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契約

 展示会まで残りわずかの日々、オルグリアの街には穏やかな晴天が続いていた。 人々は領主とラフェリアが企画する「異国との文化交流」に期待を寄せ、広場や市場では自然と話題が増えている。誰もが活気づいた雰囲気を楽しみながら、これから来るであろう新しい風を待ち望んでいた。

 だが、ラシェット伯爵はそんな幸福な空気を眺めながら、別の思惑を胸に秘めていた。 以前、領主邸での打ち合わせを終えた伯爵は、その後街の片隅に借りた一室で密かに打ち合わせを重ねている。床に敷かれた古い絨毯、窓から見える錆びた屋根……表向きは何の変哲もない借家だが、伯爵にとっては計画の司令室も同然だ。

 その部屋で、伯爵は椅子に腰掛け、手にした小さな契約書の写しを眺めていた。

 「魔香木……この特産品さえ領主が確保できなければ、それでいい」

 ふと、口元に微かな笑みが浮かぶ。先日契約を交わした際、領主は普通に素材を揃えられると思い込んでいたようだが、伯爵は既に裏社会の商人たちと手を組み、魔香木の供給ルートを押さえ、値段を釣り上げる算段を着々と進めている。


 邸宅から少し離れた工房に、伯爵の部下――闇仕事を請け負うジークハインが現れた。 彼は目に深い傷痕を持ち、堂々とした体格をしている。異国から派遣された“護衛”という名目で当日動く予定だが、その実、交流会を台無しにするための手足となる男だ。


 窓際で佇むジークハインは、通り過ぎる荷馬車を見下ろしながら低く呟く。「素材搬入ルートは把握した。道は細く、代わりのルートが限られているな。期日ギリギリになってわざと障害を出せば、運搬は遅延する。領主側がどう対応しようと、普通の判断では間に合うまい」


 伯爵は「そうか」と頷き、鼻先で軽く笑う。


「領主たちは展示会に夢を抱いているし、ラフェリア様は特に善意に満ちている。美しいことだ。だが、彼らが思い描く“善良な交流”は、ほんの少し仕掛けを動かすだけで崩れる。私はあの契約書に巧妙な条文を忍ばせた。素材が揃わないだけで違約金が発生し、実演失敗は全て領主の責任だ」


 ジークハインは椅子の背にもたれかかり、「そりゃ面白いな。領主が普通の対応……つまり常識的な交渉や予備計画を試みても、間に合わないよう緻密に時間を消費させるんだろう?」と笑う。

 「まったく、上品な顔をして汚い手を使うものだ。いや、汚いというより巧妙か」


 伯爵は、まるで緻密な絵図を眺めているように手元の書類を指でなぞる。「ええ、何も血を流す必要はない。無用な脅迫や大惨事ではなく、単に素材が間に合わず、職人が『これでは作れません』と首を振るだけでいい。見かけ上は不可抗力か領主の準備不足にしか見えない。

 街は一瞬戸惑い、領主は責任を問われ、ラフェリア様は大きな失望を味わう。彼女が期待していただけに、その痛みは深いだろう」


 街中では、ラフェリアがときどき姿を見せている。 彼女は果物店や雑貨屋で人々と気軽に話し、商人から聞いた隣国の工芸品の素晴らしさを語る。その純粋な瞳には不安の影など微塵もない。今のところは……。

 しかし、近日中に素材不足や準備の異常な高騰が噂になれば、ラフェリアも「どうしてこんなことに?」と疑問を抱くはずだ。


 すでに伯爵の手先が小さな不審な噂を流し始めている。「どうやら魔香木は今年不作らしい」「領主が慌ててるらしい」など、微妙な話が通りで囁かれ、ほんの僅かな違和感を市民に植えつける。


 「仮に特別な方法を使い素材を用意できたとしても……おまえがいるからな」

 ジークハインは唸るように笑い、「じゃあ、俺は当日、警備任務と言い張って運搬隊を潰すとしよう。彼らの移動手段を潰し、あわよくば素材を奪取する。時間がかかり、結局間に合わない頃、伯爵、あなたは悠々と“残念でしたね”と言うだけだ」


 伯爵は膝の上で手を組み、「ああ、『私も全力を尽くしましたが、あなた方が素材を用意できなかったことは残念です』とね。そうなれば違約金は確実に手に入る」

 

 伯爵は契約書の控えを机の上で指で弾き、「もし領主が奇跡的に素材を揃えたとしても、他の不都合を起こす選択肢はいくつかある。だが、まずはこの最大の罠、『素材なしでは実演不可能』という核心を機能させるべきだね」


 ジークハインは肩を揺らして笑う。「それで、万が一、全て揃ったらどうする? 領主側が有能な助言を得て、計画を切り抜ける可能性は?」


 伯爵は軽く鼻を鳴らす。「それなら次のプランに移るまでさ。小規模な混乱を引き起こせばいい。我が方に技術者がいるといっても、彼らを即座に動揺させる脅しや、別件での妨害が可能かもしれない。

 だが、今は何も焦る必要はないよ。魔香木という条件が、まず達成不可能だ。絶対に間に合わない」


 外では、夕暮れの光が街角を赤く染め始める頃だろう。

 ラフェリアが窓辺で不安そうに空を見上げる姿が思い浮かぶ。彼女は「きっと何とかなる」と自分を励ます一方、妙な噂や商人の困惑を耳にして、心がざわつき始めている。 伯爵はその様子を想像して、静かにほくそ笑む。「希望は高ければ高いほど、絶望したときの衝撃は大きい。俺たちはただ、確実な落とし穴を用意しておけばいい」


 ジークハインは「了解だ。俺も準備を進めておく。警備名目で入れば、領主の衛兵たちを上手く誘導して素材運搬を遅らせられるだろう」と椅子から立ち上がる。


 伯爵は帽子を取り上げ、被り直す。「ああ、その際はなるべく穏便にな。混乱は起こすが、誰も明確に非難できぬ形が理想的だ。領主もその娘もお人好しの善人ゆえ、騙すのは容易い」


 部屋を出ていく二人の影が、薄暗い廊下に伸びる。

 伯爵は満足げに笑みを浮かべ、道端で誰もが期待する催しを、裏で台無しにし、違約金と名誉毀損を手中に収める日を楽しみにしている。


 穏やかな街の表情の裏で、善意から生まれた計画が歪み、苦い味を生む準備が進んでいた。

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