深刻
薄曇りの空に淡い光が差し込む、朝。
街の通りはいつもより少し活気づいているように見えた。
数日後に控えた隣国との文化交流――多くの商人や市民が、その催しを心待ちにしている。
町の広場では、まだ設営も始まっていないというのに「隣国の工芸が見られるらしい」「異国の品物が手に入るそうだ」という噂でもちきりだ。
だが、その一方で 「あと数日だってのに、魔香木がない?」「領主様は大丈夫なんだろうか」と開催を心配する声も増えてきている。
その朝、領主邸の奥まった執務室には、不自然なほどの沈黙が漂っていた。
室内にいるのは領主グレイヴ・ヴェルデッティと、その娘ラフェリア・ヴェルデッティ。
机の上には書簡や契約書が山積みになり、それらに目を通す領主の表情は険しい。
領主は机にかじりついたまま書簡や報告書を読み漁り、眉をひそめっぱなしだ。
隣国との文化交流――魔香木を使った工芸の実演が大目玉となるはずだったが、当の素材がまるで手に入らない。いつもならそれほど苦労するものではないのに、今回はあちこちで門前払いを食らうし、やっと在庫を持っている商人がいても途方もない高値を吹っかけてくる。
「……まだ、まともに確保できていないのか」
グレイヴが低く呟き、紙の端を指先で抑えつける。
「通常であれば、もう搬入が始まっていてもおかしくない。魔香木は確実に存在するはずなのに、何故ここまで調達できないのでしょう……」
ラフェリアは握りしめた手を胸元に当て、苦しそうに吐息をつく。
「昨日も、普段付き合いのない商人の方を伺ってみたのですが……“在庫がない”や“他の買い手がすでに押さえている”と言われ、どうしても手に入らなくて……」
彼女の声には不安が混じっている。かつては外へ出ることすら許されなかった娘が、精一杯走り回った結果がこれだと思うと、悔しさがこみ上げる。
「伯爵はとても誠実そうに見えました……確かに用意している職人や工芸品は素晴らしいものですし、彼自身“私たちにとっても有益な交流にしましょう”と笑顔で言っていました。
でも、いざ蓋を開けてみれば、魔香木は入手困難となっていました……」
ラフェリアは、肩を小さくすぼめながら俯いていた。
「隣国との文化交流には、魔香木がどうしても必要だ。
契約書にも明確に『領主側が素材を期日までに用意する』と記されている。
ここまで高額な違約金まで設定されているとなると……」
グレイヴは歯ぎしりしかけて、何とか自制する。
「ラシェット伯爵は違約金は“万が一の備え”だと説明していたが、まさかここまで魔香木が手に入らないとなると”意図的な妨害”としか……」
言葉が途切れ、弱々しく目を伏せる。
「私が提案したから、お父様も乗り気になってくれて……町の人たちも期待しているのに、こんなことになってしまうなんて……ごめんなさい……」
領主は娘の肩を見やり、悲痛な面持ちになる。
「お前に責任があるわけではない、ラフェリア。
この催しそのものは良いアイデアだし、成功すれば市民が笑顔になれる。
だが……このような手法で我々を貶めようとしてくるとは……それを見抜けず、私も領主として不甲斐ない」
そこへ軽く扉をノックする音。
執事が申し訳なさそうに入ってきて、「魔香木の件で、また一人の商人が断りを入れてきました。今からでは在庫を確保できないとのことです。どうしますか……」と暗い報告をする。
領主は苦痛な顔をしつつも沈黙を保ち、ラフェリアは再びうつむいた。しかし、ふと"彼"に相談したことを思い出した。
「お父様、私、ライン殿に相談してみたんです。準備が必要だそうで、すぐには成果が出ないかもしれませんが……ライン殿は“焦らなくていい”と仰ってました」
その言葉を思い返すたび、ラフェリア自身も“本当に間に合うのか?”という不安に駆られる。だが、頼れるのはもう彼しかいない気がする。
領主は微かに目を伏せ、「ライン殿か……以前、レイヴンクロウ隊にも助言してくれたという話を聞いた。信頼できる男なら、何か策を編み出してくれるかもしれない。だが、イベントまではもう僅かだぞ……この状況で何ができるというのか……」
「はい……でもライン殿には何か考えがあるようでした。明日もう一度、ライド殿の元を尋ねてみます……」
ラフェリアはそう答え、拳をぎゅっと握りしめる。闇の中を手探りで進むような心境だが、今は信じて待つしかない。
—
一方、街の一角。 ラシェット伯爵は豪華な馬車から降り立ち、淡い笑みを浮かべて、城下町の雰囲気を眺め渡していた。
通りには果物屋や雑貨屋が並んでいるが、伯爵はそこには目もくれず、軽い足取りで路地へ向かう。
「最近、領主側が必死に動いているようだな」
静かに呟き鼻で笑う。
「魔香木を集めようと躍起になっているようだが、手に入れるのは不可能だろう。それとも、我々が買い占めた在庫、あるいは法外な値を提示した商人たちの要求を飲むか……」
「それにしても……あの領主とその娘は無垢すぎる。印象だけで相手を善人と思い込んでしまう、私が徹底的に嵌めようとしているなどと夢にも思っていない顔だったな」
伯爵は薄く笑う。
「間抜けな領主も今ごろは嵌められたことを察しているだろうが、今更何をしようと、こちらの盤面を崩せるはずがない。余計な干渉がなければ、後は予定通りだろう」
そう言いながら、伯爵は再び鼻歌混じりに路地を進んでいく。商人たちにはあらかじめ根回しを済ませ、魔香木の在庫を表向き“すでに完売”にし、買い占めた分は隠しておいて、いざ領主が駆け込んでくれば法外な値で売りつける。
時間切れでもいいし、無理に高額を支払ってくれればそれだけ利益が増す。どちらにせよ伯爵に損はない計算だ。
「これで領主と娘の無力さを思い知らせてやれば、次の政治的な要求を通す下地ができる。ふふふ……」




