上の"豊作"だったじゃねぇか。不死者の死体を? タダでぇ?! その上にチョー金になる古物を格安でこーんなに!!
いや〜、あの嬢ちゃん、お人よしすぎて心配になるぜ!』
「ええ。彼女にはとても良くしてもらいましたわ」
荷台に積まれた品々を見やり、アリスは機嫌良さげに笑みをこぼす。
『あの旦那も、最初こそ情けなかったが、ただの嫁バカ子バカなだけだったな! なにより金の羽振りがいい!! 最高な依頼だったぜィ!!!』
真珠は上機嫌に、もらった札束の数を思い出しながら高笑いする。
……ただの真珠に、豚に真珠なのだが、彼は一向にその事実に気づかない。
アリスは彼の大声に応えることもなく、黙々と雑木林を歩き続ける。
『……てか、オマエ、あの嬢ちゃんにも旦那にも話してねぇことあるだろ?』
「ええ。終わったこと、過去のことを話しても、仕方がありませんもの」
『結局、あの怪鏡は、もうとっくに人喰いだったのか?』
アリスは鏡片を包んだ風呂敷を見つめ、少し間を置く。
「……わたくしが娘さんの部屋で鏡を見たとき――そこには、障りの気のほかに、娘さんと奥様の気……そして"すでに死者となった"誰かの気配がありました。
それがいつごろのものだったのかは分かりませんわ。
あの鏡は館に来る前から、すでに誰かを喰らっていた可能性もありますしね」
『でも、オマエには喰われたソイツに心当たりがある』
「ええ。……ずっと、不思議だったんですの。"どうして館の鍵が開いていたのか"」
『ん?……あぁ、オレたちが館に入った時のことか』
「旦那様は二日間、浴室に閉じこもっていたと言っていましたね。
では、どうして玄関の鍵は開いていたのでしょう。普通、何かに怯えて引きこもるような人が戸締まりを忘れるでしょうか?」
『カッ! そんなのシラネー!』
「……わたくしは、旦那様が戸締まりをしたのち、二日間の間に誰かが館に帰ってきたのだと思います。
――鍵を持つ使用人の"誰か"が」
『……それが、セレスティーナってヤツなのか?』
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれませんわ」
アリスは、ふっと星空を仰ぎ見る。
「ですが、旦那様は、"鏡の中に彼女が見えた"とおっしゃっていました。
もしかしたら、奥様の喰われた数日前のあの夜――セレスティーナさんにもアリシアさんの声が聞こえていたのかもしれません。
そのときは怯えて立ち尽くすことしかできなかった。ですが、数日経ってその真偽を確かめに帰ってきた……または、自分が奥様を止められなかったことに責任を感じて、助けるつもりだったのかもしれませんね」
『ヘェ〜……。そんで"ミイラとりがミイラに"ってワケか』
「ええ。……とはいえ、これらは全部、わたくしの憶測ですわ……!」
アリスがニコッと微笑むと、耳元からは『ウソくせぇー』とぼやく声が聞こえた。
『じゃーさじゃーさ! オマエが見たって言ってた鏡の中の"もう一人の子供"は何だったんだよ? あの旦那の娘じゃない方』
「それは……」
雑木林は途切れ、空がひらけた。
アリスは立ち止まると、黒い布で覆われた箱に目をやる。
「――旅人の少女の魂、ではないかと」
『……』
数秒の沈黙の後、真珠の下品な笑い声が響いた。
『ギャハハハハ!!! そいつァ〜オモシレェ!!
"死んだけど、成仏しませんでした〜"ってか?!カミサマが聞いて呆れるね!!』
彼の嘲笑をアリスは気にする様子もなく、黙々と推測を続ける。
「そもそも、"死"という概念自体が、旅人にとっては異常なのですわ。アナタの言うところの、"不死者"ですもの」
『ほォ? じゃあアンタの思う"旅人の死"ていうのは?』
「旅人は、"歩き続けなければならない"存在。 ではもし、肉体が"旅をすること"ができなくなったら?
周囲を"障り"で毒し、異変を起こす。それだけではないのかもしれません。
世界からの孤独は、不滅であるはずの魂をも蝕む……。
奥様は遺骨の少女の生前を想像し、ときめいていらしたけれど――
本当に、羨むような生活をしていたのでしょうか?」
「死後、その亡骸が市場に出回るような環境ですから。
わたくしはむしろ、彼女がかつて監禁されていたか、"外"という概念を知らなかった可能性を思い浮かべましたわ」
『これが本当の"箱入り娘"〜ってか? 気味が悪りぃな!!』
アリスは、風呂敷の包みをそっと持ち上げる。
「それに――」
「"あの鏡"と"遺骨"は、同じ蚤の市で売られていたとか。
両者ともに同じ木材が使われ、作られたと推測できる年代も同じ……」
『じゃあアンタは、あの鏡を不死者の娘が使ってたんじゃ、て考えてんのか?』
真珠の問いに、アリスは『ええ』と頷く。
「独りな彼女は、鏡の中の自分と遊び、寒く、寂しい日々を耐え忍んでいた……。
だが、そんな環境で自分を保つことなどできず、やがて自滅し、鏡に"障り"と"自身の魂"を宿した。
――なんて"物語"も、わたくしは素敵だと思いましてよ」
『どこが"素敵"なんだよ!! 趣味が悪りぃ!!』
真珠は一蹴した。
アリスはくすっと笑って、星空を見上げる。
すると、その狭間から、一筋の光が降りてきた。
――列車だ。
星々をレールに、命を宿した巨大な"古物"が降りてくる。
アリスは、静かに呟いた。
「でもそう考えれば、鏡の中の彼女がアリシアさんやわたくしに"遊ぼう"と誘ってきた理由が理解できるんですの」
列車は汽笛を鳴らしながら、アリスの側に近づき、やがて完全に停車する。
扉が開き、橙色の車内灯が差し込む。
アリスは荷台とともに乗り込み、シートに腰掛けた。
赤いモケットのシーツは上質なものだ。
『そういえばよォ!』
真珠が話しかけた。
『あの子娘、本当にこれ以上診てなくていいのか? アイツ、"成りかけ"だろ?』
「ええ。彼女は姿見の|障りに当てられすぎましたから」
『成りかけ』というのは件の不死者の話だ。
「ですが、わたくしの差し上げたお紅茶を飲み続ければ、身体に異常はないでしょう。
もっとも――"彼女が飲み続けてくれれば"の話ですが」
『じゃあ、もし、そうじゃなかったときは?』
アリスは数秒沈黙したのち、うっすら笑みを描いて口を開いた。
「そのときは、わたくしが迎えに参りますわ」
『ふーん……』
真珠は興味なさげに相槌をうつ。
会話が途切れたのをみて、アリスは耳元の真珠を取り外す。
『オマエがかつてそうされたように?』 最後に声が聞こえた気がしたが、応える義理はないようで、彼女はそのまま押し黙った。
目の前の車窓には、遠く広がる銀河が映っている。
列車は宇宙を走っているのだ。
窓に映る自身の姿――
白銀の髪を緩く結い、彫刻のように整った顔立ち。
耳飾りを外したそこには――人間とは異なる"印"がある。
彼女は、それに艶然と微笑んだ。