謝礼
オルグリアの朝。
陽光が街を優しく照らし、昨日までの賑わいを少し残しつつも、穏やかな時間が流れている。
大事件の嵐が過ぎた今、領主邸は久々に落ち着きを取り戻していたが、その広い廊下や応接室には、特別な空気が漂っていた。
その日は、Aランクパーティー「レイヴンクロウ隊」が領主、グレイヴ・ヴェルデッティの屋敷に招かれていたのだ。
レイヴンクロウ隊の四人――ガルフォード、セリーヌ、ロウェン、リーネは、格式ある家具や美しい壁掛けに軽く目をやりつつも、内心の緊張を隠せないでいる。
魔獣騒動時、ラフェリアが誘拐され行方不明になった中、彼らは思いもよらぬ行動で事態を覆した。
騎士団も冒険者も分散する中、魔獣の対処をしつつ、ヴァランのラボを強襲。
そしてラフェリアを救出した――その華々しい成功が、この厚遇へと繋がったのだ。
「レイヴンクロウ隊の皆さん、改めて感謝いたします」
低く落ち着いた声を放つのは領主、グレイヴ・ヴェルデッティ。
その後ろに立つのは娘、ラフェリア・ヴェルデッティ。
父と娘は、救出されたラフェリアの無事を確認できた今、こうしてパーティーに正式なお礼を述べるため、丁寧に言葉を選んでいる。
ラフェリアは美しい少女で、長い睫毛が微かに伏せられ、静かにパーティーを見つめていた。
この場に至るまで、彼女は自室で回復と安静を保っていたが、今日こうして自分の声で感謝を伝える機会を得たのだ。
「私たちは、当時、魔獣騒動で散り散りになった騎士団や冒険者と違い、奇襲的な行動が取れたのが勝因です」
ガルフォードは苦労した末の勝利を思い出し、言葉を紡ぐ。「だが、その判断の裏には、助言をくれた存在がいました。もっと早く紹介したかったのですが……」
まだラインの名を口に出さぬうち、セリーヌが引き継ぐ。「領主様、ラフェリア様、実を言うと、私たちがラボ強襲に踏み切れたのは、ある仲間の情報があったからなのです。彼は剣も魔法も持たずに、情報と策略で私たちを導いてくれました」
ロウェンも頷く。「騎士団が不在の隙を突いた行動や、魔獣の誘導経路、ラフェリア様が囚われている可能性の高いポイント……そういった全ての糸口を示してくれたのが、彼なんです」
ラフェリアは目を丸くする。
「そんな方がいらっしゃったのですか? でしたら、どうしてその人は今ここにいないのですか?」
リーネが切なげな眼差しで微笑む。「彼は臨時の協力者で、普段はあまり表に出ない人なんです。でも、あの危機的状況でラフェリア様をお救いできたのは、間違いなく彼の力があったからです」
グレイヴは腕を組み、考え込むような表情。
ラフェリアは、「その方に、直接お礼が言いたいわ」と静かに呟く。
誘拐され、闇のラボに囚われた時の恐怖と絶望が、記憶の底から湧き上がる。
「私……本当に怖かったんです。光が見えない闇の中で、助かる望みなんてないと思っていた。けれど、レイヴンクロウ隊が私を救い出してくれた……でも、他にも助けてくれた方がいたのでしたら、なおさら感謝を伝えなきゃいけないわ」
父はその娘の発言を聞いて深くうなずく。
「そうだな、私からも直接感謝を述べたい」
「ラインはこういう場が苦手でして⋯」
「あまり自分が感謝されることに慣れていないみたいよね」
「あいつは自分の功績を人に譲るようなやつなんですよ」
パーティーメンバーがそれぞれ、ラインが前面に出ない性格であることを伝えると、領主とラフェリアは少し残念そうな顔をする。
翌朝、ラフェリアは父に問いかける。「お父様、昨晩はレイヴンクロウ隊の皆さんがお越しになったけれど、ライン殿には会えなかったので直接お礼を言いたいわ」
グレイヴは苦笑しながら、書類に目を落とす。「ああ、レイヴンクロウ隊に次はライン殿と共にと伝えておいた。感謝していることも伝えておいてくれ、とな」
ラフェリアは下唇を噛んだ。
せっかく自分を救った陰の功労者がいるなら、直接会って礼を言いたい。
「……すぐにお礼を言いたいのに」
領主は娘を諭すように、「焦らなくても、レイヴンクロウ隊がまた機会を作ってくれるさ」と微笑むが、ラフェリアは納得しきれない表情を浮かべる。
そこで彼女は思いつく。
(なら、私が自分で探してみればいい。危険はもうないし)
こうして、ラフェリアはこっそり屋敷を抜け出し、街中でラインを探す決意を固める。
これまでは狙われる危険があって外出を避けていたが、今なら大丈夫。
ラフェリアは美しい姿のまま、控えめな装いで街に降り立ち、ラインと呼ばれる助言者を探して人々に尋ね始める。
だが、聞いて回っても、周りにはあまり彼の功績は伝わっていない。
人々は「レイヴンクロウ隊が街の危機を救った」と称賛するばかり。
ラインという名を出しても、「裏方らしい」「噂でしか聞かない」「剣も魔法もないんだとか?」と曖昧な返事しか得られない。
一人の商人が「ラインさんなら、あの角の果物屋で時々見かけるよ」と教えてくれる。
冒険者見習いが「剣も魔法もないらしいけど、妙に頼りになる存在だって聞いた。どこにいるかは知らないな」
そんな断片的な情報を少しずつ積み重ね、ラフェリアは行き先を探しあぐねた末、小さな書店へ足を向ける。
そこに、ラインがよく立ち寄ることがあるという噂を最後の頼りに。
書店は路地裏のひっそりした場所にあり、店内は薄暗く静かだ。
店主に声をかけ、「すみません、ラインという方を探しているのですが……」と聞けば、店主は軽く笑って「あそこにいる彼がそうだよ」と指差す。
指さされた方向に視線を向けると、魔力理論書が並ぶ棚が目に入る。
奥の隅で、難しい本を手にし、息を吐いてページをめくっている男性が目に映る。
ラフェリアは一瞬躊躇する。
あの方が“ライン殿”?
外見はごく普通で、英雄らしい雰囲気もない。しかし、困難な本に挑戦し、溜息をつくその姿は、ある意味で地道な努力を感じさせる。
ラフェリアは帽子を少し下げて気持ちを整え、意を決してラインに近づく。
「すみません……あなたが、ライン殿ですか?」
小さな書店の片隅、魔力理論書を抱えたまま立っていたラインが振り向くと、帽子を目深に被った美しい少女――ラフェリア・ヴェルデッティが視界に入った。
「はい、私がラインです。ラフェリア様、これは……随分と無防備なお出かけですね」
彼は丁寧な言葉づかいを崩さず、だが親しみを感じさせる柔らかな微笑を浮かべる。
相手が領主の娘であることを考えれば、通常ならもっと畏まるべきだが、ラインはあえて程よくフランクに接し、相手が息苦しくならない距離感を選ぶ。
ラフェリアは少し面食らった様子。「ええ、今は街を自由に歩けるようになったので。あなたが私を救う後押しをしたと聞き、直接お礼を伝えたくて参りました」
「光栄ですね。ですが、私など、表で活躍する方々の陰で少し情報を整えただけでして」
ラインは肩をわずかにすくめ、目を細める。「あれほど華々しい武勇伝に紛れた地味な助言者など、記憶に留めるほどでもないでしょう。過剰なお礼はご遠慮しますよ」
ラフェリアは首を振る。「いいえ、私、本当に感謝しているのです。あなたがいなければレイヴンクロウ隊は、あの状況で私を確実に救える行動を取れなかったかもしれない、と彼らが話していました」
「そうですか……それなら、彼らの勇気と行動力を褒めてあげてください。私に渡るはずの報酬や褒美があるなら、どうかそれは街の再建や人々のために使っていただきたい」
ラインはわずかに片手を上げ、控えめな制止の仕草をする。「私には剣も魔法もありませんからね。せめて、この街がより豊かで安全になるような形で、その恩恵を回していただけると嬉しい」
ラフェリアは、その聖人めいた態度に困惑と感心が入り混じった表情だ。「本当に何も求めないのですか? あなたほどの策士であれば、もっと自分を有利にできるはず……」
「ラフェリア様、私が望むのは、ここに暮らす人々が笑顔で過ごすことです。あなたがこうして街中を散策できるほど安全になった。それこそ、私が裏から紡ぎたかった未来の一端。報酬を受け取るよりも、今こうしてあなたがお元気に言葉を交わしてくださることが、私には何よりの報いですよ」
その言葉に、ラフェリアは思わず微笑む。
「随分と理想的なお考えですね。まるで学者か詩人か、いずれにせよ不思議な方。おかげで、私、少し気が楽になりました。私が自由になれたのはレイヴンクロウ隊と、そしてあなたのおかげ。ならば、私も街に何かできることを考えてみたいわ」
「ええ、それは素敵な考えです」
ラインは本を抱え直し、わざと軽い冗談を混ぜる。「もし街で面白い果物を見つけたら教えてください。この本ばかり読んでいると頭が堅くなりそうで、甘い果物で気分転換も悪くありません。あなたの見つけた新しい楽しみを、私も少し味わってみたいと思います」
ラフェリアは軽く笑みを浮かべ、「それくらいなら喜んで。最近果物屋で見つけた季節限定の蜜柑が、とても甘くて、皮が薄く剥きやすいんです。あなたにもぜひ味わってほしいわ」と声を弾ませる。
「では、また街でお会いしたとき、その蜜柑の味について教えてください。私は裏方ですが、こういった日常的な楽しみを聞くことで、さらに街を豊かに支えるアイデアが浮かぶかもしれませんから」
ラインは柔和に微笑み、軽く頭を下げる。
彼女が領主の娘だとはいえ、過度な畏まりを避け、人間らしい友好を示すことで、ラフェリアの心を和ませる。
「本当に、不思議な方……」
ラフェリアは頬をわずかに染めながら、帽子のつばに触れる。「あなたとこうして話せて良かったわ。また、街中でお会いしましょう。そのときは、もう少し素敵な果物屋の情報も用意しますね」
「楽しみにしております」
ラインは丁寧な口調を崩さず、しかし軽やかな応対で応える。
ラフェリアは一礼して書店を出ていく。
ラインは残された本を見つめながら、わずかな満足感を胸に収める。
領主と直接やり合うより、ラフェリアとこうして人間的な交流を築くほうが、後々役立つかもしれない。




