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諦観

 展示会の前日。

 街の空は、いつもより薄暗い雲が低く垂れ込み、風がひやりと冷たかった。

 町の大通りを歩く市民は、誰もが「明日はついに隣国との文化交流が始まる」と口々に期待を囁いている。

 しかし――領主邸の中では、晴れやかな空気とは程遠い重苦しさが漂っていた。


 「駄目か……もう時間切れだ」


 領主グレイヴ・ヴェルデッティは、机を力なく叩き、深い嘆息をつく。


 積み上げられた書類の山には、ほとんど赤字で“不可”“無理”と走り書きされたメモや報告ばかり。

 魔香木をあれほど集めようと必死に手を尽くしても、正式なルートでは在庫が見つからず、代替の手配も落ち着かなかった。


 ラフェリアは父の横に佇み、顔を俯かせている。


 「ごめんなさい……私が交流会をしようだなんてことを提案してしまったばかりに……」


 彼女の言葉は震えていた。

 もう日没を過ぎ、展示会は明日の朝からだというのに、魔香木は必要量の半分以下しか確保できていない。


 「どうにか間に合う方法は本当にもうないのかしら……」


 ラフェリアの瞳には涙の粒が浮かんでいた。


 領主は唇を結び、窓の外の闇を見据える。


「残念ながら、ここから挽回する手段は無いだろう。伯爵側は“素材が足りないなら仕方ない”と表向きは同情を装いながら、違約金の話をする準備に入っているだろうな……」


「……何度か伯爵に直接交渉しようとしたが、“残念ですが契約通りに”と微笑まれて終わりだ。こんな形で負けを認めるのか……」


 彼は拳を握りしめ、悔しさに耐えている。

 ラフェリアはその肩にそっと手を添えるが、自分自身も震えを止められない。


 「街の人たちが明日を楽しみにしているのに、私、どうしたら……」


 ――そのとき、使用人が小走りで部屋へ駆け込んでくる。


 「領主様、ラフェリア様。魔香木を運搬するはずだった馬車が、またしても事故に遭いました。ジークハイン殿が“危険な山道を使えば近道”と言ったそうですが、途中で車軸が壊れ、積み荷が間に合わない状態です!」


 報告を受けた瞬間、領主は顔を歪める。


「なんだと……もう取り繕う余地すらないな。どうしてこう何度も偶然が重なるんだ」


 ラフェリアは絶句して言葉を失う。この瞬間、明日行われるはずの実演が完全に不可能になったように思われた。何度も可能な限りの対処を重ねてきたが、その度に邪魔が入っている。もはや偶然では済まされない。


 「もう駄目なの……?」


 ラフェリアの声は、悲痛な響きを帯びている。


 “街のことを想って提案したけれど……私は何もしないほうが良かったのか……”――そんな悔いが胸を抉る。


 「ライン殿は、あれから一度も姿を見せてくれないし……」


 ――その名を呼んだところで、ラインは一切姿を見せない。

 昨日も彼を探し書店に行ったが見つからなかった。街角にもいない。どこかで動いていると信じたくても、心が折れかけるラフェリア。


 涙がこぼれそうになるのをこらえる彼女に対し、領主は「まだ朝まで時間はあるが……覚悟だけはしておきなさい」と苦い顔で呟く。


その言葉には絶望の色が滲んでいた。


 


 同じ夜、伯爵ラシェットは屋敷近くの貸しスペースで、ジークハインら部下と密やかに集まっていた。

 薄明かりのランプに照らされる伯爵の顔は、もはや勝利を確信しているかのようだ。


 「領主側は完全に詰んだようだな」


 伯爵がふっと笑みを漏らす。


「魔香木が足りず、確保しようにも各商人が高値をふっかけるだけ。もう今からじゃ買い込めない。運搬隊も事故続き。明日の実演は不可能で、違約金は頂きだ」


 ジークハインは軽く肩を揺らし、「ええ、そのとおり。もし魔香木を揃えられたとしても、俺が護衛を口実に混乱を起こせるさ。だが、そもそも今夜の時点で素材が届いてない時点で間に合うわけがない。

 領主や娘は大恥をかくだろうな」


 「うむ、まさに理想的だ。

 あの娘が善意に胸を膨らませている姿を見るのは愉快だったが、明日すべてが水泡に帰すのを見れば、もっと面白いものが見られそうだ。

 まあ、我々は“残念ですね”と同情を示せばいいだけ。契約条項に従って違約金を支払わせる。領主がどれだけ必死になろうと、この時間から逆転は無理だろう」


 伯爵は鼻歌交じりに、書面をめくる。


「あとは朝になったら会場に顔を出し、職人たちに“領主が素材を用意できなかったので作れませんね”と落胆させる。市民は困惑、領主は名誉を失う。

 これから先、領主が外部に頼るしかない状況になれば、私がさらなる条件を突きつけることもできる。嫌でも譲歩せざるを得ないわけだ」


 その言葉にジークハインは相槌を打ち、部下たちも嘲るように笑う。


 「領主はまともな対抗策を取れなかったんだ。せいぜい悔しがれ。俺たちが今日まで完璧に妨害してきた苦労がようやく報われるな」


 伯爵の口元は、薄暗いランプの中で冷たい光を宿したように見える。


 「さて、明日の朝が楽しみだ。多くの市民が集まる前で“領主の無能”と“私の気遣い”をアピールすればいい。違約金は当然の報酬、そして次の交渉で、あの娘をさらに窮地に陥れても構わない。

 ふふ……誰が善人面で救うというのか? その余地などないさ」


 そして、彼らの笑い声が重なり合う。

 闇に溶けるその嘲笑は、まさに勝者の余裕を表していた。


 


 同じ夜、ラフェリアは自室の窓辺で月を見上げながら、俯いていた。


 「明日の朝になっても、魔香木が足りないままなら……」


 想像するだけで胸が苦しく、涙が零れそうになる。

 また、お付きの者が「進展ありませんでした」と報告してくる姿が頭に浮かび、血の気が失せそうだ。


 でも、彼女は必死に歯を食いしばる。


「ライン殿は『焦らなくていい』と言っていたが、もうここからできることはないでしょうし……」


 限界の中で、かすかな信頼にすがっている。だが普通の対応ではもう打開できない――お父様に言われた「覚悟をしておきなさい」という言葉が胸に突き刺さる。


 (これ以上、皆を落胆させたくない。

 街を幸せにしたいって思いで始めたのに、こんな形で終わったら、私は……)


 声には出さず、自分に問いかける。

 レイヴンクロウ隊のような華やかな勇気が自分にあれば、もっと違う動きができたのだろうか。いや、今さら何を思っても無意味なのに、それでも想像せずにはいられない。


 夜は静かに更けていく。

 領主邸の廊下では、衛兵たちが異様なほど沈んだ面差しで往来している。誰もが「もう失敗するかもな」と諦めかけている空気が漂っていたーー



---


 そして朝。


 日付が変わると同時、町はざわざわと騒がしくなり始める。展示会の設営が行われる広場には、大勢の市民が早くも興味を示し、「どんな工芸品が見られるのか」「隣国の珍しい物産が買えるのか」と期待に胸を弾ませている。


 その裏で領主邸は混乱真っ只中。わずかでも入手できるはずだった魔香木も急な報せが相次ぎ、夜明けになっても魔香木は届きそうにない。


 「あぁ、やはり間に合わなかったか……」


 廊下に立つ領主は虚ろな眼差しで呟く。ラフェリアもその姿を見て目を伏せる。



 そんな悲愴な雰囲気が漂う中、伯爵サイドはまさに出陣するように、着飾った衣装で会場へ向かい始めるていた。


 「さあ、我々が優雅な笑顔で登場すれば、領主は惨めな失敗を晒すことになるだろう」


 伯爵は心中で勝ちを確信している。


「では、あの娘に“お気の毒でした”とでも言ってやろうか」

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