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暗慕

ミレイユは街角から街角へ、建物の陰から木立の影へ、静かに尾行を続けた。

ヴァランの構成員たちは迅速かつ用心深い。娘を連れたまま、むやみに人目につかぬよう、回り道を選んでいるらしい。


領主邸からやや離れた路地を抜け、貧民街の外れを通り過ぎる頃には、東の空が淡く朱を帯び始めていた。

だが、彼らはそこで歩みを緩めない。視界に捉え続けるのが精一杯なくらい、彼らの動きは軽やかで、紛らわしいルートを選んでいるようだった。


(油断できないわね)


ミレイユは適度に距離を保ち、物音を立てぬよう細心の注意を払う。

万が一見つかれば、ラボへの手掛かりが全て失われてしまう。ラインが表でパーティーに助言し、魔獣対策を行っている間、彼女は一瞬たりともミスできない任務を背負わされているのだ。


しばらくして、連れ去り犯たちは都市外れの林に入り込んだ。

大通りを避け、細い獣道や草むらを踏み抜く。ここは普段人が通らない、小動物や野鳥が飛び交う程度の場所だが、今はヴァランの男たちが密やかに娘を運び、ミレイユがそれを尾行するための戦場だった。


やがて、何度か方向転換をした後、彼らはある地点で立ち止まる。

ミレイユは茂みの影に身を伏せて息を殺す。


男たちが小声で何かを話しているらしいが、風の音や葉擦れの音に紛れてはっきりとは聞こえない。

その代わり、かすかに金属が擦れるような奇妙な音が響いた。どうやら彼らは発声ではなく、特殊な道具を使って合図を交わしているらしい。


微小な金属片同士を擦り合わせて信号を送り合う仕組みなのかもしれない。

或いは魔力を帯びた小さな結晶を鞄の中で揺らし、その微振動を仲間に感じさせているのだろうか……特定は難しいが、人目に触れず合図を共有できる巧妙な方法だ。


その合図に応じるように、男たちは領主の娘を厳重に囲んだまま微妙に進路を修正し、特定の方角へと動き出した。

まるで、ある基準点に呼応して正確な方向性を示す羅針盤でも隠し持っているかのような反応だ。


同じく、ミレイユの背後からも、ごく微かな合図が届く。

こちらは乾いた枝を軽く弾くかのような、短いパチンという音。シャルロットが合流ポイントまで来た合図だろう。


ミレイユは振り返ることなく、懐で小さな木片を指先で弾いて応答する。

これも音量と節を変えることで意味を伝える秘密の信号だ。長年の噂操作や裏取引で培った特殊な手信号は、姿を互いに晒さずとも連携を可能にする。


男たちが結晶や金属片で合図を、ミレイユとシャルロットが自然素材で偽装した音信号で意思疎通する中、闇夜の森に微細な交信の網が張り巡られていた。


林を抜けるにつれ、地形が微妙に変化していく。

わずかな高低差、苔むした岩、倒木が意図的に配置されたようなルート。ミレイユは距離を保ちつつ、男たちの足取りに集中する。


彼らが持つ特殊な合図手段――おそらく魔力で反応する小さな結晶や、金属片をこすり合わせて生じる特殊音――で進行方向を確定しているのかもしれない。


(よほどの手練れね、あの連中……)


後方では、シャルロットが例の合図でミレイユをサポートしているはずだ。

パチンという小さな音が、彼女が適度な距離で追跡支援中であることを示している。もし何かあれば、シャルロットは速やかに引き返してラインへ情報を伝えに行くだろう。


だが、その保証があっても、ミレイユは心中で微かな不安を拭えない。

ラインから今回特別な励ましやフォローがなかったことが胸に引っかかっているのだ。


雑念を振り払うように、ミレイユは枝葉をかき分け、慎重に足を進める。

緩やかな傾斜を登った先で、男たちが動きを止めた。一見ただの雑木林だが、彼らはまた音を立てず、何かの合図を使って方角を測っているようだ。


(さすがにそろそろラボが見えるはず……でも今の時点では何も見えない)


領主の娘ラフェリアを中心に、ヴァランの構成員がしっかりと固めている。

ラフェリアは抵抗しているのか、時折微かに身をよじるが、声は出せないらしい。彼女が恐怖と不安の中にいるのは明白だ。


(助けるのはパーティーの役目、私の仕事はあくまでラボの発見と資料回収……わかってる)


再び小さな金属音が響くと、男たちはさらに森の奥へ進み出す。

ミレイユは地形を記憶し、微かな獣道の特徴を頭に叩き込む。もしラボの位置を特定しても、特殊な入口があるなら後から戻るのは容易ではない。


音もなく進む闇の行列を見失わないよう、ミレイユは注意深くついていく。

そのうち、空気が僅かにひんやりし、茂みの密度が増した。森の深部で、魔力が漂うような感覚がかすかに漂っているような気がする。


視界が不自然にブレる。これは錯視魔法なのだろうか。


(これが隠蔽の影響……?)


ミレイユは足元の苔をゆっくりと踏みしめる。

視界の端が揺らめくような、風景がほんのわずかに歪むような感覚がある。


男たちも慎重だ。彼らは先頭の一人が微かな音を立てるたび、足並みを揃えて動きを調整している。


シャルロットとの合図は、さっきから止んでいた。

合流ポイントはもう過ぎたはず。ミレイユは内心で小さく息をつく。


(シャルロットは既に離脱して次の作戦に向かったのだろう。ここから先は私一人か……)


微かな不安が胸をかすめる。

表舞台でラインがどう動いているかはわからないし、パーティーが領主の娘救出に動くには時間がかかるだろう。魔獣対応で混乱する中、誰もこの森の深部にいる彼女に気を配ってはくれない。


しかし、ミレイユは自分に言い聞かせるように顎を引く。

任務は任務だ。


(技術資料を手に入れれば、ラインの計画が進む。その成果を得れば、私の存在意義も揺らがない。ここで成果を出さなければ、結局裏で命がけで動く価値が問われるわ)


男たちが自然の斜面を上りきると、奇妙な空間が広がった。

小さな落ち葉が舞う程度の静かな林なのに、視線を少し動かすと、木々の形が微妙に揺らめいて見える。


まるで風もないのに景色が水面に映る影のように歪む。

もし普通の追跡者なら、ここで方向感覚を失うかもしれない。


だが、ミレイユは慎重に一歩ずつ進み、男たちが特定の木の根元で立ち止まるのを見逃さない。

その木の根元には、わずかに空気が違う気配がある。なんの変哲もない地面が、一瞬だけ輪郭を揺らめかせたのを彼女は見た。


(ここが入口……?)


ヴァランの構成員は小声で短い言葉を交わし、何らかの小道具を使って地面か木の根に触れた。

すると、かすかな魔力の脈動が伝わってくるような気がする。


次の瞬間、背景の歪みが一部だけスッと解け、そこに人一人が通れる隙間のようなものが浮かび上がった。

ラフェリアを囲む男たちは、見えない扉を潜るように森の景色の“裏側”へと滑り込んでいく。


ミレイユは息を呑む。やはり錯視魔法が使われていた。

普通なら発見不可能な隠れ家だが、彼女は今、その場所を知った。


(これがラボ……なら、追わないわけにはいかないわね)


シャルロットは既に離脱したはず。

合図もないということは、ミレイユがこの位置と特徴を覚えるだけで十分だろう。


彼女は心臓が高鳴るのを感じながら、静かに前へ進む。

魔獣騒動で表が大混乱に陥る中、ここでミレイユは極限の任務に挑まねばならない。戻る場所はあるはずだが、今は突き進むしかない。


ラボ内部で技術資料を探し、最終的にはラインに渡さなければならない。


勇気を振り絞り、彼女は歪んだ景色の境目へ近づく。

気配を殺し、足音を隠し、視線を下げ、ギリギリの距離を保ちながら、ヴァランの男たちが消えたその狭間へと進んでいった。


ラボ内の薄暗い通路で、ミレイユは背を壁に預けながら、隠し持った紙片をそっと握りしめた。

そこには技術資料の断片的な内容が走り書きされ、すでに懐にしまったオリジナル資料の補助的メモとしてまとめている。


周囲の気配に耳を澄ませつつ、彼女は自分に言い聞かせた。


(ラインは確かに「無理はするな」と言った。でも、彼は表で魔獣対策とパーティーへの助言で手一杯だろう。誰も私を助けには来ない……)


酸っぱい思いが胸の奥に広がる。

あの時、ラインは冷静な口調で指示を出し、最後に一言「無理はするな」と付け加えた。


それが本気で彼女の身を案じた言葉なのか、それとも形式的なものなのか、今となっては判断できない。


けれど、彼女は知っている。

ここで任務を中途半端に放り出せば、自分が裏方として存在する意味が揺らぐことを。


過去の苦い記憶や、裏社会で生き続けるための必死な努力が彼女を駆り立てる。


(無理をするな、か……それは私がここで任務を放棄してもいいという意味じゃない。成功しなければ、私には存在価値がない。表で笑って、パーティーを救っているラインのところへ戻る顔がない)


彼は表で忙しい。

パーティーと冒険者たちを動かし、魔獣による致命的な氾濫を防いでいるはずだ。わざわざ裏側の自分のことを考えている余裕などないだろう。


(今は気遣いを求めても仕方ない。誰も来ないなんてことは今までもたくさんあった⋯⋯)


ミレイユは歯を食いしばった。

もちろん、ラインは私を信頼している……はず。無理をするなと注意されたけれど、それは任務を投げ出せる言い訳にはならない。


中途半端に退けば、技術資料は手に入らず、ラボの秘密も解明できない。

自分の価値は大きく損なわれる。


(私がここで結果を残せば、ラインもシャルロットも、私が必要な存在だと改めて思い知る。失敗すれば、私は影で終わる)


通路の向こう、ヴァランの見張りが足音を立てて近づいてくる。

引き返せる経路が見つからず、ここで身を潜めてやり過ごすしかないのだ。


心臓の鼓動が速まる。

ミレイユは資料を懐に押し込み、刃物を忍ばせた手で静かに息を整える。


無理をするなとは言われても、今まさに無理をしなければ生き残れないし、評価も手に入らない。


(私が頑張らないと。ここで逃げれば、裏方としての地位が揺らぐ。ラインが表で輝く影で、私が堂々と裏を支え続けるには、これを成功させるしかない)


影の中で決意を固め、ミレイユは音もなくラボの中へ入っていった。

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